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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
終焉の救済
41/50

拘置所の窓

 面会室は、菅野が想像していたより狭かった。

 アクリルの仕切りがあって、向こう側に椅子が一つ。こちら側にも椅子が一つ。弁護士が隣に座った。記録のために録音が行われることを、事前に告げられていた。

 柏木が連れてこられた。

 拘置所の服を着ていた。それ以外は、菅野が知っている柏木と変わらなかった。背筋が通っていた。顔の輪郭が整っていた。ただ、顔色が違った。外の光を浴びていない人間の、薄い顔色だった。

 向かいに座って、菅野を見た。

 「来てくれましたね」と柏木は言った。

 「来たかったので」と菅野は言った。

 弁護士が「時間は三十分です」と言った。菅野は頷いた。

 「何を訊きに来ましたか」と柏木は言った。

 「取調べで出ていないことを聞きたいと思っています。ただし、答えたくなければ答えなくていい」

 「答えます」柏木は言った。「あなたには、話してもいいと思っています」

 「なぜですか」

 「あなたは最後まで、汐里さんのことを人間として見ていた」柏木は言った。「翠としてでも、被害者としてでもなく。それが分かったので」

 菅野は何も言わなかった。

 「訊いてください」と柏木は言った。


 「接待の席で再会した夜、何を思いましたか」と菅野は訊いた。

 柏木は少し間を置いた。

 「最初は信じられませんでした」と彼は言った。「顔が同じだったから、すぐ分かった。ただ、笑い方が違った。予備校で知っていた笑い方ではなかった」

 「どう違いましたか」

 「予備校での彼女の笑い方は、少し間がありました。笑っていいかどうかを確認してから笑うような。不器用だったけれど、本物だった」柏木は言った。「接待の席での笑い方は、間がなかった。求められる前に笑っていた。それが」

 「それが」

 「怖かった」柏木は言った。平坦な声で。「怖い、というのは正確ではないかもしれない。ただ、その笑い方を見たとき、何かが壊れる感覚があった」

 「何かが壊れた、というのはどういう意味ですか」

 「七年間、彼女のことを時々思い出していました。予備校でのあの笑い方を。それが本物だったと思っていた。ただ、接待の席で見た笑い方が、もし彼女の本当の笑い方なら、予備校でのあれは何だったのかと」

 「どちらが本当だと思いましたか」

 柏木は少し考えた。「予備校でのものが本物だと思いました。今でもそう思っています」

 「なぜですか」

 「笑い方に、彼女が残っていたから」柏木は言った。「接待の席での笑い方には、彼女がいなかった」

 菅野はメモを取った。

 彼女がいなかった。

 その感覚が、柏木の出発点だった。


 「指名し続けた一年間、何を考えていましたか」と菅野は訊いた。

 「最初は、話したかった」柏木は言った。「昔のように。ただ、彼女は翠として笑っていて、私のことを覚えていなかった。それでも通い続けたのは」

 「なぜですか」

 「彼女の近くにいると、予備校でのあの笑い方を思い出せた。それだけです」柏木は言った。「惨めだと思っていました。ただ、やめられなかった」

 「覚えていないと確認したのはいつですか」

 「通い始めて数か月したころです。遠回しに確認して、覚えていないと分かった」

 「そのとき、何かが変わりましたか」

 柏木は少し間を置いた。長い間だった。

 「変わりました」と彼は最終的に言った。「ただ、どう変わったかを言葉にするのが難しい」

 「できる範囲で」

 「彼女は私のことを覚えていない。それはつまり、彼女にとって予備校での時間は、残っていないということです」柏木は言った。「私だけが覚えている。私だけが、あの笑い方を知っている」

 「それがどう変わることに繋がりましたか」

 「あの笑い方が、消えてしまうと思いました」柏木は言った。「彼女が翠として生き続ける限り、あの笑い方は戻らない。どこにも残らない。私の記憶の中にしかない」

 「だから」

 「だから、私の記憶の中にある形で、残したかった」

 菅野はその言葉を書き留めた。

 残したかった。記憶の中にある形で。

 「それを、救済と呼びましたか」と菅野は訊いた。

 柏木は少し目を細めた。「そう呼んでいました。自分の中では」

 「誰のための救済でしたか」

 長い沈黙があった。

 弁護士が少し身じろぎした。菅野は待った。

 「分からなくなっています」と柏木は最終的に言った。「彼女のためだと思っていました。ただ、今は」

 「今は」

 「自分のためだったかもしれない、と思っています」

 菅野はその答えを聞いた。

 取調べでは出なかった言葉だった。

 柏木は自分のためだったかもしれない、と言った。それは、自分の論理が崩れ始めている、ということかもしれなかった。

 「汐里さんが、来年の春に引っ越す計画を持っていたことを、知っていましたか」

 柏木は顔を上げた。

 「知りませんでした」と彼は言った。

 「隣県に、待っていた人がいました」

 柏木は少し間を置いた。「そうですか」

 「彼女は自分で出口を見つけていた」

 柏木は答えなかった。

 答えなかったが、アクリルの向こうで、何かが柏木の顔を通り過ぎた。

 痛みに近い何かが。

 菅野はその表情を、書き留めなかった。

 書き留める必要がなかった。


 「最後に一つだけ」と菅野は言った。

 残り時間が少なくなっていた。

 「顔を整えたのは、傷つける前でしたね」

 「はい」

 「なぜ先に整えたのですか」

 柏木は少し間を置いた。

 「整えた後の顔を、最後に見たかった」と柏木は言った。「翠としての顔ではなく、汐里さんとしての顔を。傷つけた後では、もう見られなくなる。だから先に」

 「その顔を見て、どう思いましたか」

 「予備校にいた頃と、同じ顔でした」柏木は言った。「当たり前かもしれないけれど、同じ顔でした。年を取っていたけれど、同じ顔だった」

 「それで」

 「それで、良かったと思いました」柏木は言った。「今は、そう思っていたことが怖い」

 菅野は柏木を見た。

 良かったと思っていたことが怖い。

 その言葉の中に、柏木の今の状態があった。自分がやったことの意味が、少しずつ崩れ始めている。救済だと思っていたものが、何だったのか分からなくなっている。

 「ありがとうございます」と菅野は言った。

 「菅野さん」と柏木は言った。「汐里さんは、笑っていましたか。最後に整えた顔は、笑っていましたか」

 菅野は少し考えた。

 現場で見た顔を思い出した。整えられた顔。眠っているような顔。

 「眠っているようでした」と菅野は言った。「笑ってはいなかった。ただ、穏やかな顔でした」

 柏木は「そうですか」と言った。

 それ以上は言わなかった。

 面会の時間が終わった。柏木が連れていかれた。

 最後まで、背筋は通っていた。


 拘置所を出て、菅野は歩いた。

 三月の空気だった。冬の芯がなくなっていた。

 菅野は歩きながら、面会で聞いたことを整理した。

 自分のためだったかもしれない、と柏木は言った。そして、汐里が自分で出口を見つけていたと知ったとき、痛みに近い何かが顔を通り過ぎた。

 その痛みが何だったのか。

 後悔か。それとも、自分の論理が崩れることへの恐れか。

 菅野には分からなかった。

 ただ、一つだけ分かったことがあった。

 柏木は汐里を「汐里さん」と呼んでいた。偶像として扱いながら、名前は本物を使っていた。その矛盾が、柏木という人間の全体だった。

 愛していたのかもしれなかった。ただし、その愛は汐里の意志を一度も必要としなかった。

 それを愛と呼べるかどうかは、菅野には判断できなかった。

 判断することが、自分の仕事ではないとも思った。

 菅野はコートの前を閉じて、歩き続けた。

 三月の風が、前から来た。

 冷たかったが、その冷たさの中に春の匂いがあった。

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