釈放の朝
湊人が釈放されたのは、二月の後半だった。
遠藤から「今日の午後、手続きが完了します」と連絡があったのは、朝のうちだった。菅野は河合弁護士にも確認した。「今日の三時ごろに釈放されます」と河合は言った。
菅野は迎えに行くつもりはなかった。
それは菅野の仕事ではなかった。湊人には弁護士がいた。家族がいるかどうかは知らなかったが、それも菅野の領域ではなかった。
ただ、その日の午後、菅野は繁華街を歩いた。
目的があったわけではなかった。ただ、湊人が自由になった時間帯に、自分もどこかを歩いていたかった。
路地の前を通った。
二月の午後の光が、路地の奥まで届いていた。三ヶ月以上前の朝、規制線が張られていた場所に、今は何もなかった。
菅野は少し立ち止まった。
汐里がここで発見されてから、三ヶ月以上が経った。その間に、多くのことが動いた。貫井の狂言強盗が発覚した。藤田の横領が決着した。礼香が新しい仕事を見つけた。湊人が釈放された。柏木が逮捕された。
それぞれの人間が、それぞれの形で前に進んでいた。
汐里だけが、ここに残っていた。
路地の奥に、何もない空間があった。菅野はしばらくそれを見てから、歩き始めた。
夕方、遠藤から電話があった。
「今日の取調べで、重要な話が出ました」と遠藤は言った。
「何ですか」
「顔を整えた理由について、柏木が話しました」
菅野はノートを開いた。
「どんなことを言いましたか」
「正確には録音がありますが、概要を伝えます」遠藤は言った。「柏木は、汐里さんの顔を整えた理由として、こう言いました。『最後に、彼女の本当の顔を見たかった。翠としての顔ではなく、汐里さんとしての顔を』と」
菅野はメモを取った。
本当の顔。翠としての顔ではなく、汐里としての顔。
「その言葉の前後に、何か言いましたか」
「傷つける前に整えた理由として、その言葉が出ました。傷つけた後では、もう彼女の顔が見られなくなる。だから先に整えた、という順序の説明として」
「傷つけた後では顔が見られなくなる、というのは」
「取調官がその点を掘り下げたところ、自分がやったことを見たくなかった、という趣旨のことを言ったということです。傷つけた後の彼女の顔を、自分は見ることができない。だから先に整えた。整えた顔だけを、記憶に残したかった、と」
菅野はその説明を書き留めた。
整えた顔だけを、記憶に残したかった。
傷つけることを決意しながら、傷つけた後の姿を記憶に残したくなかった。その矛盾した感覚が、また柏木らしかった。
「汐里という名前について、何か言いましたか」
「取調官が、被害者をなぜ汐里さんと呼ぶのか訊いたということです。そのとき柏木は、翠は彼女の名前じゃない、と言いました。彼女は汐里さんだから、と」
菅野はペンを止めた。
翠は彼女の名前じゃない。彼女は汐里さんだから。
湊人も同じことを言っていた。ただし、湊人の言葉は今ここに生きている汐里を指していた。柏木の言葉は、固定された過去の汐里を指していた。
同じ言葉が、全く違う場所から来ていた。
夜、菅野は柏木への面会を申請することを考えた。
取調べの内容は遠藤経由で届いていたが、それは断片だった。全体を聞くには、直接向き合う必要があった。
ただ、取調べ中の被疑者への外部からの面会は、制限がある。弁護人以外は、原則として認められなかった。
菅野にできることは、柏木が話す意志を持っていれば、弁護士経由で伝言を送ることだった。
柏木の弁護士を調べた。接見記録から弁護士事務所を割り出して、翌朝連絡することにした。
ただし、柏木が会う意志を持っているかどうかは、分からなかった。
翌朝、弁護士事務所に電話した。
「菅野昭吾と申します。柏木京介さんに、伝言をお伝えいただけますか」
「どういったご関係ですか」
「調査員です。柏木さんとは、事件の調査過程で複数回話しました。伝言の内容は、直接お伝えしたいことがあります、ということだけです。会う意志があるかどうかだけ、確認していただければ」
弁護士は少し考えた。「確認してみます」
翌日、弁護士から折り返しの電話があった。
「柏木から、会ってもいいという返事がありました」
菅野は少し間を置いた。「いつですか」
「来週、接見の時間に同席する形であれば可能です。ただし、弁護士が同席します」
「構いません」
日程を決めて、電話を切った。
菅野はノートを開いた。
来週、柏木と向き合う。
何を訊くか。何を聞くか。
菅野には、聞きたいことが一つだけあった。
取調べでも、遠藤経由でも、まだ出てきていない言葉があった。
柏木が汐里の死を「救済」と呼ぶとすれば、その「救済」は誰のためのものだったのか。
汐里のためだと柏木は思っているのか。それとも、自分のためだと分かっているのか。
その問いだけが、まだ答えのないまま残っていた。
その夜、湊人から短いメッセージが来た。
「今日、久しぶりに外を歩きました。寒かったです。ただ、空気が外の空気でした」
菅野はそれを読んだ。
外の空気。
三ヶ月近く、湊人は外の空気を吸えなかった。今日、初めて外を歩いた。
菅野は返信を打った。「お疲れ様でした」
それだけにした。
ほかに言葉がなかった。
窓の外で、二月の終わりの風が鳴っていた。
春が近かった。




