テープの跡
鑑識が入ったのは、一月の最終週だった。
菅野は立ち会うことができなかった。令状による捜索は警察の仕事で、菅野が入れる場所ではなかった。遠藤から「終わったら連絡する」と言われて、菅野は自宅で待った。
午前中に始まって、結果の連絡が来たのは夕方だった。
遠藤からではなく、メッセージで来た。「電話できますか」という短い文だった。
菅野はすぐに折り返した。
「結果が出ました」と遠藤は言った。声に、何かが混じっていた。興奮ではなく、緊張に近い何かだった。
「引き出しに痕跡はありましたか」
「ありました」
菅野は少し間を置いた。「どんな痕跡ですか」
「引き出しの内側の一点に、粘着性の物質の残留が確認されました。テープを貼って剥がした跡に一致する形状です。鑑識の判断では、剥離から二ヶ月から三ヶ月程度経過している可能性があるということで」
二ヶ月から三ヶ月。事件は二ヶ月以上前だった。時期として矛盾しなかった。
「カードリーダーとの位置関係は」と菅野は訊いた。
「確認しました」遠藤は言った。「引き出しを特定の角度で開けた状態から閉まりきったとき、内側の物体が落下する軌道上に、カードリーダーのスロットが位置することが確認されました」
菅野はメモを取った。手が、わずかに動きを止めた。
軌道上に、スロットが位置する。
「実際に試しましたか」と菅野は訊いた。
「カードを使って試行しました。引き出しを特定の角度で開け、粘着テープで仮止めした状態から、ソフトクローズ機構によって閉まりきるまでの時間を測定しました」
「どのくらいかかりましたか」
「標準的な設定では二十秒ほどですが、引き出しの中に重さを加え、角度を調整することで、最長で四時間十七分かかることが確認されました」
四時間十七分。
菅野はその数字を書いた。
もし柏木が退勤前に引き出しをセットして、エントランスを九時二十二分に出たとすれば、四時間後には午前一時過ぎになる。そこまで時間をかける必要はないが、二時間程度の調整は十分に可能だった。
「打刻の精度は」
「試行では、カードがスロットに落下して、打刻が記録されることを確認しました。ただし、落下の角度によっては打刻されない場合もあって、その点は再現性に課題があります」
「課題がある」
「百パーセントの精度ではありません。ただし、成功する条件が揃えば、機能することは確認できました」
菅野は深く息を吸った。
仕掛けは存在した。痕跡があった。物理的に機能することが確認された。
「遠藤さん、これは物証として使えますか」
遠藤は少し間を置いた。「テープの跡は物証になります。カードリーダーとの位置関係も記録されます。ただし、そのテープが柏木によって貼られたものであるという証明が、まだありません。テープ自体が残っていれば指紋や繊維の検査ができましたが、テープはすでに除去されていて、跡だけが残っている状態で」
「柏木の指紋は」
「引き出しの内外から複数の指紋が採取されました。その中に柏木のものが含まれているのは当然として、テープの跡の周辺に集中して指紋があるかどうかは、分析中です」
「結果はいつ出ますか」
「数日かかります」
菅野は「分かりました」と言って電話を切った。
しばらく、動かなかった。
仕掛けは存在した。引き出しの内側に、テープの跡があった。カードリーダーのスロットへの落下が、物理的に確認された。
これは偶然の跡ではなかった。誰かが意図的に、その場所にテープを貼った。そしてテープを剥がした。あるいは、仕掛けが機能した結果として、カードの落下とともにテープが剥がれた。
菅野はその仕組みを頭の中で動かした。
柏木は退勤前に引き出しを設定する。タイムカードを引き出しの内側に粘着テープで仮止めする。引き出しをわずかに開けた状態にして、ソフトクローズ機構が数時間かけて閉まるように調整する。IDカードを首にかけて、エントランスを通過して退館する。九時二十二分。
その後、搬入口の暗証番号を使って戻る。十時四十七分。
戻ってから、何をしたのか。
菅野はそこで止まった。
戻ってから、汐里のところへ行った。薬物を使って意識を奪い、路地まで運んだ。そして。
菅野は考えをそこで打ち切った。
まだ証明できていなかった。仕掛けの存在が確認されても、柏木がそれをしたという証明が、まだなかった。
翌朝、菅野は柏木に電話した。
「少し話せますか」と菅野は言った。「今日の夕方以降で」
「今日は仕事が」と柏木は言いかけて、止まった。少しの間があった。「夜の八時以降であれば」
「分かりました。先日と同じ場所で」
電話を切って、菅野はその日の昼間を、別の確認に使うことにした。
汐里が最後に送ったメッセージの内容を、遠藤に確認したかった。内容は公開できないと言われていたが、今の状況なら、もう少し話してもらえるかもしれなかった。
遠藤に電話した。
「汐里さんが最後に送ったメッセージの内容を、教えてもらえますか」と菅野は言った。「助けを求める内容ではなかったと教えてもらいましたが、それ以上を」
遠藤は少し黙った。「捜査情報ですが」
「柏木の件が動いているなら、そのメッセージの意味も変わってくる可能性があります」
また黙った。今度は長かった。
「湊人に送ったメッセージです」と遠藤は最終的に言った。「内容は短くて、『ごめんなさい』とだけ書かれていました」
菅野は少し間を置いた。「ごめんなさい」
「はい。それだけです」
菅野は電話を切った。
ごめんなさい。
十一時四十分に、汐里は湊人にそう送った。言い合いの後で。自分が怒鳴り返したことへの謝罪か。あるいは、もっと広い意味での謝罪か。
ただ、そのメッセージを送ることができたとすれば、その時点で汐里は生きていてスマートフォンを持っていた。
そしてその後、スマートフォンは消えた。
十時四十七分に搬入口から誰かが入ってきた。その後、何かが起きた。十一時四十分に汐里がメッセージを送った。十一時五十八分に搬入口から誰かが出ていった。
時系列が、一本の線になりかけていた。
夕方、菅野は河合弁護士に今日の進捗を伝えた。
河合は静かに聞いていた。
「テープの跡と、カードリーダーとの位置関係が確認された。指紋の分析が数日以内に出る」と菅野は言った。
「指紋の結果次第で、動きが変わりますね」と河合は言った。
「はい。ただ、今夜柏木に会います」
「何を確認するつもりですか」
菅野は少し考えた。「反応を見ます。どこまで話すか、何を隠すか。今の段階で、それが分かることはあります」
「気をつけてください」と河合は言った。「もし柏木が本当にやったとすれば、あなたがここまで近づいていることを、柏木は感じているはずです」
菅野は「はい」と言って電話を切った。
夜八時、コーヒースタンドの前に柏木が来た。
いつもと同じコートを着ていた。いつもと同じ鞄を持っていた。ただ、顔が少し違った。
疲れていた。それはいつもと同じだった。ただ、疲れの質が違った。外側からの疲れではなく、内側から滲み出るような疲れだった。
「寒いですね」と柏木は言った。
「中で話しましょう」
席に座って、カップを買って、向かい合った。
「鑑識が入りましたね」と柏木は言った。菅野が何かを言う前に。
「ええ」
「私の席に。引き出しを調べていた」柏木は言った。「会社から連絡がありました。令状が出て、調べたということで」
菅野は柏木の顔を見た。
崩れていなかった。動揺しているが、制御していた。それはいつもと同じだった。
「引き出しに、何か心当たりはありますか」と菅野は訊いた。
「心当たり」柏木は繰り返した。「どういう意味ですか」
「テープの跡が見つかりました」
柏木は少し目を伏せた。カップを両手で持った。
「そうですか」と彼は言った。
否定しなかった。驚いた様子もなかった。
菅野はその反応を見ていた。
「柏木さん」と菅野は言った。「予備校の件を確認しました。汐里さんと同じ時期に、同じ予備校に通っていた記録があります」
柏木はカップを置いた。
「知っていました」と柏木は言った。「あなたが調べていることは」
「どこまで」
「ここまで来るだろうと、思っていました」柏木は窓の外を見た。夜の街が、ガラスに映っていた。「思っていながら、どうすることもできなかった」
菅野は何も言わなかった。
「予備校のことを、話した方がいいですか」と柏木は言った。
「話してください」
柏木は少し間を置いた。長い間だった。
「汐里と、予備校で知り合いました」と柏木は言った。「一年だけ、同じ時期にいました。仲が良かった。彼女は私の話をよく聞いてくれた。私が悩んでいるときに、隣にいてくれた」
菅野は書き留めた。
「その後、彼女は来なくなりました。理由は分からなかった。ただ、いなくなった」柏木は続けた。「それで終わりだと思っていました。七年間」
「接待の席で再会した」
「はい」柏木は言った。「彼女がそこにいた。笑っていた。私の知っている笑い方ではなかった」
菅野は柏木の顔を見た。
何かが、その言葉の奥にあった。菅野にはまだ、その全体が見えなかった。ただ、見えてきていた。
「その夜のことを、続けて話してもらえますか」と菅野は言った。
柏木は少し長い間、黙っていた。
「今夜は、ここまでにしていいですか」と柏木は最終的に言った。「もう少し、考える時間がほしい」
菅野は柏木を見た。
逃げるつもりなのか。あるいは、本当に考える時間が必要なのか。
「分かりました」と菅野は言った。「ただ、時間はあまりありません」
柏木は頷いた。「知っています」
コーヒーカップを置いて、立ち上がった。コートを着た。
「菅野さん」と柏木は言った。「汐里は、良い子でした。最初から、ずっと」
それだけ言って、夜の街に出ていった。
菅野はしばらく、その背中が見えなくなった方向を見ていた。
良い子でした。過去形で。
その言葉が、菅野の中に落ちた。
剃刀のような違和感が、今夜は違う形をしていた。
違和感ではなく、悲しみに近い何かだった。




