嘘の構造
三月の第一週、遠藤から電話があった。
「取調べで、重要なやり取りがありました」と遠藤は言った。「菅野さんに伝えておきたいことがあって」
「どんなことですか」
「柏木が、一度だけ嘘をつこうとしました」
菅野は少し止まった。「今まで、嘘はついていなかったんですか」
「黙秘はしていました。話さないことはあった。ただ、積極的に嘘をつこうとしたのは、今回が初めてです」
「どんな嘘ですか」
「顔を整えた件についてです」遠藤は言った。「取調官が改めて顔の清拭について訊いたとき、柏木は最初、こう言いました。『死体を見つけて、顔が汚れていたから拭いた』と」
菅野はメモを取った。「死体を見つけて顔を拭いた、と」
「はい。偶然通りかかって、倒れている彼女を見つけて、顔に何かがついていたから拭いた、という説明でした。それが最初の答えでした」
「取調官はどう対応しましたか」
「その場では受け取って、次の質問に移りました。ただし、翌日の取調べで、鑑識の分析結果を示しました」
「清拭が血液付着の前に行われていた、という結果ですね」
「はい」遠藤は言った。「致命傷による返り血が、拭われた後の肌の上に付着している。その順序を示したとき、柏木は少し長い沈黙の後、『訂正します』と言いました」
「訂正」
「死体を見つけて拭いたのではなく、自分が行為の前に整えた、と認めました。一度嘘をついて、それが崩れた瞬間です」
菅野は「なぜその嘘をついたと思いますか」と訊いた。
「取調官の見立てでは、顔を整えたことへの羞恥心ではないかということです。殺害の事実よりも、顔を整えた行為の方が、柏木にとって説明しにくかったのではないかと」
菅野はその見立てを、頭の中で測った。
殺害よりも、整えることの方が説明しにくい。それは逆説だった。ただし、柏木の内側の論理では、整えることの方が核心に近かった。殺害は手段で、整えることが目的に近かった。だから、そちらを隠そうとした。
「訂正した後、何か言いましたか」
「一言だけ」遠藤は言った。「『彼女に、そうしてあげたかった』と言ったということです」
菅野はメモを取った。
そうしてあげたかった。
してあげたかった、という言い方が、柏木らしかった。自分のためではなく、汐里のために、という意識が、最後まであった。しかし拘置所の面会で、柏木は「自分のためだったかもしれない」と言っていた。
その矛盾の間に、柏木という人間がいた。
午後、菅野はその嘘の構造について、しばらく考えた。
柏木は一度だけ嘘をついた。それが崩れた。崩れた後、訂正した。
その流れの中で、菅野が気になったのは別のことだった。
柏木は「死体を見つけて拭いた」と言った。その嘘は、事前に用意されていたものではないように聞こえた。追い詰められた瞬間に、とっさに出た嘘だった。
とっさに出た嘘が、「死体を見つけて顔を拭いた」だった。
その嘘の中にも、汐里の顔を拭う行為が含まれていた。殺した、という事実を隠すための嘘を作るとき、顔を拭う行為だけは、嘘の中にも残した。
無意識だったかもしれなかった。
しかし、その行為だけは、捨てられなかった。
嘘の中でも、顔を拭うことだけは持ち続けた。
菅野はそのことを、ノートに書いた。
「嘘の中にも残った行為・顔を拭うこと・捨てられなかった」
夕方、菅野は河合弁護士に電話した。
「柏木の取調べの状況について、情報を共有します」と菅野は言った。
「どうぞ」
菅野は今日遠藤から聞いたことを話した。嘘をついたこと、崩れたこと、訂正したこと、「そうしてあげたかった」という言葉。
河合は黙って聞いていた。
「湊人の件は、今どういう状況ですか」と菅野は訊いた。
「公判の見直し手続きが進んでいます。柏木の逮捕と、その後の取調べでの認否の状況が、正式に記録されています。起訴取り消しに向けた手続きが、今月中に完了する見通しです」
「湊人は今、どうしていますか」
「仕事に戻ろうとしています。ただ、精神的にはまだ難しい部分があって」河合は言った。「汐里さんのお墓に行きたいと、先日も言っていました」
「場所は伝えましたか」
「はい。中村さんから教えてもらった場所を。ただ、まだ行けていないということです。行く準備が、心理的にできていないということで」
「そうですか」
「菅野さん」と河合は言った。「あなたは行きましたか。お墓に」
「まだです」と菅野は言った。
「行きますか」
「行こうと思っています。ただ、もう少し後に」
「何を待っているんですか」
菅野は少し考えた。「春を待っています」
河合は少し間を置いた。「そうですか」と言って、電話を切った。
夜、菅野はノートを読み返した。
最初のページから、今日まで。
四ヶ月分の記録だった。
十一月の夜が明けきらない時間帯から始まって、今日の三月まで。
記録の中に、菅野が見落としていたことと、見落としていなかったことが、両方あった。
柏木に対する同情が、判断を遅らせた。そのことは、今でも菅野の中に残っていた。反省として。
ただ、同情があったから、柏木と向き合い続けることができた、という面もあった。
完全に切り離していれば、面会に行かなかったかもしれなかった。リンゴを食べなかったかもしれなかった。
良かったのか悪かったのか、菅野には判断できなかった。
ただ、それが菅野という人間のやり方だった。
同情しながら、疑う。疑いながら、同情する。その両方を抱えながら、動き続ける。
それが、この仕事だった。
深夜、菅野はコーヒーを淹れた。
飲みながら、窓の外を見た。
三月の夜は、十一月の夜より少し明るかった。同じ暗さでも、質が違った。
菅野は汐里のことを考えた。
整えられた顔。エメラルドの髪。金色の星のシール。詩集。来年の春の計画。ごめんなさい、という最後のメッセージ。
それらが、四ヶ月かけて積み上がった汐里の像だった。
完全ではなかった。菅野が知ることができたのは、断片だけだった。
しかし断片が集まって、輪郭になった。
朝倉汐里、二十三歳。
その輪郭が、菅野の中に残った。
コーヒーを飲み干して、菅野は電気を消した。
春が来ていた。
ゆっくりと、しかし確実に。




