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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
終焉の救済
46/50

全部の名前

 竹内フミへの最終報告に行ったのは、墓参りから三日後だった。

 いつもの家に通されて、いつもの部屋に座った。廊下の観葉植物が、少し大きくなっていた。冬の間も水をやり続けていたのだろうと、菅野は思った。

 竹内はお茶を出して、向かいに座った。

 「長い間、ありがとうございました」と竹内は言った。

 「こちらこそ」と菅野は言った。「依頼を受けて良かったと思っています」

 「汐里さんのことを、教えてもらえますか。最後に」竹内は言った。「どういう子だったか」

 菅野は少し考えた。

 「頑固な子でした」と菅野は言った。「人に頼れなかった。助けてもらうことが下手だった。ただ、他の人の話を聞くことが上手で、誰かを支えることができた」

 「そうですか」

 「エメラルドグリーンが好きで、その色を選んで生きていた。詩集を読む子で、春を目指していた。来年の春に、隣県へ引っ越す計画を立てていた」

 「それは知りませんでした」竹内は言った。「計画があったんですね」

 「はい。待っていた人がいました」

 「間に合わなかったけれど、向かっていたんですね」

「そうです」


竹内はお茶を飲んだ。しばらく黙っていた。

 「汐里さんに、知り合いはいましたか。最後まで」

 「何人かいました」菅野は言った。「全員が、それぞれの形で彼女に関わっていた。良い関わり方ばかりではなかったけれど、全員が彼女のことを覚えている」

 「覚えている人がいる」

 「はい」

 「それなら、良かった」竹内は言った。「名前があって、覚えている人がいる。それだけで、その人は消えない気がして」

 菅野は頷いた。

 「犯人は、どういう人でしたか」と竹内は訊いた。

 菅野は少し考えた。「孤独な人でした。ただし、孤独であることと、やったことは別です」

 「そうですね」竹内は言った。「別ですね」

 「彼は汐里さんを、本名で呼んでいました。翠ではなく」菅野は言った。「それだけは、本物だったかもしれない。ただし、それ以外のことは」

 「それ以外のことは」

 「彼女の意志を、一度も確認しなかった」

 竹内は静かに聞いていた。

 「意志を確認しない愛情は、愛情と呼べるかどうか」菅野は言った。「私には判断できません。ただ、確認しなかったことは、事実です」

 「難しいですね」と竹内は言った。責めているわけでも、許しているわけでもない、ただそう思っているだけの声だった。


 帰り際、竹内が玄関まで送ってきた。

 「菅野さん」と竹内は言った。「最初に頼んだのは、身元を確認してほしい、ということだけでした」

 「はい」

 「それ以上のことをしてもらいました」

 「必要なことでした」と菅野は言った。

 「あなたが必要だと思ったから、動いてくれた」竹内は言った。「それが、汐里さんへの最初の、ちゃんとした手当てだったと思います」

 菅野は「そうであれば」と言って、玄関を出た。

 春の空気が来た。


 午後、菅野は遠藤に電話した。

 「取調べの状況は、どうなっていますか」と菅野は訊いた。

 「ほぼ全体が出てきました」と遠藤は言った。「薬物の投与、移動の方法、コートの使用、整容、凶器の使用と洗浄、搬入口からの退館、衣服の処分、注射器の処分。全ての行為について、順を追って認めました」

 「動機については」

 「予備校での出会いから、接待の席での再会まで、話しました。ただし、動機という言葉で語ることを、柏木は嫌がっていたということです」

 「なぜですか」

 「動機という言葉は、犯罪の説明のための言葉だから、と言ったということです。自分のやったことは、犯罪として説明できる種類のものではない、と」遠藤は言った。「取調官がそれに対して、ではどんな言葉で説明できるか、と訊いたそうです」

 「柏木は何と答えましたか」

 「しばらく考えてから、『説明できる言葉が、私にはありません』と言ったということです」

 菅野はメモを取った。

 説明できる言葉がない。

 「起訴はいつですか」

 「来月の予定です。殺人罪で」遠藤は言った。「菅野さん、お疲れ様でした」

 「あなたもです」と菅野は言って、電話を切った。


 夕方、菅野は繁華街を歩いた。

 目的はなかった。ただ、歩きたかった。

 路地の前を通った。

 三月の午後の光が、路地の奥まで届いていた。四ヶ月前の朝、規制線が張られていたその場所に、今は光だけがあった。

 菅野は立ち止まった。

 この路地を最初に訪れた朝のことを、思い出した。

 名前のない女が、倒れていた。エメラルドの髪が、地面に広がっていた。顔が、整えられていた。

 その朝から、全てが始まった。

 今、その路地に立って、菅野は何を思うか。

 何も、とは言えなかった。

 ただ、終わったとも言えなかった。

 柏木は来月、起訴される。裁判が始まる。それは続く。

 汐里の春は、来なかった。それも続く。

 ただ、菅野の仕事は、ここで一度区切りを迎えていた。

 菅野は路地の奥を、少しの間見ていた。

 それから、歩き始めた。


 夜、菅野はノートを開いた。

 最後のページに来ていた。

 新しいノートを買う必要があった。

 ただ、今夜は新しいノートはなかった。最後のページに、今日のことを書いた。

 「竹内フミ・最終報告・身元確認から始まって、ここまで来た」

 「遠藤・取調べ完了・来月起訴」

 「路地・三月の光・名前のある女だった」

 最後の一行を書いてから、ペンを置いた。

 名前のある女だった。

 十一月の朝、名前のない女として発見された。しかし彼女は最初から、名前を持っていた。朝倉汐里という名前を。

 それは最初から変わらなかった。

 変わったのは、菅野が知ったか知らないか、だけだった。

 菅野はノートを閉じた。

 窓の外で、三月の風が鳴っていた。

 春が来ていた。

 汐里が向かっていた春が。

 菅野は電気を消した。

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