朝倉汐里
四月の終わり、雨が降った。
春の雨だった。冷たくはなかった。ただ、静かだった。
菅野は傘を持っていなかった。
コートを着ていなかった。四月の終わりだったから、コートは必要ないと思って出てきた。ただ、雨は降った。
菅野は軒下に入った。
小さな商店の軒下だった。シャッターが半分下りていた。誰もいなかった。
雨が、路面を叩いていた。
春の雨は、冬の雨とは違う叩き方をした。重さが違った。冬の雨は硬く、春の雨は柔らかかった。ただ、雨であることに変わりはなかった。
菅野はその軒下に立ちながら、十一月の朝のことを思った。
あの朝も、雨が降りそうな空だった。夜明けの、まだ暗い空。規制線の黄色と黒が、その暗さの中に浮かんでいた。
名前のない女が、路地に倒れていた。
エメラルドの髪が、地面に広がっていた。
顔が、整えられていた。
あの朝から、今日の雨まで。
菅野の中で、一本の線が引かれていた。
線の上に、様々な人間がいた。
竹内フミ。廊下に観葉植物を並べた老女。名前を知りたかった。
貫井克己。腹のあたりが崩れた男。商品として扱っていた、と言った。それが正直なところだと言った。
佐野礼香。汚れきらない目が嫌だった。それでも、汚れきらないでいてほしかった。
藤田正彦。三百万を使い込んだ男。幸せになれたかどうかは、私が決めることではなかった、と気づいた。
岡崎湊人。最後まで、朝倉汐里と呼んだ。外の空気を吸える日が来た。
中村幸枝。声しか知らなかった。待っていた。石を作った。
遠藤。実務的な連携の相手。最後まで、動いた。
河合。弁護士。湊人のために動いた。
そして柏木京介。白い封筒に手紙を書いた男。リンゴを剥いた男。汐里さん、と呼んでいた男。
その全員の中心に、朝倉汐里がいた。
名前を持った女が。
雨が少し強くなった。
路面に、雨の輪が広がった。一つ、また一つ、広がっては消えた。
菅野は軒下で、その輪を見ていた。
汐里について、まだ知らないことがあった。
好きな詩集が何だったか。一人でいるときに何を考えていたか。笑い方の不器用さが、具体的にどういうものだったか。
知ることができなかったことが、知ることができたことと同じくらいあった。
それは、この仕事の正直な結果だった。
全部を知ることは、できなかった。
ただ、名前だけは知っていた。
名前と、来年の春を目指していたこと。エメラルドグリーンが好きだったこと。詩集を読んでいたこと。笑い方が不器用だったこと。人の話を聞くことが上手だったこと。金色の星のシールを鏡に貼っていたこと。
それだけを、菅野は知っていた。
雨が、少し弱くなった。
止みそうだった。
菅野は軒下を出た。
雨はまだ降っていたが、歩ける程度になっていた。
菅野は歩き始めた。
路地の方向に向かって、ではなかった。ただ、歩き始めた。
歩きながら、菅野は口を開いた。
声に出すつもりはなかった。ただ、唇が動いた。
「朝倉汐里」
声になったかどうか、分からなかった。
春の雨が降っていた。
路面に雨の輪が広がった。広がって、消えた。
菅野は歩き続けた。
雨の中を、一人で。
四月の、春の雨の中を。




