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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
終焉の救済
50/50

朝倉汐里

 四月の終わり、雨が降った。

 春の雨だった。冷たくはなかった。ただ、静かだった。

 菅野は傘を持っていなかった。

 コートを着ていなかった。四月の終わりだったから、コートは必要ないと思って出てきた。ただ、雨は降った。

 菅野は軒下に入った。

 小さな商店の軒下だった。シャッターが半分下りていた。誰もいなかった。

 雨が、路面を叩いていた。

 春の雨は、冬の雨とは違う叩き方をした。重さが違った。冬の雨は硬く、春の雨は柔らかかった。ただ、雨であることに変わりはなかった。


 菅野はその軒下に立ちながら、十一月の朝のことを思った。

 あの朝も、雨が降りそうな空だった。夜明けの、まだ暗い空。規制線の黄色と黒が、その暗さの中に浮かんでいた。

 名前のない女が、路地に倒れていた。

 エメラルドの髪が、地面に広がっていた。

 顔が、整えられていた。

 あの朝から、今日の雨まで。

 菅野の中で、一本の線が引かれていた。


 線の上に、様々な人間がいた。

 竹内フミ。廊下に観葉植物を並べた老女。名前を知りたかった。

 貫井克己。腹のあたりが崩れた男。商品として扱っていた、と言った。それが正直なところだと言った。

 佐野礼香。汚れきらない目が嫌だった。それでも、汚れきらないでいてほしかった。

 藤田正彦。三百万を使い込んだ男。幸せになれたかどうかは、私が決めることではなかった、と気づいた。

 岡崎湊人。最後まで、朝倉汐里と呼んだ。外の空気を吸える日が来た。

 中村幸枝。声しか知らなかった。待っていた。石を作った。

 遠藤。実務的な連携の相手。最後まで、動いた。

 河合。弁護士。湊人のために動いた。

 そして柏木京介。白い封筒に手紙を書いた男。リンゴを剥いた男。汐里さん、と呼んでいた男。

 その全員の中心に、朝倉汐里がいた。

 名前を持った女が。


 雨が少し強くなった。

 路面に、雨の輪が広がった。一つ、また一つ、広がっては消えた。

 菅野は軒下で、その輪を見ていた。

 汐里について、まだ知らないことがあった。

 好きな詩集が何だったか。一人でいるときに何を考えていたか。笑い方の不器用さが、具体的にどういうものだったか。

 知ることができなかったことが、知ることができたことと同じくらいあった。

 それは、この仕事の正直な結果だった。

 全部を知ることは、できなかった。

 ただ、名前だけは知っていた。

 名前と、来年の春を目指していたこと。エメラルドグリーンが好きだったこと。詩集を読んでいたこと。笑い方が不器用だったこと。人の話を聞くことが上手だったこと。金色の星のシールを鏡に貼っていたこと。

 それだけを、菅野は知っていた。


 雨が、少し弱くなった。

 止みそうだった。

 菅野は軒下を出た。

 雨はまだ降っていたが、歩ける程度になっていた。

 菅野は歩き始めた。

 路地の方向に向かって、ではなかった。ただ、歩き始めた。

 歩きながら、菅野は口を開いた。

 声に出すつもりはなかった。ただ、唇が動いた。

 「朝倉汐里」

 声になったかどうか、分からなかった。

 春の雨が降っていた。

 路面に雨の輪が広がった。広がって、消えた。

 菅野は歩き続けた。

 雨の中を、一人で。

 四月の、春の雨の中を。

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