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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
終焉の救済
43/50

嘘の構造

 三月の第一週、遠藤から電話があった。

 「取調べで、重要なやり取りがありました」と遠藤は言った。「菅野さんに伝えておきたいことがあって」

 「どんなことですか」

 「柏木が、一度だけ嘘をつこうとしました」

 菅野は少し止まった。「今まで、嘘はついていなかったんですか」

 「黙秘はしていました。話さないことはあった。ただ、積極的に嘘をつこうとしたのは、今回が初めてです」

 「どんな嘘ですか」

 「顔を整えた件についてです」遠藤は言った。「取調官が改めて顔の清拭について訊いたとき、柏木は最初、こう言いました。『死体を見つけて、顔が汚れていたから拭いた』と」

 菅野はメモを取った。「死体を見つけて顔を拭いた、と」

 「はい。偶然通りかかって、倒れている彼女を見つけて、顔に何かがついていたから拭いた、という説明でした。それが最初の答えでした」

 「取調官はどう対応しましたか」

 「その場では受け取って、次の質問に移りました。ただし、翌日の取調べで、鑑識の分析結果を示しました」

 「清拭が血液付着の前に行われていた、という結果ですね」

 「はい」遠藤は言った。「致命傷による返り血が、拭われた後の肌の上に付着している。その順序を示したとき、柏木は少し長い沈黙の後、『訂正します』と言いました」

 「訂正」

 「死体を見つけて拭いたのではなく、自分が行為の前に整えた、と認めました。一度嘘をついて、それが崩れた瞬間です」

 菅野は「なぜその嘘をついたと思いますか」と訊いた。

 「取調官の見立てでは、顔を整えたことへの羞恥心ではないかということです。殺害の事実よりも、顔を整えた行為の方が、柏木にとって説明しにくかったのではないかと」

 菅野はその見立てを、頭の中で測った。

 殺害よりも、整えることの方が説明しにくい。それは逆説だった。ただし、柏木の内側の論理では、整えることの方が核心に近かった。殺害は手段で、整えることが目的に近かった。だから、そちらを隠そうとした。

 「訂正した後、何か言いましたか」

 「一言だけ」遠藤は言った。「『彼女に、そうしてあげたかった』と言ったということです」

 菅野はメモを取った。

 そうしてあげたかった。

 してあげたかった、という言い方が、柏木らしかった。自分のためではなく、汐里のために、という意識が、最後まであった。しかし拘置所の面会で、柏木は「自分のためだったかもしれない」と言っていた。

 その矛盾の間に、柏木という人間がいた。


 午後、菅野はその嘘の構造について、しばらく考えた。

 柏木は一度だけ嘘をついた。それが崩れた。崩れた後、訂正した。

 その流れの中で、菅野が気になったのは別のことだった。

 柏木は「死体を見つけて拭いた」と言った。その嘘は、事前に用意されていたものではないように聞こえた。追い詰められた瞬間に、とっさに出た嘘だった。

 とっさに出た嘘が、「死体を見つけて顔を拭いた」だった。

 その嘘の中にも、汐里の顔を拭う行為が含まれていた。殺した、という事実を隠すための嘘を作るとき、顔を拭う行為だけは、嘘の中にも残した。

 無意識だったかもしれなかった。

 しかし、その行為だけは、捨てられなかった。

 嘘の中でも、顔を拭うことだけは持ち続けた。

 菅野はそのことを、ノートに書いた。

 「嘘の中にも残った行為・顔を拭うこと・捨てられなかった」


 夕方、菅野は河合弁護士に電話した。

 「柏木の取調べの状況について、情報を共有します」と菅野は言った。

 「どうぞ」

 菅野は今日遠藤から聞いたことを話した。嘘をついたこと、崩れたこと、訂正したこと、「そうしてあげたかった」という言葉。

 河合は黙って聞いていた。

 「湊人の件は、今どういう状況ですか」と菅野は訊いた。

 「公判の見直し手続きが進んでいます。柏木の逮捕と、その後の取調べでの認否の状況が、正式に記録されています。起訴取り消しに向けた手続きが、今月中に完了する見通しです」

 「湊人は今、どうしていますか」

 「仕事に戻ろうとしています。ただ、精神的にはまだ難しい部分があって」河合は言った。「汐里さんのお墓に行きたいと、先日も言っていました」

 「場所は伝えましたか」

 「はい。中村さんから教えてもらった場所を。ただ、まだ行けていないということです。行く準備が、心理的にできていないということで」

 「そうですか」

 「菅野さん」と河合は言った。「あなたは行きましたか。お墓に」

 「まだです」と菅野は言った。

 「行きますか」

 「行こうと思っています。ただ、もう少し後に」

 「何を待っているんですか」

 菅野は少し考えた。「春を待っています」

 河合は少し間を置いた。「そうですか」と言って、電話を切った。


 夜、菅野はノートを読み返した。

 最初のページから、今日まで。

 四ヶ月分の記録だった。

 十一月の夜が明けきらない時間帯から始まって、今日の三月まで。

 記録の中に、菅野が見落としていたことと、見落としていなかったことが、両方あった。

 柏木に対する同情が、判断を遅らせた。そのことは、今でも菅野の中に残っていた。反省として。

 ただ、同情があったから、柏木と向き合い続けることができた、という面もあった。

 完全に切り離していれば、面会に行かなかったかもしれなかった。リンゴを食べなかったかもしれなかった。

 良かったのか悪かったのか、菅野には判断できなかった。

 ただ、それが菅野という人間のやり方だった。

 同情しながら、疑う。疑いながら、同情する。その両方を抱えながら、動き続ける。

 それが、この仕事だった。


 深夜、菅野はコーヒーを淹れた。

 飲みながら、窓の外を見た。

 三月の夜は、十一月の夜より少し明るかった。同じ暗さでも、質が違った。

 菅野は汐里のことを考えた。

 整えられた顔。エメラルドの髪。金色の星のシール。詩集。来年の春の計画。ごめんなさい、という最後のメッセージ。

 それらが、四ヶ月かけて積み上がった汐里の像だった。

 完全ではなかった。菅野が知ることができたのは、断片だけだった。

 しかし断片が集まって、輪郭になった。

 朝倉汐里、二十三歳。

 その輪郭が、菅野の中に残った。

 コーヒーを飲み干して、菅野は電気を消した。

 春が来ていた。

 ゆっくりと、しかし確実に。

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