残り香
遠藤から連絡があったのは、二月の最初の週だった。
「柏木の交通記録が出ました」と遠藤は言った。「事件の四日後、他県への移動記録があります」
菅野はノートを開いた。「どこへ」
「交通系カードの使用記録から、隣県の市まで移動していることが確認されました。往復で、日帰りです」
隣県。
菅野は少し考えた。汐里が引っ越し先として考えていた、あの隣県だった。中村幸枝が住んでいる。
「その市に、何があるか確認しましたか」と菅野は訊いた。
「今、確認中です。ただ、柏木がその市に知人や家族がいるという情報は、今のところありません」
「リユースショップやリサイクルボックスを当たってもらえますか」菅野は言った。「事件から四日後に、衣服を持ち込んだ人物がいないかどうか」
「具体的な根拠は」
「衣服の処分を、合理的に見せかける方法として考えられます。ゴミとして捨てれば証拠が残る可能性がある。焼却すれば痕跡が残る可能性がある。しかし、他県のリユースショップに持ち込めば、自然な行動に見える」
遠藤は少し間を置いた。「捜索範囲が広くなりますが、動かします」
「防犯カメラが残っているかどうか、四日後の時点で。二ヶ月以上が経っていますが」
「ショップによって保管期間が違います。ただ、柏木の写真を持って当たることはできます」
「お願いします」
電話を切った。
午前中、菅野は柏木の行動パターンを改めて整理した。
事件後の四日間、柏木はどう過ごしたか。
職場には出勤していたはずだった。事件後すぐに仕事を休めば、目立つ。普通に出勤して、普通に残業して、普通に帰る。それが柏木の選んだ方法だったとすれば、四日間は「合理的な一般人」として過ごしたことになる。
そして四日目に、他県へ日帰りで移動した。
菅野は「憔悴して捨てる」という心理を考えた。
普通の人間が、犯行後に衣服を処分するとすれば、感情に任せて捨てることが多い。川に流す、山に捨てる、ゴミ袋に入れて出す。そういった行動は、感情の重さに引きずられている。
しかし柏木は四日間待った。
感情の重さではなく、合理的な判断で処分場所を選んだとすれば、その選択は「普通の人間がリサイクル意識からとる行動」に見える。
菅野はその逆転の発想を、ノートに書いた。「合理的に見せることが目的・感情的な処分を避けた・四日間の待機」
昼過ぎ、菅野はある確認をしようと思った。
柏木が他県へ移動した当日、どのルートで移動したか。交通系カードの使用記録から、乗降駅が分かるはずだった。
遠藤に連絡して、詳細を教えてもらえるか訊いた。
「乗降の記録は、こちらの最寄り駅から出発して、隣県のK駅で下車、帰りも同じルートです」と遠藤は答えた。
K駅。菅野はその駅名を書いた。
K駅周辺に、リユースショップやリサイクルボックスがあるかどうか。
菅野は地図を開いて確認した。K駅から徒歩圏内に、リユースショップが三軒あった。リサイクルボックスは、スーパーマーケットや公共施設の前にいくつか設置されていた。
遠藤に、その情報を送った。
夕方、遠藤から折り返しの電話があった。
「K駅周辺のリユースショップを当たりました」と遠藤は言った。「一軒で、柏木に似た人物が衣服を持ち込んだという証言が得られました」
菅野は息を吸った。「詳しく教えてもらえますか」
「駅から徒歩五分ほどのショップです。事件から四日後の日付に、若い男性が衣服を数点持ち込んだという記録が残っていました。スタッフの記憶として、背が高く、清潔な印象の男だったということで」
「防犯カメラは」
「カメラの映像は上書きされていて残っていません。ただし、持ち込み記録の台帳が残っていました。その日の記録に、受け取った衣服の種類が書かれていて」
「何が書かれていましたか」
「コート一着、シャツ二枚、スラックス一本です。コートについては、スタッフの記録に『状態良好、目立つ汚れなし』と書かれていました」
菅野はメモを取った。コート一着。状態良好、目立つ汚れなし。
「目立つ汚れなしというのは」
「洗浄されていた可能性があります。ただし、その服が現存しているかどうかは」
「ショップで売れた可能性がありますか」
「確認しました。コートについては、翌月に販売された記録があります。購入者の記録は残っていませんでした」
菅野は少し間を置いた。「コートそのものは追えない」
「はい。ただし、持ち込み記録の台帳と、スタッフの証言は残っています。柏木に似た人物が、事件四日後に衣服を持ち込んだという事実として」
「写真での確認は」
「スタッフに柏木の写真を見せたところ、この人かもしれないという回答でしたが、確信を持って言えないということで。二ヶ月以上前のことで、記憶が曖昧になっているということです」
菅野は「分かりました。ありがとうございます」と言って電話を切った。
証言があった。持ち込み記録があった。しかし確定的ではなかった。
菅野はノートに書いた。「K駅周辺リユースショップ・事件四日後・コートほか持ち込み記録・柏木に似た人物・スタッフ記憶曖昧」
証拠の輪が、さらに閉じた。ただし、閉じきっていなかった。
衣服そのものが残っていれば、血液の反応が出た可能性があった。洗浄していても、微細な痕跡が残ることがある。しかし衣服はすでに売れていた。購入者は不明だった。
菅野は別の方向を考えた。
コートを汐里から奪って着用した。犯行後、コートを汐里に戻した。しかし、自分の衣服にも何らかの痕跡が残った可能性がある。コートが外側の血を受け止めたとしても、完全ではない。袖口、靴、あるいは別の場所に。
洗浄して持ち込んだ。「目立つ汚れなし」という記録がある。ただし、目立つ汚れがないことと、血液反応がないことは別だった。
その服は今、どこにあるのか。
菅野にはたどれなかった。ただ、持ち込み記録と証言は残っていた。
夜、河合弁護士に今日の進捗を伝えた。
「持ち込み記録と証言が確認されました」と菅野は言った。「柏木に似た人物が、事件四日後に他県のリユースショップにコートほかを持ち込んでいます」
「物証としては」
「弱い。スタッフの記憶が曖昧で、衣服も現存していない」
「ただし、状況証拠として積み重なります」河合は言った。「コートの血液付着の矛盾、タイムカードの仕掛け、搬入口の記録、そして衣服の処分。それぞれが単独では弱くても、重ねれば違う」
「今の段階で、湊人さんの公判に影響しますか」
「影響させます。捜査の見直しを求める申し立てを、今週中に出します。コートの件と清拭の順序については、鑑識報告書の記載があります。それを使います」
「柏木の事情聴取は続いていますか」
「続いているはずです。ただし、まだ逮捕には至っていない」
「時間がかかりますか」
「かかると思います。ただし、菅野さんの調査が、確実に方向を変えています」
電話を切った。
菅野は自宅の窓の外を見た。
二月の夜は深く、暗かった。
柏木は今、何をしているのか。
事情聴取を受けながら、「やっていない」とは言わない男。その言わなさが、逆説的に何かを語っていた。
菅野は汐里の年表を、もう一度頭の中で辿った。
十五歳の予備校で、柏木と出会った。一年間、そこで過ごした。柏木の悩みを聞いた。励ました。それが、汐里にとってどういう意味を持っていたのかは、今となっては分からない。
ただ、柏木は覚えていた。七年間、覚えていた。
そして再会した。変わり果てた場所で。
その変わり果てた姿を「浄化」しようとした男が、今この街のどこかにいた。
菅野は窓から離れた。
まだ仕事が残っていた。
凶器の問題があった。注射器の問題があった。薬物の経路の問題があった。
ただ、今夜はここまでにすることにした。
ノートを閉じた。
「執着の残り香」は、他県の小さなショップの台帳に、たった一行の記録として残っていた。
それで十分だった。今は。




