外套の告白
柏木がコートについて話したのは、逮捕から一週間が経ったころだった。
遠藤から電話があったのは、午前中だった。
「昨夜の取調べで、新しい話が出ました」と遠藤は言った。
「コートのことですか」と菅野は言った。
遠藤は少し間を置いた。「なぜ分かりましたか」
「順番があると言っていましたね。薬物の投与を最初に認めた。次に来るとすれば、移動の方法か、コートの件だと思っていました」
「そうですか」遠藤は言った。「コートについて、認めました。汐里さんが着ていたコートを、自分が着用して犯行に及んだということを」
菅野はメモを取った。「返り血の処理のためですか」
「その点については、まだ話していません。ただ、コートを着用したことは認めた。犯行後にコートを汐里さんに戻したことも」
「彼女のコートを奪って着て、終わったら戻した」
「はい」
菅野は現場の状況を頭の中で重ねた。コートの外表面への血液付着。内側からの滲出パターンがなかったこと。鑑識が当初指摘して、流れてしまっていた疑問。
それが今、柏木自身の言葉で確認されつつあった。
「コートをなぜ着たか、理由は話しましたか」と菅野は訊いた。
「返り血を防ぐため、という説明はまだです。ただ、着た理由として、一言だけ言ったということです」
「何と言いましたか」
遠藤は少し間を置いた。「彼女のものを、汚したくなかったから、と言ったということです」
菅野はペンを持ったまま、動かなかった。
彼女のものを、汚したくなかった。
コートを着て返り血を防いだことの理由として、そう言った。汐里のコートを自分が着ることで、汐里のコートに返り血がつかないようにした。
しかし、そのコートは最終的に汐里に戻された。戻されたコートの外側には、返り血がついていた。
「汚したくなかった」のに、結果としてコートには血がついた。
その矛盾を、柏木はどう考えていたのか。
菅野には分からなかった。
ただ、「汚したくなかった」という言葉の中に、柏木の論理の一端が見えていた。汐里の身体を傷つけながら、汐里のものを汚したくないという感覚。その矛盾した感覚が、柏木の内側では矛盾していなかった。
午後、菅野は湊人に電話した。
「近いうちに、手続きが進みます」と菅野は言った。「公判の見直しが正式に動いています」
「弁護士から聞いています」と湊人は言った。「ありがとうございます」
「一つだけ確認させてください。あの夜、汐里さんからメッセージが来たとき、どこにいましたか」
「自宅に戻っていました」湊人は言った。「言い合いの後、歩いて帰っていて、ちょうど家に着いたころだったと思います」
「メッセージを読んで、どうしましたか」
「しばらく画面を見ていました。返事をしようとして、できなくて。そのまま眠れない夜を過ごしました」湊人は言った。「翌朝、返事を書こうとして、ニュースを見た」
菅野は「そうですか」と言った。
「ごめんなさい、というメッセージを、最後まで返せなかった」湊人は言った。「それがずっと、引っかかっています」
「返せなかったことを、責める必要はないと思います」と菅野は言った。
「そうかもしれない。でも、引っかかり続けると思います」
「それでいいかもしれない」
湊人は少し間を置いた。「菅野さんは、どうして最後まで諦めなかったんですか。俺が犯人だという方向に流れていたのに」
菅野は少し考えた。「現場の状況が、最後まで引っかかっていました。顔が整えられていた、という事実が」
「顔が」
「あなたがそれをする理由が、私には見えなかった。衝動的に言い合いになった男が、あれだけ丁寧に顔を整える理由が」
湊人は黙っていた。
「あなたは彼女を汐里と呼んでいた」菅野は続けた。「それが、私の中に残っていました。確証ではなかったけれど」
「名前が」
「名前の呼び方が、人間の見え方を変えることがある。あなたが彼女を汐里と呼んでいた事実が、私の感覚の中に留まっていました」
湊人はしばらく黙った。「ありがとうございます」と最終的に言った。
夕方、遠藤から追加の連絡が来た。
「湊人の釈放が、今週中に決まりそうです」と遠藤は言った。「手続きが進んでいます」
「そうですか」
「菅野さんに、一つ伝えておきたいことがあります」
「何ですか」
「柏木の取調べで、今日新しいことが出ました。コートを着た理由についての補足です」
「補足」
「返り血を防ぐためだったことは、今日認めました。ただそれに加えて、一言だけ言ったということです」遠藤は少し間を置いた。「『汐里さんの身体に、自分の血が混じることが嫌だった』と言ったということです」
菅野はメモを取った。
自分の血が混じることが嫌だった。
返り血を防いだ理由として、実用的な説明ではなく、そういう言い方をした。
自分の血が汐里の身体に混じることへの嫌悪。その感覚の中に、柏木の論理が透けて見えた。汐里の身体は、自分のものではない。自分が汚してはいけない。傷つけることと、汚すことを、柏木は分けていた。
その分け方が、菅野には理解できなかった。理解できないまま、記録した。
「他には」
「今日のところはそれだけです。明日以降、さらに話が出てくると思われます」
「分かりました」
夜、菅野はノートを広げて、柏木が今日までに認めたことを書き直した。
薬物の投与。コートの着用と返還。返り血を防ぐための着用。汐里のものを汚したくなかった。自分の血が混じることへの嫌悪。
それらを並べると、一つの人間の内側の風景が見えてきた。
傷つけることへの罪悪感は、その風景の中になかった。あったのは、汚すことへの嫌悪だった。傷つけることは「浄化」で、汚すことは「冒涜」だった。
その区別が、柏木の中では明確にあった。
菅野はその区別を、長い時間をかけて考えた。
理解できなかった。
理解しようとすることと、理解できることは別だった。
ただ、理解できないまま向き合い続けることが、この仕事には必要だった。
菅野はノートを閉じた。
柏木がまだ話していないことがあった。顔を整えた理由。汐里を「救済」と呼んだ理由。なぜ汐里でなければならなかったのか。
それらは、まだ取調べの中で出ていなかった。
あるいは、正式な場ではなく、別の形で聞くことになるかもしれなかった。
菅野には、柏木と直接向き合う機会がまだあるような予感があった。
その予感が正しいかどうかは、分からなかった。
ただ、柏木が「やっていないとは言わない」姿勢を崩さなかったように、菅野にも崩せないものがあった。
最後まで、向き合うということだった。
窓の外で、二月の風が鳴っていた。




