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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
外套の亀裂
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医療廃棄物

 薬物の入手経路を追うことは、菅野一人の力では限界があった。

 処方薬の記録は医療機関が管理していて、令状なしには確認できなかった。ただ、遠藤が正式な捜査として動いている以上、その方向は警察に任せることができた。

 菅野が確認できることを、菅野がやる。

 それがこの仕事の基本だった。

 菅野が確認したかったのは、注射器の処分についてだった。

 薬物を使ったとすれば、注射器が必要だった。注射器をどこで処分したか。

 菅野は柏木の行動範囲を考えた。職場の周辺。繁華街。帰り道。その範囲に、注射器を処分できる場所があるかどうか。

 ゴミ箱に捨てれば、収集の過程で発見される可能性がある。川に流せば、下流で見つかる可能性がある。自宅で保管すれば、捜索で発見される。

 もっとも自然な処分方法は何か。

 菅野はそこで止まった。

 自然な処分。使用済みの注射器を、自然に処分できる場所。

 糖尿病患者が自己注射に使った針を処分するための、専用の回収ボックス。薬局や病院、あるいは駅の施設に設置されているものだった。

 医療廃棄物として回収されるので、その後の追跡が難しい。そして、使用済みの注射器を持ち込むこと自体は、糖尿病患者であれば自然な行動だった。

 菅野は柏木の職場から自宅方向への経路を、頭の中で辿った。

 駅を使うとすれば、最寄り駅のデパートや商業施設に、そういった回収ボックスがある可能性があった。


 午前中、菅野は柏木の最寄り駅に向かった。

 職場の住所と、「毎晩あの路地を通って帰る」という柏木の言葉から、最寄り駅はある程度絞れていた。路地から自宅方向への動線として、自然な駅だった。

 駅に隣接した商業施設に入った。

 薬局のフロアを確認した。注射器の回収ボックスが、薬局のカウンター脇に設置されていた。プラスチックの容器で、投入口が小さく、中身は見えない構造だった。

 回収ボックスの管理について、薬局のスタッフに訊いた。

 「定期的に回収業者が来て、医療廃棄物として処理します」とスタッフは言った。「いつ回収するかは、業者のスケジュールによります」

 「前回の回収はいつでしたか」

 「先週だったと思います」

 事件から二ヶ月以上が経っていた。回収は複数回行われていた。その時点で、投棄された注射器の追跡は不可能だった。

 「このボックスに投棄する際に、何か記録は残りますか」

 「残りません。匿名で投棄できます」

 「カメラはありますか」

 スタッフは少し考えて、「カウンター全体を映したカメラはありますが、このボックスのすぐ前を映したものではないですね」と言った。

 菅野は礼を言って、薬局を出た。

 駐留したところで、証拠は得られなかった。ただ、場所の確認はできた。

 柏木がここを使ったかどうかは、証明できなかった。

 ただ、使える場所がここにあったことは、分かった。


 午後、遠藤に連絡した。

 「薬物の入手経路の確認は、どこまで進んでいますか」と菅野は訊いた。

 「柏木の医療記録を照会しました」と遠藤は言った。「睡眠導入剤の処方記録が、複数の医療機関から確認されました。過去一年間で、三か所の医療機関から断続的に処方を受けていた記録があります」

 「三か所」

 「不眠を訴えて処方してもらったということで、各医療機関の処方量は適正範囲内ですが、三か所で受け取っていた合計量は、通常の使用量を超えています。薬を溜めていた可能性があります」

 菅野はメモを取った。三か所の医療機関。合計量が通常を超える。溜めていた可能性。

 「その薬が、事件当夜に使われたものと同種の薬物ですか」

 「成分の一致を確認しています。同じ系統の睡眠導入剤です」

 「これは証拠として使えますか」

 「処方記録と、被害者の血中成分の一致は、状況証拠として機能します。ただし、柏木が被害者に投与したという直接の証明ではないという留保はあります」

 「注射器については」

 「処方薬であれば経口投与が通常です。注射器を別途用意した可能性がありますが、購入記録は確認中です。インターネットでの購入も調べています」

 「駅の商業施設に、注射器の回収ボックスがあることを確認しました」と菅野は言った。「柏木の帰り道の動線上です」

 「記録は」

 「残っていません。ただ、使える場所として確認しました」

 「分かりました。カメラの記録が残っていれば確認します」

 電話を切った。


 夕方、菅野は柏木の「計画性」について、改めて考えた。

 薬物を三か所の医療機関から溜めた。注射器を用意した。タイムカードの仕掛けを作った。搬入口の暗証番号を使って戻った。コートを防護服として使った。顔を整えた後に犯行に及んだ。凶器を洗浄した。衣服を四日後に他県で処分した。注射器を医療廃棄物の回収ボックスに投棄した。

 それぞれの行動が、それぞれに理由があり、それぞれに逃げ道を塞いでいた。

 これだけの準備を、いつから始めたのか。

 接待の席で再会したのが五月か六月。事件は十一月。

 五ヶ月から六ヶ月の間に、全ての準備が行われた可能性があった。

 菅野はそれを考えながら、八月の出来事を思った。

 翠が具合を悪くした夜。柏木が背負って送った夜。

 あれは、試行だったのかもしれなかった。薬物の効き方を確認するための。あるいは、動線を確認するための。

 その仮定を、証明する方法はなかった。

 ただ、計画の精度を考えると、そういった試行がなければ、これだけ周到な犯行は難しかったかもしれなかった。

 菅野はノートに「八月・試行の可能性・証明不可」と書いた。

 書いて、線を引かなかった。


 夜、菅野は凶器の問題を考えた。

 資料の設定では、凶器の包丁が「翌朝から自宅キッチンで普通の包丁として使用」されていた。菅野はその設定を知らなかった。ただ、凶器が発見されていないという事実は知っていた。

 遠藤に電話した。「凶器の包丁は、まだ発見されていませんか」と訊いた。

 「はい。現場周辺の捜索では見つかっていません」

 「柏木の自宅の捜索は」

 「令状を請求中です。近日中に執行できると思います」

 「自宅のキッチンも確認してもらえますか」菅野は言った。

 「キッチン、というのは」

 「凶器を、日常品として使い続けた可能性があります。入念に洗浄して、普通の包丁として使い続けることで、証拠を日常の中に埋没させる。そういう考え方も、あり得ます」

 遠藤は少し間を置いた。「それは、相当な精神的強さが必要ですね」

 「計画性が高い人間は、感情と行動を切り離すことができる場合があります」

 「令状の範囲に含めます」遠藤は言った。「キッチンの包丁類も対象にします」

 電話を切った。


 菅野はノートを閉じる前に、今日確認したことを整理した。

 薬物・三か所の医療機関・合計量が通常を超える・血中成分と一致。

 注射器・回収ボックスへの投棄の可能性・証明不可・カメラ確認中。

 凶器・自宅キッチンの可能性・令状捜索で確認予定。

 それぞれが、独立した状況証拠だった。ただし、それぞれが存在することで、全体が一つの人間の計画を示していた。

 薬物を溜めた。注射器を用意した。試行した。タイムカードの仕掛けを作った。コートを使った。顔を整えた。凶器を洗浄した。衣服を処分した。注射器を投棄した。

 それだけのことを、一人の人間がやり遂げた。

 菅野はその人間の像を、頭の中で見た。

 孤独な男。誰からも見えない死角に座っている男。頼まれすぎている方がまだいい、と言った男。汐里は良い子でした、と過去形で言った男。

 その男が、これだけのことをした。

 菅野の中に、悲しみとも怒りとも取れない何かがあった。

 名前がなかった。

 ペンを置いた。

 二月の夜が、深かった。

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