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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
終焉の救済
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春の墓

 土曜日の朝、菅野は電車に乗った。

 隣県まで一時間半。在来線を乗り継いで、小さな駅で降りた。以前に中村幸枝を訪ねたときと同じ駅だった。

 湊人はすでにホームにいた。改札の手前で、少し緊張した立ち方で待っていた。菅野を見て、頷いた。

 二人で駅を出た。

 三月の中旬だった。空は晴れていた。風はまだ少し冷たかったが、日差しの中に春の重さがあった。

 「来られましたね」と菅野は言った。

 「来られました」と湊人は言った。それ以上は言わなかった。


 中村幸枝は、駅から徒歩で十分ほどの場所で待っていた。

 古い平屋の前に立っていた。コートを着て、手に花を持っていた。白い花だった。

 菅野と湊人を見て、軽く頭を下げた。

 「初めまして」と湊人は言った。「岡崎湊人といいます。汐里の、幼馴染でした」

 中村は湊人を見た。少し間を置いてから、「来てくれてありがとうございます」と言った。

 「こちらこそ」湊人は言った。「お墓を作ってもらって、ありがとうございます」

 中村は首を振った。「私にできることが、それだけだったので」

 菅野は持ってきた花を確認した。菜の花を選んでいた。黄色い、小さな花だった。春に似合うと思って選んだ。理由はそれだけだった。


 墓地は、住宅街の外れにあった。

 大きくない墓地だった。古い石と新しい石が混在していた。中村が先に立って歩いた。

 汐里の墓は、端の方にあった。

 小さな石だった。新しかった。石に、朝倉汐里という名前が刻まれていた。生年と、没年が並んでいた。

 菅野はその石を見た。

 朝倉汐里。二十三歳。

 十一月の、夜が明けきらない時間帯に、名前のない女として路地に倒れていた人間の名前が、今は石に刻まれていた。

 三人とも、しばらく黙っていた。

 風が来た。菜の花が揺れた。


 中村が白い花を供えた。菅野が菜の花を供えた。

 湊人は何も持ってきていなかった。

 菅野はそれに気づいていたが、何も言わなかった。

 湊人はしばらく石の前に立っていた。何かを言おうとして、言えない様子だった。口が少し動いたが、声にはならなかった。

 菅野と中村は、少し離れた場所に立った。

 湊人と汐里の間に、空間を作った。


 しばらくして、湊人が戻ってきた。

 目が赤かった。それ以外は、普通の顔をしていた。

 「良かった」と湊人は言った。菅野に向かって。

 「何がですか」と菅野は訊いた。

 「名前が、ちゃんとある」湊人は言った。「石に、朝倉汐里って書いてある」

 菅野は頷いた。

 「翠じゃなくて、朝倉汐里として」湊人は言った。「それが、良かった」

 中村が少し顔を伏せた。

 菅野は石を見た。

 朝倉汐里。

 その名前が、石の上にあった。誰かが見なくても、誰かが読まなくても、そこにあり続ける名前として。


 帰り道、三人で駅まで歩いた。

 中村が「少し寄っていきますか」と言った。

 三人で中村の家に上がった。お茶を出してもらって、小さなテーブルを囲んだ。

 「汐里ちゃんから最後にもらったメールを、今でも持っています」と中村は言った。「来年の春ごろに引っ越せそうです、という」

 「知っています」と菅野は言った。「そのメールを見せてもらいました」

 「そうでしたね」中村はお茶を飲んだ。「来られなかったけれど、来ようとしていた。それは本当のことです」

 湊人はお茶のカップを両手で持ったまま、黙っていた。

 「汐里ちゃんはどんな子でしたか」と中村は湊人に訊いた。「声しか知らないので」

 湊人は少し考えた。

 「頑固でした」と湊人は言った。「自分が決めたことは、曲げない。人に頼れない。助けてもらうことが、下手で」湊人は少し間を置いた。「ただ、話を聞くのが上手だった。俺が何か話すと、ちゃんと聞いていた。うわの空じゃなくて、本当に聞いていた」

 中村は頷いた。「電話でも、そういう子でした。私が話すと、ちゃんと聞いてくれて。こちらが年上なのに、なんか、支えてもらっているような気がして」

 「そういう子でした」湊人は言った。「他の人のことは支えられるのに、自分のことは誰にも頼れなかった」

 しばらく、三人とも黙っていた。

 窓の外で、春の風が庭の木を揺らした。


 帰りの電車の中で、菅野は湊人の隣に座った。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 車窓から、田園風景が流れていった。冬の名残と春の始まりが混在した、この季節特有の景色だった。

 「汐里からの最後のメッセージに、返事できなかった」と湊人は言った。突然だった。

 「ええ」

 「ずっと、それが引っかかっていました。ただ」湊人は窓の外を見た。「今日、墓の前に立って、少し変わった気がします」

 「どう変わりましたか」

 「返事ができなかったことは、変わりません。ただ、彼女が来年の春を目指していたことを、俺は知っている。それが、何かと釣り合う気がして」

 菅野は「そうですか」と言った。

 「釣り合わないかもしれない」湊人は続けた。「ただ、そう感じました」

 「それでいいと思います」と菅野は言った。

 湊人は頷いた。

 電車は走り続けた。


 夜、自宅に戻って、菅野はノートを開いた。

 今日のことを、短く書いた。

 「三月・墓参り・菅野、湊人、中村幸枝」「朝倉汐里・石に名前がある」「菜の花・白い花」

 それだけ書いた。

 それ以上書く必要がなかった。

 窓の外で、春の風が鳴っていた。

 汐里が目指していた春が、来ていた。

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