血の順序
翌朝、遠藤から電話があった。
「今日、柏木を事情聴取します」と遠藤は言った。「任意同行を求める形で」
「本人は応じると思います」と菅野は言った。
「なぜそう思いますか」
「昨日の話し方が、そういう方向を向いていた。逃げるつもりがないような」
「そうですか」遠藤は言った。「菅野さん、昨日の会話で、返り血の件を訊いたと言っていましたね」
「はい」
「そこから何かを考えていますか」
「現場の鑑識写真を、もう一度見たいと思っています。返り血の付着位置と方向について」
遠藤は少し間を置いた。「写真の共有は難しいですが、鑑識の報告書の概要なら話せます。何を確認したいですか」
「コートへの血の付着です。被害者が着ていたコートに、返り血がついていましたか」
「ついていました。それは確認されています」
「その血の付き方が、外側からついたものか、内側からついたものか、確認されていますか」
沈黙があった。
「どういう意味ですか」と遠藤は言った。
「コートを着た状態で傷つけられたとすれば、血はコートの内側から染み出す形になります。しかし、コートを脱いだ状態で傷つけられてから、コートを着せられたとすれば、血の付き方が変わります」
また沈黙があった。今度は長かった。
「鑑識報告書を確認します」と遠藤は言った。「時間をください」
電話を切った。
午前中、菅野は別の方向を確認することにした。
資料の中に、もう一つの手がかりがあった。
「衣服・事件四日後・他県のリユースショップやリサイクルボックスへ投下」という設定を、菅野はまだ知らなかった。ただ、柏木が事件後に何かを処分した可能性は、考えていた。
返り血を浴びた衣服は、どうなったか。
菅野は考えた。
事件当夜、搬入口から出たのが十一時五十八分だった。その後、どこかで衣服を処分したはずだった。あるいは、処分する前に一度自宅に戻った可能性もあった。
柏木の自宅は、どこにあるのか。
菅野は以前に名刺を受け取っていた。名刺には会社の住所しかなかった。ただ、柏木が「毎晩あの路地を通って帰る」と言っていた。路地から自宅の方向がどちらかは、ある程度絞れるかもしれなかった。
ただ、自宅への立ち入りは令状が必要で、菅野にはできなかった。
衣服の処分場所について、別の方向から考えることにした。
事件後、柏木の行動に変化があったかどうか。職場の同僚や、周辺の人間から確認できることがあるかもしれなかった。
ただ、今の段階では、柏木の事情聴取が優先だった。菅野が動けることは限られていた。
昼過ぎ、遠藤から連絡が来た。メッセージだった。「重要な件で電話できますか」
菅野はすぐに折り返した。
「鑑識報告書を確認しました」と遠藤は言った。声が、今朝とは変わっていた。「コートの件です」
「何が分かりましたか」
「被害者が着ていたコートへの血の付着について、詳細を確認しました」遠藤は言った。「報告書には、コートの外表面への血液付着が記録されています。ただし」
「ただし」
「外表面への付着パターンが、着用状態での受傷によるものと矛盾する可能性を、鑑識が指摘していました。当時はその指摘が捜査の主軸に反映されなかったようですが」
菅野は「矛盾する、というのは」と訊いた。
「着用状態で傷つけられた場合、コートへの血液は傷口からの滲出と、外部からの飛散が混在します。しかし現場のコートへの付着は、外部からの飛散が主体で、内側からの滲出パターンが見られなかった」
「つまり」
「コートを着ていない状態で傷つけられた可能性を、鑑識が当時指摘していた。ただし、体位や傷の角度によっては説明できなくもない、という留保があって、その指摘は流れてしまっていた」
菅野はメモを取った。
コートを着ていない状態で傷つけられた。その後、コートを着せられた。血はコートの外側についた。
「もう一点」と遠藤は続けた。「顔と頸部の清拭の件です。肌への清拭が行われた形跡があることは、当初から確認されていました。ただし」
「ただし」
「清拭後の肌の上に、血液の微細な付着があることが確認されています。清拭された表面の上に、血が乗っている。つまり、清拭は血液付着の前に行われた可能性があります」
菅野は動かなかった。
清拭は血液付着の前。
つまり、顔を整えたのは、傷つける前だった。
「遠藤さん」と菅野は言った。「これは、どういう意味ですか」
「犯人は、被害者を傷つける前に、顔を清め、整えていた可能性があります」遠藤は言った。「そしてコートを、防護服として使った可能性がある。コートを着用して犯行に及び、終了後にコートを被害者に戻した。付着した返り血は、被害者が着ていた状態のものとして誤認される形に」
「湊人がそれをする必然性は」と菅野は言った。
「ありません」遠藤は言った。静かに、しかしはっきりと。「衝動的な犯行として岡崎を想定していた場合、これだけ周到な手順を踏む理由がない。傷つける前に顔を整える。コートを防護服として使う。これは、計画された犯行です」
「湊人の件は」
「上と協議しています。今日の柏木の事情聴取の結果も踏まえて」
電話を切った。
菅野はノートを開いて、今日分かったことを書いた。
「コート・外表面への血液付着・着用状態での受傷と矛盾」「顔の清拭・血液付着の前に実施された可能性」「清拭→整容→コート着用して犯行→コートを戻す」
その流れを書いて、少し間を置いた。
顔を整えたのは、傷つける前だった。
菅野はその事実の意味を、ゆっくりと考えた。
傷つける前に、顔を整えた。汐里の顔を。化粧を直して、髪を梳いて。その後、コートを自分が着て、犯行に及んだ。
なぜ傷つける前に顔を整えたのか。
答えは一つだった。
その顔を、最後に美しい状態で見たかったからだった。
それが柏木の言う「救済」の形だった。
汐里が翠として生きていた事実を、身体から消し去る。しかし顔だけは、予備校で知っていたあの頃の彼女として、残す。
菅野は少し目を閉じた。
狂気だった。しかし、整合していた。柏木の内側の論理として、整合していた。
それを理解することと、それを許容することは、全く別のことだった。
菅野は目を開けて、ペンを持った。
「傷つける前に整容・柏木の内側の論理・救済という名の破壊」
書いた。線は引かなかった。
夕方、河合弁護士に連絡を入れた。
「コートの件と、清拭の順序について、新しい鑑識の知見が確認されました」と菅野は言った。「湊人さんの公判に影響する可能性があります」
河合は「今すぐ教えてください」と言った。
菅野は順番に話した。河合は黙って聞いていた。
「これは」と河合は最終的に言った。「弁護側が申し立てる根拠になります。計画的犯行の痕跡が、湊人の衝動的な犯行という前提と矛盾する。捜査の見直しを求める動議を出せます」
「柏木の事情聴取は今日行われています」
「結果が出れば、動きが変わるかもしれない」
「はい」
「菅野さん」と河合は言った。「湊人は今日も否認しています。あなたの調査が、彼を救う可能性が出てきました」
菅野は少し間を置いた。「私は汐里を救いたかった。湊人を救おうとしているわけではない。ただ、正しいことが正しい形で決着することを、望んでいます」
河合は「分かりました」と言って電話を切った。
夜、遠藤から電話があった。
「柏木の事情聴取が終わりました」と遠藤は言った。
「どうでしたか」
「否認しています。ただし」遠藤は言った。「否認の仕方が、湊人とは違う。湊人は一貫して『やっていない』と言い続けた。柏木は、具体的な行為についての質問に対して、『答えたくない』と言い続けた」
「やっていないとは言わなかった」
「言わなかった。それだけで何かを判断するのは難しいですが、捜査の方向を変える判断が、上で動いています。湊人の件を見直す方向で」
菅野は「分かりました」と言った。
「菅野さん」と遠藤は言った。「コートの件と、清拭の順序の件を、今日の事情聴取でも確認しました。柏木に、コートのことを訊いたとき」
「どうでしたか」
「一瞬だけ、表情が変わりました。それだけです。それ以上は何も言わなかった。ただ、鑑識も認めている。コートが防護服として使われた可能性は、現時点では排除できない」
「排除できない、というところまで来ましたね」
「はい」遠藤は言った。「ただし、物証がまだ足りない。衣服の処分についての証拠が必要です。柏木が事件後に何を処分したか」
「他県での衣服の処分について、捜査はできますか」
「どういうことですか」
菅野は少し考えた。「事件後、柏木が遠出した記録があるかどうか、確認してもらえますか。交通系のカードの使用記録や、防犯カメラなど」
「確認します」
電話を切った。
菅野はノートを開いた。
「衣服の処分・他県の可能性・交通記録の確認」と書いた。
次の段階の仕事が、始まっていた。
物証を積み上げる仕事。状況証拠を物証に変える仕事。
柏木がやっていないとは言わなかった。コートのことを訊いたとき、表情が変わった。
確信は揺るがなかった。
ただ、確信だけでは人を裁けなかった。
菅野はペンを置いた。
窓の外で、一月の終わりの風が鳴っていた。




