一致
DNA分析の結果が出たのは、五日後だった。
遠藤から電話があったのは、朝の八時を少し過ぎたころだった。その時刻に電話があること自体が、何かを示していた。
「結果が出ました」と遠藤は言った。
菅野は答えなかった。続きを待った。
「包丁から検出された血液のDNA、朝倉汐里さんのDNAと一致しました」
菅野は窓の外を見た。
二月の朝の光が、路面に薄く落ちていた。
「一致した」と菅野は言った。自分に確認するように。
「はい。鑑識の分析として、確定的な一致です」遠藤は言った。「柏木京介を被疑者として、逮捕状の請求を今日中に動かします」
「湊人の件は」
「並行して、公判の見直しを上申しました。弁護側の申し立てと合わせて、裁判所への連絡が今日入ります」
菅野は「分かりました」と言った。
「菅野さん」と遠藤は言った。「あなたの調査がなければ、ここまで来られませんでした」
菅野は何も言わなかった。
「ありがとうございます」と遠藤は言って、電話を切った。
しばらく、部屋の中で動かなかった。
DNA一致。柏木への逮捕状請求。湊人の公判見直し。
全てが動いた。
菅野は三ヶ月以上前の朝を思い出した。十一月の、夜が明けきらない時間帯。規制線。黄色と黒のテープ。エメラルドの髪が地面に広がっていた。名前のない女が、路地に倒れていた。
その朝から、今日まで。
菅野はノートを開いた。最初のページに、「被害者・女性・推定二十代前半・身元不明」と書いた文字があった。
今日、その文字の意味が変わった。
身元不明だった女は、最後まで朝倉汐里だった。そして朝倉汐里を殺した人間が、今日、被疑者として特定された。
菅野はノートを閉じた。
午前中、河合弁護士に電話した。
「DNA一致の結果が出ました」と菅野は言った。「柏木への逮捕状請求が今日動きます」
河合は少し間を置いた。「湊人は」
「公判見直しの上申が入っています。裁判所への連絡が今日入るということで」
「良かった」と河合は言った。静かな、しかし確かな声だった。「湊人に伝えます。今日、面会に行きます」
「一つお願いがあります」と菅野は言った。
「何ですか」
「湊人に、汐里さんのことを伝えてもらえますか。彼女が来年の春を目指していたこと。隣県に待っていた人がいたこと。最後のメッセージが、ごめんなさい、という言葉だったこと」
河合は少し黙った。「伝えます」
「ありがとうございます」
電話を切った。
昼過ぎ、竹内フミに電話した。
依頼人への報告だった。最初の、そして最後の報告になるかもしれなかった。
「重要な進捗があります」と菅野は言った。「凶器から被害者のDNAが検出されました。本日、別の人物への逮捕状が請求されます」
竹内は少し間を置いた。「岡崎さんではないんですね」
「はい」
「それは、良かった」竹内は言った。「岡崎さんが、やっていなかったんですね」
「証明されていませんが、そういう方向です」
「あなたが続けてくれていたから」竹内は言った。「あなたが諦めなかったから」
菅野は「仕事です」と言った。
「仕事だとしても」竹内は言った。「汐里さんに、ちゃんとした答えが出そうで。私は、それが嬉しい」
「もう少し時間がかかります。逮捕されても、裁判があります」
「分かっています。ただ、方向が決まった。それが大事です」竹内は言った。「菅野さん、汐里さんは、誰かに本名で呼ばれていましたか。最後まで」
菅野は少し考えた。「一人だけ、いました」
「それなら良かった」竹内は言った。「ありがとうございました」
電話が切れた。
夕方、遠藤から連絡があった。
「柏木の逮捕状、発付されました」と遠藤は言った。「今夜、執行します」
「本人は」
「自宅にいます。確認しています」
「弁護士は」
「選任済みですので、連絡は入ります」
「分かりました」菅野は言った。「一つだけ確認させてください。逮捕の際、柏木は何か言いましたか。今日中に分かれば」
「後で連絡します」
電話を切った。
夜、菅野は自宅で待った。
何かをするわけではなかった。ただ、この夜に部屋の外にいたくなかった。
九時過ぎ、遠藤からメッセージが来た。
「執行しました。柏木は抵抗しませんでした。連行の際、一言だけ言いました」
菅野は返信した。「何と言いましたか」
しばらくして返信が来た。
「『もう終わりにしたかった』と言いました。それだけです」
菅野はその文を、二度読んだ。
もう終わりにしたかった。
何を終わりにしたかったのか。逃げることを。隠すことを。あるいは、もっと前から続いていた何かを。
菅野には分からなかった。
分かることは、第五章で柏木自身と向き合うときまで、持ち越すことにした。
深夜、菅野はノートの最後のページに、今日の日付と一行だけ書いた。
「柏木京介・逮捕・朝倉汐里・二十三歳のために」
ペンを置いた。
窓の外は静かだった。二月の夜の、深い静けさだった。
三ヶ月以上が経っていた。
汐里が路地で発見されてから、今夜まで。
菅野はしばらく、窓の外を見ていた。
終わっていなかった。柏木が逮捕されても、全ては終わっていなかった。
裁判があった。真相の全体が、まだ明かされていなかった。
なぜ顔を整えたのか。柏木の言葉で、聞く必要があった。
なぜ汐里でなければならなかったのか。
なぜ「救済」という言葉を、柏木は使ったのか。
菅野は電気を消した。
二月の夜が、深くなっていた。




