表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
外套の亀裂
38/50

外套の告白

 柏木がコートについて話したのは、逮捕から一週間が経ったころだった。

 遠藤から電話があったのは、午前中だった。

 「昨夜の取調べで、新しい話が出ました」と遠藤は言った。

 「コートのことですか」と菅野は言った。

 遠藤は少し間を置いた。「なぜ分かりましたか」

 「順番があると言っていましたね。薬物の投与を最初に認めた。次に来るとすれば、移動の方法か、コートの件だと思っていました」

 「そうですか」遠藤は言った。「コートについて、認めました。汐里さんが着ていたコートを、自分が着用して犯行に及んだということを」

 菅野はメモを取った。「返り血の処理のためですか」

 「その点については、まだ話していません。ただ、コートを着用したことは認めた。犯行後にコートを汐里さんに戻したことも」

 「彼女のコートを奪って着て、終わったら戻した」

 「はい」

 菅野は現場の状況を頭の中で重ねた。コートの外表面への血液付着。内側からの滲出パターンがなかったこと。鑑識が当初指摘して、流れてしまっていた疑問。

 それが今、柏木自身の言葉で確認されつつあった。

 「コートをなぜ着たか、理由は話しましたか」と菅野は訊いた。

 「返り血を防ぐため、という説明はまだです。ただ、着た理由として、一言だけ言ったということです」

 「何と言いましたか」

 遠藤は少し間を置いた。「彼女のものを、汚したくなかったから、と言ったということです」

 菅野はペンを持ったまま、動かなかった。

 彼女のものを、汚したくなかった。

 コートを着て返り血を防いだことの理由として、そう言った。汐里のコートを自分が着ることで、汐里のコートに返り血がつかないようにした。

 しかし、そのコートは最終的に汐里に戻された。戻されたコートの外側には、返り血がついていた。

 「汚したくなかった」のに、結果としてコートには血がついた。

 その矛盾を、柏木はどう考えていたのか。

 菅野には分からなかった。

 ただ、「汚したくなかった」という言葉の中に、柏木の論理の一端が見えていた。汐里の身体を傷つけながら、汐里のものを汚したくないという感覚。その矛盾した感覚が、柏木の内側では矛盾していなかった。


 午後、菅野は湊人に電話した。

 「近いうちに、手続きが進みます」と菅野は言った。「公判の見直しが正式に動いています」

 「弁護士から聞いています」と湊人は言った。「ありがとうございます」

 「一つだけ確認させてください。あの夜、汐里さんからメッセージが来たとき、どこにいましたか」

 「自宅に戻っていました」湊人は言った。「言い合いの後、歩いて帰っていて、ちょうど家に着いたころだったと思います」

 「メッセージを読んで、どうしましたか」

 「しばらく画面を見ていました。返事をしようとして、できなくて。そのまま眠れない夜を過ごしました」湊人は言った。「翌朝、返事を書こうとして、ニュースを見た」

 菅野は「そうですか」と言った。

 「ごめんなさい、というメッセージを、最後まで返せなかった」湊人は言った。「それがずっと、引っかかっています」

 「返せなかったことを、責める必要はないと思います」と菅野は言った。

 「そうかもしれない。でも、引っかかり続けると思います」

 「それでいいかもしれない」

 湊人は少し間を置いた。「菅野さんは、どうして最後まで諦めなかったんですか。俺が犯人だという方向に流れていたのに」

 菅野は少し考えた。「現場の状況が、最後まで引っかかっていました。顔が整えられていた、という事実が」

 「顔が」

 「あなたがそれをする理由が、私には見えなかった。衝動的に言い合いになった男が、あれだけ丁寧に顔を整える理由が」

 湊人は黙っていた。

 「あなたは彼女を汐里と呼んでいた」菅野は続けた。「それが、私の中に残っていました。確証ではなかったけれど」

 「名前が」

 「名前の呼び方が、人間の見え方を変えることがある。あなたが彼女を汐里と呼んでいた事実が、私の感覚の中に留まっていました」

 湊人はしばらく黙った。「ありがとうございます」と最終的に言った。


 夕方、遠藤から追加の連絡が来た。

 「湊人の釈放が、今週中に決まりそうです」と遠藤は言った。「手続きが進んでいます」

 「そうですか」

 「菅野さんに、一つ伝えておきたいことがあります」

 「何ですか」

 「柏木の取調べで、今日新しいことが出ました。コートを着た理由についての補足です」

 「補足」

 「返り血を防ぐためだったことは、今日認めました。ただそれに加えて、一言だけ言ったということです」遠藤は少し間を置いた。「『汐里さんの身体に、自分の血が混じることが嫌だった』と言ったということです」

 菅野はメモを取った。

 自分の血が混じることが嫌だった。

 返り血を防いだ理由として、実用的な説明ではなく、そういう言い方をした。

 自分の血が汐里の身体に混じることへの嫌悪。その感覚の中に、柏木の論理が透けて見えた。汐里の身体は、自分のものではない。自分が汚してはいけない。傷つけることと、汚すことを、柏木は分けていた。

 その分け方が、菅野には理解できなかった。理解できないまま、記録した。

 「他には」

 「今日のところはそれだけです。明日以降、さらに話が出てくると思われます」

 「分かりました」


 夜、菅野はノートを広げて、柏木が今日までに認めたことを書き直した。

 薬物の投与。コートの着用と返還。返り血を防ぐための着用。汐里のものを汚したくなかった。自分の血が混じることへの嫌悪。

 それらを並べると、一つの人間の内側の風景が見えてきた。

 傷つけることへの罪悪感は、その風景の中になかった。あったのは、汚すことへの嫌悪だった。傷つけることは「浄化」で、汚すことは「冒涜」だった。

 その区別が、柏木の中では明確にあった。

 菅野はその区別を、長い時間をかけて考えた。

 理解できなかった。

 理解しようとすることと、理解できることは別だった。

 ただ、理解できないまま向き合い続けることが、この仕事には必要だった。

 菅野はノートを閉じた。

 柏木がまだ話していないことがあった。顔を整えた理由。汐里を「救済」と呼んだ理由。なぜ汐里でなければならなかったのか。

 それらは、まだ取調べの中で出ていなかった。

 あるいは、正式な場ではなく、別の形で聞くことになるかもしれなかった。

 菅野には、柏木と直接向き合う機会がまだあるような予感があった。

 その予感が正しいかどうかは、分からなかった。

 ただ、柏木が「やっていないとは言わない」姿勢を崩さなかったように、菅野にも崩せないものがあった。

 最後まで、向き合うということだった。

 窓の外で、二月の風が鳴っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ