台所の刃
令状が執行されたのは、二月の第二週だった。
遠藤から「今日、柏木の自宅に入ります」と朝に連絡があった。菅野は立ち会えなかった。ただ、結果を待った。
その日の午後、仕事にならなかった。
菅野はノートを読み返したり、コーヒーを飲んだり、窓の外を見たりした。何かをしているようで、何もしていなかった。
結果の電話が来たのは、夕方の五時過ぎだった。
「入りました」と遠藤は言った。
「どうでしたか」
「順番に話します」遠藤は言った。落ち着いた声だったが、その落ち着きの中に、何かを抑えているような気配があった。「まず、全体の印象として、自宅は整然としていました。きれいに整理されていて、生活感が薄かった。一人暮らしの男性の部屋として、清潔すぎるという印象を、捜索に入った全員が感じたということです」
「何も捨てていないということですか」
「逆です。必要なものだけが残っていて、余分なものがない。そういう整然さでした」
菅野はメモを取った。
「キッチンはどうでしたか」
「包丁が三本ありました。一本は明らかに新しいもので、購入から日が浅いと思われる状態でした。残り二本について、ルミノール検査を実施しました」
菅野はペンを持ったまま、動かさなかった。
「一本から、反応が出ました」と遠藤は言った。
「反応が」
「微細な反応です。洗浄が徹底されていて、肉眼では確認できないレベルですが、ルミノールが反応しました。血液の可能性があります。詳細な鑑識分析は、これからです」
「その包丁は」
「押収しました。鑑識に送っています。DNA分析まで数日かかりますが」
菅野は少し間を置いた。「他に何か出ましたか」
「衣類の類は、事件後に処分されたと思われ、ほとんど残っていませんでした。クローゼットの中が、季節の変わり目にしては薄かった。ただし、これは状況から推測するだけで」
「薬の類は」
「睡眠導入剤の空のシートが、ゴミ箱の中から見つかりました。医療機関で処方されたものと同一の薬品名が記載されていました。ただし、空のシートだけでは、何錠使ったかは分からない」
「注射器は」
「見つかりませんでした。処分済みと見られます」
「柏木本人は」
「自宅にいました。捜索を受け入れました。抵抗しませんでした」遠藤は言った。「捜索の間、キッチンのところに来たとき、一瞬だけ包丁の方を見ました。それだけです。それ以外は、無表情で部屋の隅に立っていた」
菅野は包丁を見た柏木の姿を、想像した。
無表情で立っていた男が、包丁のところでだけ、一瞬目を向けた。
「今、柏木は」
「自宅にいます。今日は任意同行は求めませんでした。ただ、DNA分析の結果次第で、動きます」
「分かりました」菅野は言った。「ありがとうございます」
電話を切って、菅野はしばらく動かなかった。
ルミノール反応。血液の可能性。
洗浄が徹底されていたにもかかわらず、反応が出た。どれだけ丁寧に洗っても、刃の根元や柄の溝に、微細な血液が残ることがある。それが二ヶ月以上が経った今も残っていた。
菅野は包丁について考えた。
資料の設定では、凶器を翌朝から普通の包丁として使い続けていた。洗浄して、研磨して、日常の中に埋没させた。それが証拠の消し方として選ばれた方法だった。
ただし、菅野はその設定を知らなかった。
知らなかったが、ルミノール反応という事実が、同じことを示していた。使い続けていた。だから手元にあった。だから反応が出た。
もし捨てていれば、反応は出なかったかもしれなかった。
逆説だった。
日常の中に埋没させることで証拠を消そうとした行為が、証拠を手元に残す結果になった。
夜、菅野は河合弁護士に連絡した。
「包丁からルミノール反応が出ました」と菅野は言った。「DNA分析の結果待ちです」
河合は少し間を置いた。「それが汐里さんのDNAと一致すれば」
「一致すれば、直接的な物証になります」
「公判の申し立てに、このタイミングで新事実として加えることができます」河合は言った。「ただし、DNA結果が出る前に動くことのリスクもある。結果が出てからの方が」
「結果が出るまで何日かかりますか」
「鑑識の状況次第ですが、早ければ三日、通常は一週間程度です」
「公判の第一回まで、どのくらいありますか」
「来週の月曜日です」
菅野は日数を数えた。DNA結果が出るまでの時間と、公判開始までの時間が、ぎりぎりで重なるかどうかの問題だった。
「結果が出た時点で、すぐに申し立てに動けますか」
「動けます」河合は言った。「準備はしてあります。あとは結果次第です」
「分かりました」
電話を切って、菅野はノートを開いた。
今日の結果を書いた。
「自宅捜索・包丁三本・一本からルミノール反応・血液の可能性・DNA分析中」「睡眠導入剤の空シート・同一薬品・残数不明」「自宅整然・衣類薄・計画的処分の可能性」「柏木・包丁のところで一瞬視線・無表情で立っていた」
書き終えて、菅野はその四行を見た。
柏木が包丁のところで視線を向けた、という一行が、なぜか他の行より重く感じられた。
捜索の間、無表情で立っていた男が、包丁のところだけ見た。
何を思って見たのか。
焦りではなかったはずだった。焦っていれば、もっと前に処分していた。
菅野はその視線の意味を、しばらく考えた。
答えは出なかった。
ただ、その視線が何かを含んでいることは、分かった。
翌朝、遠藤から短いメッセージが来た。
「昨夜、柏木が弁護士を選任しました」
菅野はそれを読んだ。
弁護士を選任した。それは、正式な手続きとしての対応を始めたということだった。観念したわけではないかもしれなかった。ただ、状況を認識した、ということだった。
菅野は返信した。「分かりました。DNA結果を待ちます」
その日の午後、菅野は汐里の年表を、最後まで読んだ。
十五歳・予備校で柏木と出会う。十六歳・父の会社倒産。十七歳・両親失踪。一人になる。十八歳・卒業。春を考えていた。二十歳から二十一歳・南区へ。翠になる。二十三歳・来年の春の計画。十月に中村幸枝へメッセージ。十一月・柏木と最後の夜。路地で発見される。
最後の行を書き直した。
「十一月・路地で発見される・朝倉汐里・二十三歳」
その下に、一行だけ加えた。
「来年の春・隣県・待っていた人がいた」
菅野はノートを閉じた。
DNA結果を待つしかなかった。
二月の午後の光が、窓から斜めに入っていた。薄い光だった。冬の終わりが、少しずつ近づいているような光だった。
汐里が目指していた春は、もうすぐそこにあった。
彼女は、その春に間に合わなかった。
菅野は窓の外を、少しの間見ていた。




