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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
外套の亀裂
39/50

釈放の朝

 湊人が釈放されたのは、二月の後半だった。

 遠藤から「今日の午後、手続きが完了します」と連絡があったのは、朝のうちだった。菅野は河合弁護士にも確認した。「今日の三時ごろに釈放されます」と河合は言った。

 菅野は迎えに行くつもりはなかった。

 それは菅野の仕事ではなかった。湊人には弁護士がいた。家族がいるかどうかは知らなかったが、それも菅野の領域ではなかった。

 ただ、その日の午後、菅野は繁華街を歩いた。

 目的があったわけではなかった。ただ、湊人が自由になった時間帯に、自分もどこかを歩いていたかった。

 路地の前を通った。

 二月の午後の光が、路地の奥まで届いていた。三ヶ月以上前の朝、規制線が張られていた場所に、今は何もなかった。

 菅野は少し立ち止まった。

 汐里がここで発見されてから、三ヶ月以上が経った。その間に、多くのことが動いた。貫井の狂言強盗が発覚した。藤田の横領が決着した。礼香が新しい仕事を見つけた。湊人が釈放された。柏木が逮捕された。

 それぞれの人間が、それぞれの形で前に進んでいた。

 汐里だけが、ここに残っていた。

路地の奥に、何もない空間があった。菅野はしばらくそれを見てから、歩き始めた。


 夕方、遠藤から電話があった。

 「今日の取調べで、重要な話が出ました」と遠藤は言った。

 「何ですか」

 「顔を整えた理由について、柏木が話しました」

 菅野はノートを開いた。

 「どんなことを言いましたか」

 「正確には録音がありますが、概要を伝えます」遠藤は言った。「柏木は、汐里さんの顔を整えた理由として、こう言いました。『最後に、彼女の本当の顔を見たかった。翠としての顔ではなく、汐里さんとしての顔を』と」

 菅野はメモを取った。

 本当の顔。翠としての顔ではなく、汐里としての顔。

 「その言葉の前後に、何か言いましたか」

 「傷つける前に整えた理由として、その言葉が出ました。傷つけた後では、もう彼女の顔が見られなくなる。だから先に整えた、という順序の説明として」

 「傷つけた後では顔が見られなくなる、というのは」

 「取調官がその点を掘り下げたところ、自分がやったことを見たくなかった、という趣旨のことを言ったということです。傷つけた後の彼女の顔を、自分は見ることができない。だから先に整えた。整えた顔だけを、記憶に残したかった、と」

 菅野はその説明を書き留めた。

 整えた顔だけを、記憶に残したかった。

 傷つけることを決意しながら、傷つけた後の姿を記憶に残したくなかった。その矛盾した感覚が、また柏木らしかった。

 「汐里という名前について、何か言いましたか」

 「取調官が、被害者をなぜ汐里さんと呼ぶのか訊いたということです。そのとき柏木は、翠は彼女の名前じゃない、と言いました。彼女は汐里さんだから、と」

 菅野はペンを止めた。

 翠は彼女の名前じゃない。彼女は汐里さんだから。

 湊人も同じことを言っていた。ただし、湊人の言葉は今ここに生きている汐里を指していた。柏木の言葉は、固定された過去の汐里を指していた。

 同じ言葉が、全く違う場所から来ていた。


 夜、菅野は柏木への面会を申請することを考えた。

 取調べの内容は遠藤経由で届いていたが、それは断片だった。全体を聞くには、直接向き合う必要があった。

 ただ、取調べ中の被疑者への外部からの面会は、制限がある。弁護人以外は、原則として認められなかった。

 菅野にできることは、柏木が話す意志を持っていれば、弁護士経由で伝言を送ることだった。

 柏木の弁護士を調べた。接見記録から弁護士事務所を割り出して、翌朝連絡することにした。

 ただし、柏木が会う意志を持っているかどうかは、分からなかった。


 翌朝、弁護士事務所に電話した。

 「菅野昭吾と申します。柏木京介さんに、伝言をお伝えいただけますか」

 「どういったご関係ですか」

 「調査員です。柏木さんとは、事件の調査過程で複数回話しました。伝言の内容は、直接お伝えしたいことがあります、ということだけです。会う意志があるかどうかだけ、確認していただければ」

 弁護士は少し考えた。「確認してみます」

 翌日、弁護士から折り返しの電話があった。

 「柏木から、会ってもいいという返事がありました」

 菅野は少し間を置いた。「いつですか」

 「来週、接見の時間に同席する形であれば可能です。ただし、弁護士が同席します」

 「構いません」

 日程を決めて、電話を切った。

 菅野はノートを開いた。

 来週、柏木と向き合う。

 何を訊くか。何を聞くか。

 菅野には、聞きたいことが一つだけあった。

 取調べでも、遠藤経由でも、まだ出てきていない言葉があった。

 柏木が汐里の死を「救済」と呼ぶとすれば、その「救済」は誰のためのものだったのか。

 汐里のためだと柏木は思っているのか。それとも、自分のためだと分かっているのか。

 その問いだけが、まだ答えのないまま残っていた。


 その夜、湊人から短いメッセージが来た。

 「今日、久しぶりに外を歩きました。寒かったです。ただ、空気が外の空気でした」

 菅野はそれを読んだ。

 外の空気。

 三ヶ月近く、湊人は外の空気を吸えなかった。今日、初めて外を歩いた。

 菅野は返信を打った。「お疲れ様でした」

 それだけにした。

 ほかに言葉がなかった。

 窓の外で、二月の終わりの風が鳴っていた。

 春が近かった。

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