表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
剥離する虚像
30/50

確信の形

 指紋の分析結果が出たのは、二日後だった。

 遠藤から電話があった。朝の九時を少し過ぎた時刻だった。

 「結果が出ました」と遠藤は言った。

 菅野はノートを開いた。「テープの跡の周辺の指紋は」

 「柏木の指紋が、跡の周囲に集中して検出されました」遠藤は言った。「引き出しの他の部分にも柏木の指紋はありますが、テープの跡の周辺への集中度が、通常の使用で説明できる範囲を超えているという鑑識の見解です」

 「通常の使用で説明できる範囲を超えている」

 「そういう判断です。ただし、決定的な証拠とは言えないという留保もついています。引き出しを日常的に使用する中で、特定の箇所に指紋が集中することは、あり得るということで」

 菅野はメモを取った。「その留保をつけたうえで、捜査の方向はどうなりますか」

 「柏木を参考人として、改めて事情聴取する方向で動きます。ただし」遠藤は言った。「逮捕状の請求には、まだ至りません。今の証拠では」

 「分かりました」

 「菅野さん、柏木は昨夜あなたと話したんですね」

 「はい」

 「どんな様子でしたか」

 菅野は少し考えた。「崩れていませんでした。ただし、隠すことをやめ始めているような印象がありました。予備校での接点を認めました。汐里のことを『良い子でした』と言いました」

 「過去形で」

 「過去形で」

 遠藤は少し黙った。「今日、柏木に連絡を取ります。事情聴取の日程を調整します」

 「その前に、私から話せることを話してもいいですか」

 「どういう意味ですか」

 「正式な事情聴取の前に、もう一度だけ柏木と話したい。彼が話そうとしているものが、あと少しのところにある気がします。強制的に引き出すよりも、自分から話す形の方が、全体像が見えやすいかもしれない」

 遠藤は少し間を置いた。「今日中に、という条件で。明日は正式に動きます」

 「分かりました」

 電話を切った。


 菅野は柏木にメッセージを送った。

 「今日、話せますか。昼間でも夜でも」

 返信は十分ほどして来た。「今日は仕事を休んでいます。午後であれば」

 仕事を休んでいる。

 菅野はその事実を受け取った。昨夜の会話の後、柏木は仕事を休んだ。何かを考えていた。あるいは、何かを決めようとしていた。

 「では、午後二時に。場所はどこでも」と菅野は返信した。

 「先日の喫茶店で」と柏木は返してきた。


 午前中、菅野は汐里の年表を読み返した。

 最初のページから、ゆっくりと。

 十六歳・高校二年の終わり——父の会社が倒産。十七歳・高校三年の春——両親が失踪。一人になる。

 そしてその前に、今は加えることができる一行があった。

 十五歳・高校一年——予備校で柏木京介と出会う。一年間、同じ時期に在籍した。

 その一行が、全体の意味を変えていた。

 汐里が両親を失った時期の、少し前に、柏木がいた。汐里が悩みを聞いてくれたと感じていた誰かが、柏木だったとすれば。その後、汐里は予備校を辞めた。両親を失った。風俗の仕事を始めた。南区に来た。

 柏木は知らなかった。七年間、知らなかった。

 そして接待の席で、再会した。

 その再会が、柏木の中で何かを動かした。

 菅野は「汐里は、良い子でした」という柏木の言葉を思い出した。

 過去形だった。

 良い子だった。しかし、今の翠は良い子ではなかった、という意味で言ったのか。

 それとも。

 菅野はそこで考えを止めた。

 柏木本人から聞く必要があった。


 午後二時、喫茶店に入ると、柏木はすでに来ていた。

 窓から離れた席に座っていた。コーヒーが前に置かれていたが、手をつけていなかった。顔は昨夜より削れていた。眠れなかったのだろうと、菅野は思った。

 向かいに座った。

 「話してください」と菅野は言った。前置きなしに。

 柏木はしばらく、コーヒーカップを見ていた。

 「どこから話せばいいか」と彼は言った。

 「予備校から」

 柏木は少し目を細めた。遠くを見るような目だった。

 「汐里は、よく話を聞いてくれました」と柏木は言った。「私は当時、家のことで悩んでいて、学校でも孤立していて。そういうことを、彼女だけに話していた。彼女はいつも、静かに聞いていた。励ますわけでも、解決しようとするわけでもなく、ただ聞いていた」

 「それがどのくらい続きましたか」

 「一年間です。彼女が来なくなるまで」柏木は言った。「ある日突然、来なくなった。理由は分からなかった。連絡先も知らなかった。だから、そのままになった」

 「七年間」

 「七年間」柏木は繰り返した。「たまに思い出すことはありました。ただ、探そうとは思わなかった。それだけの関係だったのかもしれないと思っていたので」

 「接待の席で見たとき、どう感じましたか」

 柏木は少し間を置いた。

 「最初、信じられませんでした」と彼は言った。「顔が変わっていなかった。年を取っていたけど、顔は同じで。ただ、笑い方が違った」

 「どう違いましたか」

 「作っていた」柏木は言った。「私が知っていた笑い方は、作っていなかった。不器用でも、本物だった。でもその席での笑い方は、全部が作り物で」

 菅野はメモを取った。笑い方が不器用だったという、隣県の遠い縁戚の女性の言葉を思い出した。

 「その後、指名するようになった理由は」と菅野は訊いた。

 柏木は少し考えた。「話したかったんだと思います。昔のように。ただ、話せなかった。彼女は翠として笑っていて、私のことを覚えていないようで。それが」

 「それが」

 「辛かった」柏木は言った。平坦な声で。「忘れられていた。私だけが覚えていた」

 菅野は柏木の顔を見た。

 辛かった。その言葉の中に、何があったのか。

 「八月の夜、彼女を背負って送ったとき、何かありましたか」

 柏木は少し間を置いた。「具合が悪くなったのを見て、放っておけなかった。送っていくと言った。ただ」

 「ただ」

 「その夜のことは、あまり話したくない」

 菅野は押さなかった。今日は押す場面ではないと判断した。

 「汐里さんが来なくなってから、あなたも来なくなった」と菅野は言った。「なぜですか」

 「彼女がいない場所に、行く理由がなかったから」柏木は言った。「それだけです」

 「翠として会っていた一年間で、彼女はあなたのことを覚えていましたか」

 柏木は少し笑った。今まで見たことのない笑い方だった。悲しい笑い方だった。

 「覚えていませんでした」と彼は言った。「一度だけ、遠回しに確かめたことがあります。彼女は覚えていなかった。それが分かったとき」

 「分かったとき」

 柏木は答えなかった。

 菅野は待った。

 「菅野さん」と柏木は言った。「私がやったかどうかを、あなたは確かめようとしている」

 「はい」

 「指紋の件は知っています。搬入口の記録も、たぶん確認されたと思います」柏木は言った。「警察が来ると思っています。明日か、明後日か」

 菅野は何も言わなかった。

 「一つだけ教えてください」と柏木は言った。「汐里は、最後に、笑っていましたか」

 菅野は少し間を置いた。

 「分かりません」と菅野は言った。「私は現場しか見ていないので」

 柏木は頷いた。

 「彼女の顔は」と菅野は言った。「整えられていました。丁寧に」

 柏木は少し目を閉じた。

 何かが、その表情に浮かんだ。菅野にはその名前が、今この瞬間に分かった。

 悼み、だった。

 本物の悼みが、柏木の顔にあった。

 それが、菅野の中の最後の抵抗を、音もなく壊した。

 柏木が汐里を整えた。丁寧に、時間をかけて。そして、それ以外のことをした。

 同じ人間が、同じ夜に。

 菅野は確信した。

 証明はまだできていなかった。しかし確信した。

 「もう一つだけ」と菅野は言った。「返り血は、どうしましたか」

 柏木は目を開けた。菅野を見た。

 「なぜそれを訊くんですか」と柏木は言った。

 「現場の状況から、返り血の処理に何かがあったと思っています。ただ、まだ確認できていない」

 柏木は少しの間、菅野を見ていた。

 「今日は、ここまでにしてください」と彼は言った。

 「分かりました」

 柏木は立ち上がった。コートを着た。鞄を持った。

 「菅野さん」と柏木は言った。「あなたは、良い探偵だと思います」

 それだけ言って、店を出た。

 菅野はしばらく、その場に座っていた。

 返り血について訊いたとき、柏木は否定しなかった。驚きもしなかった。ただ、今日はここまでにしてください、と言った。

 それは、話す準備ができていないという意味だった。

 しかし、話す意志がないという意味ではなかった。

 菅野はノートを開いた。

 「返り血・外套トリック・第四章で確認」と書いた。

 資料の設定が頭にあった。返り血を防ぐため、汐里のロングコートを奪って着用し、犯行後にコートを汐里に戻した。付着した血を「彼女が襲われたときのもの」として警察に誤認させた。

 菅野はまだその全体を知らなかった。ただ、何かがあると思っていた。

 現場の鑑識写真について、もう一度確認する必要があった。返り血の付着位置と方向。コートへの血の付き方。

 それが次の段階への仕事だった。

 菅野はノートを閉じた。

 確信があった。証明はまだだった。

 しかし確信があった。

 それで十分だった。今は。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ