表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
外套の亀裂
35/50

一致

 DNA分析の結果が出たのは、五日後だった。

 遠藤から電話があったのは、朝の八時を少し過ぎたころだった。その時刻に電話があること自体が、何かを示していた。

 「結果が出ました」と遠藤は言った。

 菅野は答えなかった。続きを待った。

 「包丁から検出された血液のDNA、朝倉汐里さんのDNAと一致しました」

 菅野は窓の外を見た。

 二月の朝の光が、路面に薄く落ちていた。

 「一致した」と菅野は言った。自分に確認するように。

 「はい。鑑識の分析として、確定的な一致です」遠藤は言った。「柏木京介を被疑者として、逮捕状の請求を今日中に動かします」

 「湊人の件は」

 「並行して、公判の見直しを上申しました。弁護側の申し立てと合わせて、裁判所への連絡が今日入ります」

 菅野は「分かりました」と言った。

 「菅野さん」と遠藤は言った。「あなたの調査がなければ、ここまで来られませんでした」

 菅野は何も言わなかった。

 「ありがとうございます」と遠藤は言って、電話を切った。


 しばらく、部屋の中で動かなかった。

 DNA一致。柏木への逮捕状請求。湊人の公判見直し。

 全てが動いた。

 菅野は三ヶ月以上前の朝を思い出した。十一月の、夜が明けきらない時間帯。規制線。黄色と黒のテープ。エメラルドの髪が地面に広がっていた。名前のない女が、路地に倒れていた。

 その朝から、今日まで。

 菅野はノートを開いた。最初のページに、「被害者・女性・推定二十代前半・身元不明」と書いた文字があった。

 今日、その文字の意味が変わった。

 身元不明だった女は、最後まで朝倉汐里だった。そして朝倉汐里を殺した人間が、今日、被疑者として特定された。

 菅野はノートを閉じた。


 午前中、河合弁護士に電話した。

 「DNA一致の結果が出ました」と菅野は言った。「柏木への逮捕状請求が今日動きます」

 河合は少し間を置いた。「湊人は」

 「公判見直しの上申が入っています。裁判所への連絡が今日入るということで」

 「良かった」と河合は言った。静かな、しかし確かな声だった。「湊人に伝えます。今日、面会に行きます」

 「一つお願いがあります」と菅野は言った。

 「何ですか」

 「湊人に、汐里さんのことを伝えてもらえますか。彼女が来年の春を目指していたこと。隣県に待っていた人がいたこと。最後のメッセージが、ごめんなさい、という言葉だったこと」

 河合は少し黙った。「伝えます」

 「ありがとうございます」

 電話を切った。


 昼過ぎ、竹内フミに電話した。

 依頼人への報告だった。最初の、そして最後の報告になるかもしれなかった。

 「重要な進捗があります」と菅野は言った。「凶器から被害者のDNAが検出されました。本日、別の人物への逮捕状が請求されます」

 竹内は少し間を置いた。「岡崎さんではないんですね」

 「はい」

 「それは、良かった」竹内は言った。「岡崎さんが、やっていなかったんですね」

 「証明されていませんが、そういう方向です」

 「あなたが続けてくれていたから」竹内は言った。「あなたが諦めなかったから」

 菅野は「仕事です」と言った。

 「仕事だとしても」竹内は言った。「汐里さんに、ちゃんとした答えが出そうで。私は、それが嬉しい」

 「もう少し時間がかかります。逮捕されても、裁判があります」

 「分かっています。ただ、方向が決まった。それが大事です」竹内は言った。「菅野さん、汐里さんは、誰かに本名で呼ばれていましたか。最後まで」

 菅野は少し考えた。「一人だけ、いました」

 「それなら良かった」竹内は言った。「ありがとうございました」

 電話が切れた。


 夕方、遠藤から連絡があった。

 「柏木の逮捕状、発付されました」と遠藤は言った。「今夜、執行します」

 「本人は」

 「自宅にいます。確認しています」

 「弁護士は」

 「選任済みですので、連絡は入ります」

 「分かりました」菅野は言った。「一つだけ確認させてください。逮捕の際、柏木は何か言いましたか。今日中に分かれば」

 「後で連絡します」

 電話を切った。


 夜、菅野は自宅で待った。

 何かをするわけではなかった。ただ、この夜に部屋の外にいたくなかった。

 九時過ぎ、遠藤からメッセージが来た。

 「執行しました。柏木は抵抗しませんでした。連行の際、一言だけ言いました」

 菅野は返信した。「何と言いましたか」

 しばらくして返信が来た。

 「『もう終わりにしたかった』と言いました。それだけです」

 菅野はその文を、二度読んだ。

 もう終わりにしたかった。

 何を終わりにしたかったのか。逃げることを。隠すことを。あるいは、もっと前から続いていた何かを。

 菅野には分からなかった。

 分かることは、第五章で柏木自身と向き合うときまで、持ち越すことにした。


 深夜、菅野はノートの最後のページに、今日の日付と一行だけ書いた。

 「柏木京介・逮捕・朝倉汐里・二十三歳のために」

 ペンを置いた。

 窓の外は静かだった。二月の夜の、深い静けさだった。

 三ヶ月以上が経っていた。

 汐里が路地で発見されてから、今夜まで。

 菅野はしばらく、窓の外を見ていた。

 終わっていなかった。柏木が逮捕されても、全ては終わっていなかった。

 裁判があった。真相の全体が、まだ明かされていなかった。

 なぜ顔を整えたのか。柏木の言葉で、聞く必要があった。

 なぜ汐里でなければならなかったのか。

 なぜ「救済」という言葉を、柏木は使ったのか。

 菅野は電気を消した。

 二月の夜が、深くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ