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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
終焉の救済
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澱のこと

 新しいノートを買った。

 いつも使っているのと同じ種類の、方眼紙のノートだった。文房具店で同じものを買って、家に帰って表紙に日付を書いた。三月、と書いた。

 新しいノートを前にして、菅野はしばらく何も書かなかった。

 最初の一行を書く前に、前のノートを最初から読み返した。

 十一月の朝から始まって、三月の夜まで。四ヶ月分の記録だった。

 読みながら、菅野は自分がどこを見ていて、どこを見ていなかったかを、改めて確認した。

 柏木について。

 「確認・未了」という項目を、六度書いていた。六度書いて、六度先送りにした。同情が先にあって、確認する前に結論を出していた。

 その六度が、湊人の逮捕状請求が動くまでの時間に、影響したかどうか。

 菅野には分からなかった。

 分からないまま、事実として残った。

 次の仕事では、同じことをしないようにしたいと思った。ただし、同情しない人間になることはできないとも思った。

 その両方が、正直なところだった。


 午前中、菅野は汐里について、最後の確認をしようと思った。

 確認、というよりも、整理だった。

 この四ヶ月で、汐里という人間について分かったことを、順番に並べた。

 十五歳。予備校でエメラルドグリーンの色を好きになった頃。柏木と同じ時期に予備校にいた。誰かの話を聞くことが上手な子だった。

 十六歳。父の会社が倒産した。

 十七歳。両親が失踪した。一人になった。それでも高校を卒業した。卒業式の前日に、春を考えていた。

 十八歳から二十一歳。一人で生活した。専門学校には行けなかった。南区に来た。翠になった。エメラルドグリーンの髪を選んだ。好きな色だから、という理由で。

 二十三歳。お金を貯めていた。来年の春の計画を立てた。隣県の中村幸枝のところへ行こうとした。貫井から切られた。藤田を断った。礼香に言われた言葉を受け取った。湊人を拒絶した。

 そして十一月。

 ごめんなさい、というメッセージを湊人に送った。その後、スマートフォンが消えた。

 路地で発見された。顔が整えられていた。エメラルドの髪が、地面に広がっていた。

 菅野はそこまで書いて、ペンを置いた。

 足りないことがあった。

 この年表には入りきらない時間があった。

 汐里がどんな詩集を読んでいたか。好きな食べ物は何だったか。一人でいるとき、何を考えていたか。笑い方が不器用だったというが、どういう不器用さだったか。

 それらは、誰も知らないまま終わった。

 誰も知らないままであることを、菅野は認めた。

 知ることができなかった部分が、知ることができた部分と同じくらいあった。

 それが、人間について知ろうとするということの、正直な姿だった。


 昼過ぎ、菅野はかつて柏木が働いていたビルの前を通った。

 用事があったわけではなかった。ただ、通りかかった。

 七階を見上げた。フロアの端、窓際。誰からも見えない死角。

 今、そこに誰が座っているのか、菅野には分からなかった。

 柏木が逮捕されて、その席が空いた。別の人間が座っているかもしれなかった。あるいは、まだ空いているかもしれなかった。

 組織の端に追いやられた場所。頼まれすぎている方がまだいい、と言った男がいた場所。

 菅野はビルの前を離れた。

 その場所が、柏木という人間を作ったわけではなかった。ただ、その場所が、柏木という人間の日常だった。

日常の形が、人間の形を帯びる。

 菅野はそのことを、この四ヶ月で改めて学んだ気がした。


 夕方、菅野は遠藤に短い電話をした。

 「一つだけ確認させてください」と菅野は言った。「柏木は今、どんな様子ですか」

 遠藤は少し間を置いた。「安定しています。暴れているわけでも、塞ぎ込んでいるわけでもない。ただ」

 「ただ」

 「食事のとき、毎回リンゴを頼むということです。差し入れで」

 菅野は少し止まった。「リンゴを」

 「はい。それだけが、いつもと違うことだということで、担当者が気にしていました」

 菅野は「そうですか」と言って電話を切った。

 リンゴ。

 あの夜、菅野が食べたリンゴ。白い果肉の、季節の終わりの甘さ。

 柏木が毎回リンゴを頼む理由を、菅野は訊かなかった。

 訊く必要がなかった。


 夜、菅野は新しいノートを開いた。

 最初の一行を書いた。

 「朝倉汐里・二十三歳・名前を持っていた・エメラルドグリーンが好きだった・来年の春を目指していた」

 一行ではなく、三行になった。

 書いてから、少し考えた。

 この仕事が終わったわけではなかった。裁判が始まる。菅野が証人として呼ばれる可能性もあった。

 ただ、ここで一度、何かが区切れた感覚があった。

 竹内フミの依頼を受けた日から、今日まで。

 名前のない女が、名前を持った。その名前が、石に刻まれた。

 それで十分だったかどうかは、分からなかった。

 ただ、菅野にできることは、やった。

 窓の外で、春の夜の風が鳴っていた。

 菅野はペンを置いた。

 新しいノートの最初のページに、三行だけ書かれていた。

 その三行を、少しの間見ていた。

 それから電気を消した。

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