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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
外套の亀裂
31/50

血の順序

 翌朝、遠藤から電話があった。

 「今日、柏木を事情聴取します」と遠藤は言った。「任意同行を求める形で」

 「本人は応じると思います」と菅野は言った。

 「なぜそう思いますか」

 「昨日の話し方が、そういう方向を向いていた。逃げるつもりがないような」

 「そうですか」遠藤は言った。「菅野さん、昨日の会話で、返り血の件を訊いたと言っていましたね」

 「はい」

 「そこから何かを考えていますか」

 「現場の鑑識写真を、もう一度見たいと思っています。返り血の付着位置と方向について」

 遠藤は少し間を置いた。「写真の共有は難しいですが、鑑識の報告書の概要なら話せます。何を確認したいですか」

 「コートへの血の付着です。被害者が着ていたコートに、返り血がついていましたか」

 「ついていました。それは確認されています」

 「その血の付き方が、外側からついたものか、内側からついたものか、確認されていますか」

 沈黙があった。

 「どういう意味ですか」と遠藤は言った。

 「コートを着た状態で傷つけられたとすれば、血はコートの内側から染み出す形になります。しかし、コートを脱いだ状態で傷つけられてから、コートを着せられたとすれば、血の付き方が変わります」

 また沈黙があった。今度は長かった。

 「鑑識報告書を確認します」と遠藤は言った。「時間をください」

 電話を切った。


 午前中、菅野は別の方向を確認することにした。

 資料の中に、もう一つの手がかりがあった。

 「衣服・事件四日後・他県のリユースショップやリサイクルボックスへ投下」という設定を、菅野はまだ知らなかった。ただ、柏木が事件後に何かを処分した可能性は、考えていた。

 返り血を浴びた衣服は、どうなったか。

 菅野は考えた。

 事件当夜、搬入口から出たのが十一時五十八分だった。その後、どこかで衣服を処分したはずだった。あるいは、処分する前に一度自宅に戻った可能性もあった。

 柏木の自宅は、どこにあるのか。

 菅野は以前に名刺を受け取っていた。名刺には会社の住所しかなかった。ただ、柏木が「毎晩あの路地を通って帰る」と言っていた。路地から自宅の方向がどちらかは、ある程度絞れるかもしれなかった。

 ただ、自宅への立ち入りは令状が必要で、菅野にはできなかった。

 衣服の処分場所について、別の方向から考えることにした。

 事件後、柏木の行動に変化があったかどうか。職場の同僚や、周辺の人間から確認できることがあるかもしれなかった。

 ただ、今の段階では、柏木の事情聴取が優先だった。菅野が動けることは限られていた。


 昼過ぎ、遠藤から連絡が来た。メッセージだった。「重要な件で電話できますか」

 菅野はすぐに折り返した。

 「鑑識報告書を確認しました」と遠藤は言った。声が、今朝とは変わっていた。「コートの件です」

 「何が分かりましたか」

 「被害者が着ていたコートへの血の付着について、詳細を確認しました」遠藤は言った。「報告書には、コートの外表面への血液付着が記録されています。ただし」

 「ただし」

 「外表面への付着パターンが、着用状態での受傷によるものと矛盾する可能性を、鑑識が指摘していました。当時はその指摘が捜査の主軸に反映されなかったようですが」

 菅野は「矛盾する、というのは」と訊いた。

 「着用状態で傷つけられた場合、コートへの血液は傷口からの滲出と、外部からの飛散が混在します。しかし現場のコートへの付着は、外部からの飛散が主体で、内側からの滲出パターンが見られなかった」

 「つまり」

 「コートを着ていない状態で傷つけられた可能性を、鑑識が当時指摘していた。ただし、体位や傷の角度によっては説明できなくもない、という留保があって、その指摘は流れてしまっていた」

 菅野はメモを取った。

 コートを着ていない状態で傷つけられた。その後、コートを着せられた。血はコートの外側についた。

 「もう一点」と遠藤は続けた。「顔と頸部の清拭の件です。肌への清拭が行われた形跡があることは、当初から確認されていました。ただし」

 「ただし」

 「清拭後の肌の上に、血液の微細な付着があることが確認されています。清拭された表面の上に、血が乗っている。つまり、清拭は血液付着の前に行われた可能性があります」

 菅野は動かなかった。

 清拭は血液付着の前。

 つまり、顔を整えたのは、傷つける前だった。

 「遠藤さん」と菅野は言った。「これは、どういう意味ですか」

 「犯人は、被害者を傷つける前に、顔を清め、整えていた可能性があります」遠藤は言った。「そしてコートを、防護服として使った可能性がある。コートを着用して犯行に及び、終了後にコートを被害者に戻した。付着した返り血は、被害者が着ていた状態のものとして誤認される形に」

 「湊人がそれをする必然性は」と菅野は言った。

 「ありません」遠藤は言った。静かに、しかしはっきりと。「衝動的な犯行として岡崎を想定していた場合、これだけ周到な手順を踏む理由がない。傷つける前に顔を整える。コートを防護服として使う。これは、計画された犯行です」

 「湊人の件は」

 「上と協議しています。今日の柏木の事情聴取の結果も踏まえて」

 電話を切った。


 菅野はノートを開いて、今日分かったことを書いた。

 「コート・外表面への血液付着・着用状態での受傷と矛盾」「顔の清拭・血液付着の前に実施された可能性」「清拭→整容→コート着用して犯行→コートを戻す」

 その流れを書いて、少し間を置いた。

 顔を整えたのは、傷つける前だった。

 菅野はその事実の意味を、ゆっくりと考えた。

 傷つける前に、顔を整えた。汐里の顔を。化粧を直して、髪を梳いて。その後、コートを自分が着て、犯行に及んだ。

 なぜ傷つける前に顔を整えたのか。

 答えは一つだった。

 その顔を、最後に美しい状態で見たかったからだった。

 それが柏木の言う「救済」の形だった。

 汐里が翠として生きていた事実を、身体から消し去る。しかし顔だけは、予備校で知っていたあの頃の彼女として、残す。

 菅野は少し目を閉じた。

 狂気だった。しかし、整合していた。柏木の内側の論理として、整合していた。

 それを理解することと、それを許容することは、全く別のことだった。

 菅野は目を開けて、ペンを持った。

 「傷つける前に整容・柏木の内側の論理・救済という名の破壊」

 書いた。線は引かなかった。


 夕方、河合弁護士に連絡を入れた。

 「コートの件と、清拭の順序について、新しい鑑識の知見が確認されました」と菅野は言った。「湊人さんの公判に影響する可能性があります」

 河合は「今すぐ教えてください」と言った。

 菅野は順番に話した。河合は黙って聞いていた。

 「これは」と河合は最終的に言った。「弁護側が申し立てる根拠になります。計画的犯行の痕跡が、湊人の衝動的な犯行という前提と矛盾する。捜査の見直しを求める動議を出せます」

 「柏木の事情聴取は今日行われています」

 「結果が出れば、動きが変わるかもしれない」

 「はい」

 「菅野さん」と河合は言った。「湊人は今日も否認しています。あなたの調査が、彼を救う可能性が出てきました」

 菅野は少し間を置いた。「私は汐里を救いたかった。湊人を救おうとしているわけではない。ただ、正しいことが正しい形で決着することを、望んでいます」

 河合は「分かりました」と言って電話を切った。


 夜、遠藤から電話があった。

 「柏木の事情聴取が終わりました」と遠藤は言った。

 「どうでしたか」

 「否認しています。ただし」遠藤は言った。「否認の仕方が、湊人とは違う。湊人は一貫して『やっていない』と言い続けた。柏木は、具体的な行為についての質問に対して、『答えたくない』と言い続けた」

 「やっていないとは言わなかった」

 「言わなかった。それだけで何かを判断するのは難しいですが、捜査の方向を変える判断が、上で動いています。湊人の件を見直す方向で」

 菅野は「分かりました」と言った。

 「菅野さん」と遠藤は言った。「コートの件と、清拭の順序の件を、今日の事情聴取でも確認しました。柏木に、コートのことを訊いたとき」

 「どうでしたか」

 「一瞬だけ、表情が変わりました。それだけです。それ以上は何も言わなかった。ただ、鑑識も認めている。コートが防護服として使われた可能性は、現時点では排除できない」

 「排除できない、というところまで来ましたね」

 「はい」遠藤は言った。「ただし、物証がまだ足りない。衣服の処分についての証拠が必要です。柏木が事件後に何を処分したか」

 「他県での衣服の処分について、捜査はできますか」

 「どういうことですか」

 菅野は少し考えた。「事件後、柏木が遠出した記録があるかどうか、確認してもらえますか。交通系のカードの使用記録や、防犯カメラなど」

 「確認します」

 電話を切った。

 菅野はノートを開いた。

 「衣服の処分・他県の可能性・交通記録の確認」と書いた。

 次の段階の仕事が、始まっていた。

 物証を積み上げる仕事。状況証拠を物証に変える仕事。

 柏木がやっていないとは言わなかった。コートのことを訊いたとき、表情が変わった。

 確信は揺るがなかった。

 ただ、確信だけでは人を裁けなかった。

 菅野はペンを置いた。

 窓の外で、一月の終わりの風が鳴っていた。

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