春の手前
二月が終わろうとしていた。
菅野は朝、窓を開けた。冷たい空気が入ってきたが、その冷たさの質が変わっていた。十一月の冷たさとは違った。芯のない冷たさだった。春が少しずつ、冬の端を侵食し始めているときの空気だった。
汐里が来年の春を目指していた、その春が来ようとしていた。
菅野は窓を閉じた。
遠藤から連絡があったのは、午前中だった。
「柏木の取調べで、新しい話が出ました」と遠藤は言った。「注射器の入手経路について認めました。インターネットで購入していたということで、購入記録が確認されました」
「購入時期は」
「事件の三ヶ月前です。接待の席で汐里さんと再会した後、比較的早い段階で購入していたことになります」
三ヶ月前。五月か六月に再会して、その後すぐに購入した。
菅野はメモを取った。「薬物の溜め込みも、同じ時期から始まったと考えられますか」
「処方記録を確認すると、最初の処方が六月です。それ以前には、睡眠導入剤の処方記録がありません」
六月から。再会の直後から、準備が始まっていた。
「柏木は、再会した直後から決意していたということですか」
「本人はまだその点を語っていません。ただ、準備の時期から逆算すると、そういうことになります」遠藤は言った。「五か月間、準備をしながら通い続けた。指名し続けた。その間、何を考えていたのか」
「面会で聞くつもりです」と菅野は言った。
「気をつけてください」遠藤は言った。「柏木は、話したいことと話したくないことの区別が、はっきりしています。こちらが踏み込もうとすると、壁を作る。急がない方がいい」
「分かっています」
電話を切った。
午後、菅野は柏木との面会に向けて、何を訊くかを整理した。
取調べで出ていないこと。遠藤経由では届かないこと。
一つ目。なぜ再会の直後から決意したのか。指名し続けた五か月間、何を考えていたのか。
二つ目。汐里が覚えていなかったと分かったとき、何が変わったのか。
三つ目。「救済」という言葉を、柏木自身は使うのか。使うとすれば、それは誰のための救済だったのか。
四つ目。汐里が来年の春を目指していたことを、知っていたか。
菅野はその四つを書いて、少し考えた。
四つ目が最も重要かもしれなかった。
汐里が自分で出口を見つけようとしていた。柏木がそれを知っていたとすれば、それでも「救済」を選んだことになる。知らなかったとすれば、柏木は汐里の意志を一度も確認しないまま、自分の論理だけで動いたことになる。
どちらであれ、柏木の行為は変わらなかった。しかし、柏木という人間の輪郭が、どちらかによって変わった。
菅野はノートを閉じた。
夕方、河合弁護士から電話があった。
「湊人から伝言があります」と河合は言った。「菅野さんに会いたいと言っています。急ぎではないけれど、落ち着いたら一度と」
「分かりました。来週以降に」
「それから」と河合は続けた。「湊人が、汐里さんの墓参りに行きたいと言っています。ただ、お墓がどこにあるか分からなくて」
菅野は少し考えた。「調べてみます」
「ありがとうございます」
電話を切って、菅野は汐里の墓について考えた。
両親が失踪している。身寄りがいない。そういった場合、行政が埋葬を行うことがある。あるいは、遠い縁戚の中村幸枝が何らかの形で関わっているかもしれなかった。
中村幸枝に電話した。
「汐里ちゃんの件、ありがとうございました」と中村は言った。「犯人が捕まったと聞きました。ニュースで」
「はい。ご報告が遅くなりまして」
「いえ」中村は言った。「お墓のことですが、私が引き受けました。来られなかったから、せめてそれだけでも、と思って」
「そうでしたか」
「こちらの近くに、小さなお墓があります。春になったら、花を持っていくつもりです」
菅野は「ありがとうございます」と言った。「知りたかった方がいます。お墓の場所を、教えていただけますか」
「どなたですか」
「汐里さんを、最後まで汐里さんと呼んでいた方です」
中村は少し間を置いた。「教えます」と言った。
夜、菅野はノートを開いた。
コートが防護服として使われた。顔の清拭が傷つける前に行われた。タイムカードの仕掛けの痕跡が確認された。搬入口の記録が確認された。他県での衣服の処分記録が確認された。薬物の成分が一致した。包丁からルミノール反応が出た。DNAが一致した。
それだけのことが、二ヶ月近くをかけて積み上がった。
柏木は逮捕された。湊人は釈放された。
証明は、ほぼ完成していた。
ただ、菅野の中にまだ残っているものがあった。
柏木という人間を、まだ完全には理解していなかった。
理解する必要があるのか、という問いもあった。理解しなくても、事件は解決した。柏木は逮捕されて、裁判を受ける。それで十分なはずだった。
しかし菅野は、面会を申請した。
それは仕事ではなかった。竹内フミの依頼の範囲を、すでに超えていた。
では何のために。
菅野は少し考えた。
汐里のためだと思っていた。しかし、汐里はもういない。
自分のためかもしれなかった。この仕事を始めてから三ヶ月以上、柏木という人間の内側を想像し続けてきた。その想像の答え合わせを、したかった。
それは職業的な動機ではなかった。
ただ、菅野はその動機を恥じなかった。人間が人間に向かう動機として、それは自然なものだった。
ノートに一行書いた。
「柏木・面会・来週」
ペンを置いた。
窓の外で、二月の終わりの風が鳴っていた。
もうすぐ春が来る。
汐里が待っていた春が。
来る。




