拘置所の窓
面会室は、菅野が想像していたより狭かった。
アクリルの仕切りがあって、向こう側に椅子が一つ。こちら側にも椅子が一つ。弁護士が隣に座った。記録のために録音が行われることを、事前に告げられていた。
柏木が連れてこられた。
拘置所の服を着ていた。それ以外は、菅野が知っている柏木と変わらなかった。背筋が通っていた。顔の輪郭が整っていた。ただ、顔色が違った。外の光を浴びていない人間の、薄い顔色だった。
向かいに座って、菅野を見た。
「来てくれましたね」と柏木は言った。
「来たかったので」と菅野は言った。
弁護士が「時間は三十分です」と言った。菅野は頷いた。
「何を訊きに来ましたか」と柏木は言った。
「取調べで出ていないことを聞きたいと思っています。ただし、答えたくなければ答えなくていい」
「答えます」柏木は言った。「あなたには、話してもいいと思っています」
「なぜですか」
「あなたは最後まで、汐里さんのことを人間として見ていた」柏木は言った。「翠としてでも、被害者としてでもなく。それが分かったので」
菅野は何も言わなかった。
「訊いてください」と柏木は言った。
「接待の席で再会した夜、何を思いましたか」と菅野は訊いた。
柏木は少し間を置いた。
「最初は信じられませんでした」と彼は言った。「顔が同じだったから、すぐ分かった。ただ、笑い方が違った。予備校で知っていた笑い方ではなかった」
「どう違いましたか」
「予備校での彼女の笑い方は、少し間がありました。笑っていいかどうかを確認してから笑うような。不器用だったけれど、本物だった」柏木は言った。「接待の席での笑い方は、間がなかった。求められる前に笑っていた。それが」
「それが」
「怖かった」柏木は言った。平坦な声で。「怖い、というのは正確ではないかもしれない。ただ、その笑い方を見たとき、何かが壊れる感覚があった」
「何かが壊れた、というのはどういう意味ですか」
「七年間、彼女のことを時々思い出していました。予備校でのあの笑い方を。それが本物だったと思っていた。ただ、接待の席で見た笑い方が、もし彼女の本当の笑い方なら、予備校でのあれは何だったのかと」
「どちらが本当だと思いましたか」
柏木は少し考えた。「予備校でのものが本物だと思いました。今でもそう思っています」
「なぜですか」
「笑い方に、彼女が残っていたから」柏木は言った。「接待の席での笑い方には、彼女がいなかった」
菅野はメモを取った。
彼女がいなかった。
その感覚が、柏木の出発点だった。
「指名し続けた一年間、何を考えていましたか」と菅野は訊いた。
「最初は、話したかった」柏木は言った。「昔のように。ただ、彼女は翠として笑っていて、私のことを覚えていなかった。それでも通い続けたのは」
「なぜですか」
「彼女の近くにいると、予備校でのあの笑い方を思い出せた。それだけです」柏木は言った。「惨めだと思っていました。ただ、やめられなかった」
「覚えていないと確認したのはいつですか」
「通い始めて数か月したころです。遠回しに確認して、覚えていないと分かった」
「そのとき、何かが変わりましたか」
柏木は少し間を置いた。長い間だった。
「変わりました」と彼は最終的に言った。「ただ、どう変わったかを言葉にするのが難しい」
「できる範囲で」
「彼女は私のことを覚えていない。それはつまり、彼女にとって予備校での時間は、残っていないということです」柏木は言った。「私だけが覚えている。私だけが、あの笑い方を知っている」
「それがどう変わることに繋がりましたか」
「あの笑い方が、消えてしまうと思いました」柏木は言った。「彼女が翠として生き続ける限り、あの笑い方は戻らない。どこにも残らない。私の記憶の中にしかない」
「だから」
「だから、私の記憶の中にある形で、残したかった」
菅野はその言葉を書き留めた。
残したかった。記憶の中にある形で。
「それを、救済と呼びましたか」と菅野は訊いた。
柏木は少し目を細めた。「そう呼んでいました。自分の中では」
「誰のための救済でしたか」
長い沈黙があった。
弁護士が少し身じろぎした。菅野は待った。
「分からなくなっています」と柏木は最終的に言った。「彼女のためだと思っていました。ただ、今は」
「今は」
「自分のためだったかもしれない、と思っています」
菅野はその答えを聞いた。
取調べでは出なかった言葉だった。
柏木は自分のためだったかもしれない、と言った。それは、自分の論理が崩れ始めている、ということかもしれなかった。
「汐里さんが、来年の春に引っ越す計画を持っていたことを、知っていましたか」
柏木は顔を上げた。
「知りませんでした」と彼は言った。
「隣県に、待っていた人がいました」
柏木は少し間を置いた。「そうですか」
「彼女は自分で出口を見つけていた」
柏木は答えなかった。
答えなかったが、アクリルの向こうで、何かが柏木の顔を通り過ぎた。
痛みに近い何かが。
菅野はその表情を、書き留めなかった。
書き留める必要がなかった。
「最後に一つだけ」と菅野は言った。
残り時間が少なくなっていた。
「顔を整えたのは、傷つける前でしたね」
「はい」
「なぜ先に整えたのですか」
柏木は少し間を置いた。
「整えた後の顔を、最後に見たかった」と柏木は言った。「翠としての顔ではなく、汐里さんとしての顔を。傷つけた後では、もう見られなくなる。だから先に」
「その顔を見て、どう思いましたか」
「予備校にいた頃と、同じ顔でした」柏木は言った。「当たり前かもしれないけれど、同じ顔でした。年を取っていたけれど、同じ顔だった」
「それで」
「それで、良かったと思いました」柏木は言った。「今は、そう思っていたことが怖い」
菅野は柏木を見た。
良かったと思っていたことが怖い。
その言葉の中に、柏木の今の状態があった。自分がやったことの意味が、少しずつ崩れ始めている。救済だと思っていたものが、何だったのか分からなくなっている。
「ありがとうございます」と菅野は言った。
「菅野さん」と柏木は言った。「汐里さんは、笑っていましたか。最後に整えた顔は、笑っていましたか」
菅野は少し考えた。
現場で見た顔を思い出した。整えられた顔。眠っているような顔。
「眠っているようでした」と菅野は言った。「笑ってはいなかった。ただ、穏やかな顔でした」
柏木は「そうですか」と言った。
それ以上は言わなかった。
面会の時間が終わった。柏木が連れていかれた。
最後まで、背筋は通っていた。
拘置所を出て、菅野は歩いた。
三月の空気だった。冬の芯がなくなっていた。
菅野は歩きながら、面会で聞いたことを整理した。
自分のためだったかもしれない、と柏木は言った。そして、汐里が自分で出口を見つけていたと知ったとき、痛みに近い何かが顔を通り過ぎた。
その痛みが何だったのか。
後悔か。それとも、自分の論理が崩れることへの恐れか。
菅野には分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことがあった。
柏木は汐里を「汐里さん」と呼んでいた。偶像として扱いながら、名前は本物を使っていた。その矛盾が、柏木という人間の全体だった。
愛していたのかもしれなかった。ただし、その愛は汐里の意志を一度も必要としなかった。
それを愛と呼べるかどうかは、菅野には判断できなかった。
判断することが、自分の仕事ではないとも思った。
菅野はコートの前を閉じて、歩き続けた。
三月の風が、前から来た。
冷たかったが、その冷たさの中に春の匂いがあった。




