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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
外套の亀裂
36/50

逮捕の翌朝

 翌朝、菅野は早く目が覚めた。

 いつもより一時間ほど早い時刻だった。眠れなかったわけではなかった。ただ、目が覚めた。

 コーヒーを淹れて、窓の外を見た。

 二月の朝の光が、路面に薄く落ちていた。昨夜と同じ街が、昨夜と同じように続いていた。柏木が逮捕されても、街は変わらなかった。人が歩いていた。車が通っていた。コンビニの明かりがついていた。

 菅野はコーヒーを飲みながら、柏木が言った言葉を思い返した。

 「もう終わりにしたかった」

 逮捕される直前に、その言葉を言った。

 逃げることを終わりにしたかった、という意味かもしれなかった。隠し続けることに、疲れていたのかもしれなかった。

 ただ、菅野にはもう一つの読み方も浮かんでいた。

 汐里を殺したことで、何かが終わったと思っていた。それが終わっていなかった。自分の行為が追われていることで、終わりが来ていないことを、柏木は知っていた。だから逮捕されることで、「もう終わりにしたかった」と言った。

 どちらの読み方が正しいのか、菅野には分からなかった。

 両方が同時に正しい可能性もあった。


 午前中、遠藤から電話があった。

 「取調べが始まっています」と遠藤は言った。「柏木は弁護士の同席のもと、今のところほとんど話していません」

 「否認していますか」

 「否認とも言えない。黙秘でもない。訊かれたことに対して、『弁護士と相談してから』という答えを繰り返しているということです」

 「話す意志はあるということですか」

 「そう解釈することもできます。ただ、今の段階では何も出ていない」

 「湊人の件は」

 「今日の午後、公判の見直しについて、裁判所への申し立てが受理されました。手続きとして、少し時間がかかりますが、方向は決まりました」

 菅野は「分かりました」と言った。

 「一つ、菅野さんに確認したいことがあります」と遠藤は言った。

 「何ですか」

 「柏木と、最後に話したとき。返り血のことを訊いたとき、彼は今日はここまでにしてください、と言いましたね」

 「はい」

 「そのとき、何か他に言いましたか。気になっていることがあって」

 菅野は記憶を辿った。「菅野さんは良い探偵だと思います、と言いました。それだけです」

 遠藤は少し間を置いた。「その言葉の意味を、どう受け取りましたか」

 「褒めているわけではないと思いました。ここまで来るとは思っていなかった、という驚きと、ここまで来てしまった、という諦めが混じっているような言い方でした」

 「なるほど」遠藤は言った。「取調べの参考にします」

 電話を切った。


 昼過ぎ、菅野は礼香に電話した。

 報告のためではなかった。ただ、知らせておきたかった。

 「別の人物が逮捕されました」と菅野は言った。「翠さんの件で」

 礼香は少し間を置いた。「岡崎さんじゃなかったんですね」

 「そういうことです」

 「誰ですか」

 「今の段階では言えません。ただ、翠さんを知っていた人物です」

 礼香はしばらく黙っていた。

 「翠が来なくなる少し前、指名客の中に一人だけ、なんか違う人がいると思っていたんです」と礼香は言った。「他の客と、何かが違う感じがして」

 「どう違いましたか」

 「うまく言えないんですが、他の客は翠を見ていた。でもその人は、翠の向こう側にある何かを見ているような感じがして」

 菅野は「そうですか」と言った。

 「それが、その人ですか」

 「分かりません」と菅野は言った。

 礼香は「そうですか」と言って、電話を切った。


 夕方、菅野は藤田に連絡した。

 これも、報告というよりも、知らせることだった。

 「別の人物が逮捕されました」と菅野は言った。「翠さんの件で」

 藤田は少し長い沈黙の後、「そうですか」と言った。

 「ええ」

 「岡崎さんは」

 「公判の見直しが動いています」

 また沈黙があった。

 「あなたが背負われていく姿を見た、という話をしてくれましたね」と菅野は言った。「その証言が、大きな手がかりになりました」

 「そうですか」藤田は言った。「私は、それを見て絶望していました。でも、それが手がかりになったとは」

 「あなたが正直に話してくれたからです」

 藤田は「ありがとうございます」と言った。「翠に、伝わりますか。そんなことはないか」

 「分かりません」と菅野は言った。「ただ、あなたが話してくれたことは、確かに何かに繋がりました」

 電話を切った。


 夜、菅野は湊人のアパートに向かった。

 電話ではなく、直接会いに行きたかった。

 ドアを開けた湊人は、菅野の顔を見た。

 「聞きました」と湊人は言った。「弁護士から」

 「そうですか」

 「中に入ってください」

 部屋に上がった。湊人は畳に座って、菅野を見た。顔の削れ方は変わらなかったが、目の質が変わっていた。以前の疲弊の中にあった、追い詰められた光がなくなっていた。

 「公判の見直しが動いています」と菅野は言った。「まだ手続きが必要ですが、方向は決まりました」

 湊人は頷いた。

 「汐里のことを、弁護士から聞きました」と湊人は言った。「来年の春の計画のこと。隣県に行こうとしていたこと」

 「はい」

 「俺は知らなかった。あの夜、全部終わらせると言っていた意味が、やっと分かりました」湊人は膝の上に手を置いた。「彼女は、ここを出ようとしていた。俺との関係も含めて、全部を終わらせて、新しいところへ行こうとしていた」

 「そうだったと思います」

 「俺が邪魔した」湊人は言った。「あの夜、俺が邪魔したせいで、彼女は一人で帰れなくなった。あの路地を、一人で歩いた」

 菅野は何も言わなかった。

 「俺のせいじゃない、と言ってほしいわけじゃないです」湊人は続けた。「ただ、そう思っています。ずっとそう思います」

 「そうですね」と菅野は言った。否定しなかった。

 湊人は少し驚いたような顔をした。否定されると思っていたのかもしれなかった。

 「そう思い続けることが、あなたが汐里さんに対してできることかもしれない」と菅野は言った。「責任を感じ続けることが」

 湊人は黙っていた。

 「最後のメッセージが、ごめんなさいだったと聞きましたか」

 「聞きました」湊人は言った。「彼女が謝ることは何もないのに」

 「彼女は謝りたかったんだと思います。怒鳴り返したことを。あるいは、もっと前から積み重なっていた何かを」

 湊人は目を伏せた。「俺こそ、謝らなければならないことばかりです」

 菅野は立ち上がった。「お気をつけて」

 湊人は顔を上げた。「菅野さん、汐里を……朝倉汐里を見つけてくれて、ありがとうございました」

 菅野は頷いた。

 アパートを出て、夜の街を歩いた。


 帰り道、菅野は汐里のことを考えた。

 誰かに本名で呼ばれていたか、と竹内は訊いた。一人だけいた、と菅野は答えた。

 湊人は最後まで、彼女を朝倉汐里と呼んだ。翠でも、あの子でもなく。

 柏木は彼女を何と呼んでいたのか。

 予備校で出会ったころは、本名で呼んでいたはずだった。翠という名前を知ったのは、接待の席で再会したときだった。

 柏木の中で、彼女は何という名前だったのか。

 菅野にはまだ分からなかった。

 それを知るためには、柏木と向き合う必要があった。

 ただ、今夜はそこまで考えが届かなかった。

 菅野はコートの前を閉じて、歩き続けた。

 二月の夜の風が、路地から吹いてきた。

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