全部の名前
竹内フミへの最終報告に行ったのは、墓参りから三日後だった。
いつもの家に通されて、いつもの部屋に座った。廊下の観葉植物が、少し大きくなっていた。冬の間も水をやり続けていたのだろうと、菅野は思った。
竹内はお茶を出して、向かいに座った。
「長い間、ありがとうございました」と竹内は言った。
「こちらこそ」と菅野は言った。「依頼を受けて良かったと思っています」
「汐里さんのことを、教えてもらえますか。最後に」竹内は言った。「どういう子だったか」
菅野は少し考えた。
「頑固な子でした」と菅野は言った。「人に頼れなかった。助けてもらうことが下手だった。ただ、他の人の話を聞くことが上手で、誰かを支えることができた」
「そうですか」
「エメラルドグリーンが好きで、その色を選んで生きていた。詩集を読む子で、春を目指していた。来年の春に、隣県へ引っ越す計画を立てていた」
「それは知りませんでした」竹内は言った。「計画があったんですね」
「はい。待っていた人がいました」
「間に合わなかったけれど、向かっていたんですね」
「そうです」
竹内はお茶を飲んだ。しばらく黙っていた。
「汐里さんに、知り合いはいましたか。最後まで」
「何人かいました」菅野は言った。「全員が、それぞれの形で彼女に関わっていた。良い関わり方ばかりではなかったけれど、全員が彼女のことを覚えている」
「覚えている人がいる」
「はい」
「それなら、良かった」竹内は言った。「名前があって、覚えている人がいる。それだけで、その人は消えない気がして」
菅野は頷いた。
「犯人は、どういう人でしたか」と竹内は訊いた。
菅野は少し考えた。「孤独な人でした。ただし、孤独であることと、やったことは別です」
「そうですね」竹内は言った。「別ですね」
「彼は汐里さんを、本名で呼んでいました。翠ではなく」菅野は言った。「それだけは、本物だったかもしれない。ただし、それ以外のことは」
「それ以外のことは」
「彼女の意志を、一度も確認しなかった」
竹内は静かに聞いていた。
「意志を確認しない愛情は、愛情と呼べるかどうか」菅野は言った。「私には判断できません。ただ、確認しなかったことは、事実です」
「難しいですね」と竹内は言った。責めているわけでも、許しているわけでもない、ただそう思っているだけの声だった。
帰り際、竹内が玄関まで送ってきた。
「菅野さん」と竹内は言った。「最初に頼んだのは、身元を確認してほしい、ということだけでした」
「はい」
「それ以上のことをしてもらいました」
「必要なことでした」と菅野は言った。
「あなたが必要だと思ったから、動いてくれた」竹内は言った。「それが、汐里さんへの最初の、ちゃんとした手当てだったと思います」
菅野は「そうであれば」と言って、玄関を出た。
春の空気が来た。
午後、菅野は遠藤に電話した。
「取調べの状況は、どうなっていますか」と菅野は訊いた。
「ほぼ全体が出てきました」と遠藤は言った。「薬物の投与、移動の方法、コートの使用、整容、凶器の使用と洗浄、搬入口からの退館、衣服の処分、注射器の処分。全ての行為について、順を追って認めました」
「動機については」
「予備校での出会いから、接待の席での再会まで、話しました。ただし、動機という言葉で語ることを、柏木は嫌がっていたということです」
「なぜですか」
「動機という言葉は、犯罪の説明のための言葉だから、と言ったということです。自分のやったことは、犯罪として説明できる種類のものではない、と」遠藤は言った。「取調官がそれに対して、ではどんな言葉で説明できるか、と訊いたそうです」
「柏木は何と答えましたか」
「しばらく考えてから、『説明できる言葉が、私にはありません』と言ったということです」
菅野はメモを取った。
説明できる言葉がない。
「起訴はいつですか」
「来月の予定です。殺人罪で」遠藤は言った。「菅野さん、お疲れ様でした」
「あなたもです」と菅野は言って、電話を切った。
夕方、菅野は繁華街を歩いた。
目的はなかった。ただ、歩きたかった。
路地の前を通った。
三月の午後の光が、路地の奥まで届いていた。四ヶ月前の朝、規制線が張られていたその場所に、今は光だけがあった。
菅野は立ち止まった。
この路地を最初に訪れた朝のことを、思い出した。
名前のない女が、倒れていた。エメラルドの髪が、地面に広がっていた。顔が、整えられていた。
その朝から、全てが始まった。
今、その路地に立って、菅野は何を思うか。
何も、とは言えなかった。
ただ、終わったとも言えなかった。
柏木は来月、起訴される。裁判が始まる。それは続く。
汐里の春は、来なかった。それも続く。
ただ、菅野の仕事は、ここで一度区切りを迎えていた。
菅野は路地の奥を、少しの間見ていた。
それから、歩き始めた。
夜、菅野はノートを開いた。
最後のページに来ていた。
新しいノートを買う必要があった。
ただ、今夜は新しいノートはなかった。最後のページに、今日のことを書いた。
「竹内フミ・最終報告・身元確認から始まって、ここまで来た」
「遠藤・取調べ完了・来月起訴」
「路地・三月の光・名前のある女だった」
最後の一行を書いてから、ペンを置いた。
名前のある女だった。
十一月の朝、名前のない女として発見された。しかし彼女は最初から、名前を持っていた。朝倉汐里という名前を。
それは最初から変わらなかった。
変わったのは、菅野が知ったか知らないか、だけだった。
菅野はノートを閉じた。
窓の外で、三月の風が鳴っていた。
春が来ていた。
汐里が向かっていた春が。
菅野は電気を消した。




