三月の答え
湊人の起訴取り消しが正式に決まったのは、三月の第二週だった。
河合弁護士から連絡があった。「手続きが完了しました」と河合は言った。声に、仕事が終わったときの静かな疲れがあった。
「湊人は」と菅野は訊いた。
「今日、伝えました。泣いていました。声を上げて泣いていました。それだけです」
菅野は「そうですか」と言った。
「菅野さんに感謝していると、言っていました」
「仕事でした」
「それでも」河合は言った。「あなたが諦めなかったから、今日があります。それは事実です」
電話を切った。
午前中、遠藤から連絡があった。
「昨日の取調べで、接待の席での再会について、詳しい話が出ました」と遠藤は言った。「菅野さんに伝えておきたいことがあって」
「どんなことですか」
「柏木が、接待の席で汐里さんと話したかどうかを、取調官が訊いたんです。その場で言葉を交わしたかどうか」
「交わしましたか」
「少しだけ、と柏木は言いました。業務上の会話ではなく、個人的な言葉を一言だけ交わしたということです」
「何と言ったんですか」
遠藤は少し間を置いた。「柏木が汐里さんに、『お久しぶりです』と言ったということです。予備校のことを知っているかもしれない、という含みを持たせた言い方で」
「汐里さんの反応は」
「『どちら様でしたか』と言ったということです。覚えていなかった。その場で、はっきりと」
菅野はメモを取った。
お久しぶりです、に対して、どちら様でしたか。
その瞬間が、全ての始まりだったのかもしれなかった。
「柏木はそのとき、どうしたんですか」
「『失礼しました、人違いでした』と言って、その話を終わらせたということです」遠藤は言った。「その後、指名するようになった」
「人違いでした、と言って、それでも指名した」
「はい」
菅野はその矛盾を考えた。
人違いだと言いながら、人違いではないと知りながら、通い続けた。覚えていないことを確認しながら、通い続けた。
その一年間が、柏木にとって何だったのか。
拘置所での面会で、柏木は「彼女の近くにいると、予備校でのあの笑い方を思い出せた」と言っていた。それだけのために、一年間通い続けた。
菅野にはその孤独が、理解できた。
理解できることと、許容できることは、別だった。それでも、理解はできた。
昼過ぎ、菅野は中村幸枝に電話した。
「お墓参りに行きたいと思っています」と菅野は言った。「来週あたり、伺えますか」
「いつでも」と中村は言った。「一緒に行きましょう」
「もう一人、来るかもしれません」
「汐里ちゃんを本名で呼んでいた方ですか」
「そうです」
「構いません」中村は言った。「むしろ、一緒に行ってもらえたら」
日程を決めて、電話を切った。
菅野は湊人にメッセージを送った。「お墓の場所が分かっています。一緒に行きますか。来週の土曜日」
返信はすぐに来た。「行きます」
それだけだった。
夕方、菅野は礼香から電話を受けた。
「新しい仕事、慣れてきました」と礼香は言った。報告するつもりで電話してきた様子だった。
「そうですか。良かった」
「菅野さん、別の人が捕まったんですね。ニュースで見て」
「はい」
「京ちゃん、という人でしたか」
菅野は少し間を置いた。「そうです」
「やっぱり」礼香は言った。「なんか、翠の向こう側にある何かを見ていると思っていました。あの人だけが」
「そう見えていましたか」
「翠を見ていなかった。翠の顔の向こうにある何かを見ていた。それが怖かった」礼香は言った。「翠は気づいていたかな。あの人が、自分の向こう側を見ていること」
「分かりません」と菅野は言った。「ただ」
「ただ」
「翠は、来年の春を目指していました。自分の足で、出口を見つけようとしていた。その意志は本物だったと思います」
礼香はしばらく黙っていた。「そうか」と彼女は言った。「翠は、出ようとしていたんだ」
「はい」
「それを知って、少し楽になりました」礼香は言った。「泥の中にいたけど、出ようとしていた。それだけで、十分かな」
菅野は何も言わなかった。
「ありがとうございました」と礼香は言って、電話を切った。
夜、菅野は藤田にも短い連絡を入れた。
「汐里さんが来年の春に隣県へ引っ越す計画を持っていたことを、改めてお伝えします。彼女は出口を見つけていました」
返信は少しして来た。
「ありがとうございます。それを聞いて、少し泣きました。なぜ泣いているのか、自分でも分かりませんが」
菅野は返信しなかった。
泣いている理由は、分からなくていいと思った。
深夜、菅野は貫井に電話しようかと思って、やめた。
貫井に伝えることは、今はないと思った。貫井はすでに自分の決算を終えていた。狂言強盗の件で、自分の結末に向かっていた。汐里の出口の話を、今の貫井に伝える必要はなかった。
菅野はノートを開いた。
今日確認したことを書いた。
「接待の席・お久しぶりです・どちら様でしたか・人違いでした・それでも指名した」
その一連を書いて、少し考えた。
「どちら様でしたか」という言葉が、七年分の柏木の記憶を、一瞬で消した。
消えたのは、柏木の記憶の中だけのことだったのかもしれなかった。汐里にとって、その一年間は存在しなかった。いなくなった人間が、存在しなかった形で七年後に現れた。ただそれだけだったかもしれなかった。
ただ、柏木にとってはそうではなかった。
その非対称が、全ての始まりだった。
菅野はノートを閉じた。
窓の外で、三月の風が鳴っていた。
来週、汐里の墓に行く。
春の花を持っていこうと、菅野は思った。
何の花がいいか、まだ決めていなかった。




