別の入口
翌朝、菅野はビルの管理会社に電話した。
「先日お話しした件で、追加の確認をお願いしたいのですが」と菅野は言った。「エントランス以外に、ビルへの出入りができる入口はありますか」
担当者は少し考えた。「搬入口が一階の裏手にあります。業者用の入口で、通常は施錠されています」
「その施錠は、どのような方式ですか」
「暗証番号式です。テナントの総務担当者には番号を共有しています」
「記録は取れますか。誰がいつ通過したかという」
「暗証番号式なので、個人を特定する記録は取れません。通過した時刻の記録だけが残ります」
菅野はメモを取った。「事件当夜の、搬入口の通過記録はありますか」
「警察からの照会があれば確認できますが」
「分かりました。警察を通じて照会してもらいます」
電話を切って、すぐに遠藤に連絡した。
「搬入口の記録を確認してもらえますか」と菅野は言った。事情を説明した。
遠藤は少し黙ってから「照会します」と言った。声に、何かが混じっていた。菅野の調査が、遠藤の想定を超え始めているときの、あの気配だった。
午後、菅野は湊人の弁護士・河合に電話した。
「新しい情報があります」と菅野は言った。「まだ確定ではありませんが」
「聞かせてください」
菅野は順番に話した。柏木が翠の客だったこと。高校のころから顔を知っていたこと。菅野に対してそれらを隠していたこと。タイムカードの仕掛けの可能性。搬入口の件。
河合は黙って聞いていた。
「柏木京介という人物が、事件に関与している可能性を考えているということですか」と河合は言った。
「可能性を検証している段階です」
「物証はありますか」
「ありません。今のところ、状況証拠と、仕組みとしての可能性だけです」
河合は少し考えた。「公判で使えるかどうかは、証拠次第です。ただ、捜査の方向に疑問を呈する材料として、弁護側が動くことはできるかもしれない」
「それはあなたの判断に任せます」
「一つだけ訊かせてください」と河合は言った。「菅野さんは、柏木が犯人だと思いますか」
菅野は少し間を置いた。
「思い始めています」と菅野は最終的に言った。「確信ではない。ただ、思い始めている」
河合は「分かりました」と言って電話を切った。
夕方、菅野は高校の担任教師に、三度目の電話をした。
「以前お話しした際に、汐里さんの高校時代のことを教えていただきましたね」と菅野は言った。「もう一つだけ確認させてください。同じ学校に、柏木京介という生徒はいましたか」
少しの間があった。
「柏木」と教師は繰り返した。「確認しないと分かりませんが、少し待っていただけますか」
保留になった。五分ほどして教師が戻ってきた。
「同じ学年に、柏木という生徒はいませんでした」と教師は言った。「ただ、一つ上の学年に、柏木という生徒がいた記録があります」
「一つ上」
「はい。ただ、私のクラスではなかったので、詳しいことは分かりません」
「その生徒の名前は分かりますか」
「柏木京介、という名前が記録にあります」
菅野はメモを取った。「ありがとうございます」
一つ上の学年。柏木京介。
同じ高校にいた。汐里より一つ上の学年に。
「その当時、何か覚えていることはありますか。柏木という生徒について」
「私のクラスではなかったので」教師は言った。「ただ、名前は聞いたことがあったような気がします。どんな理由で聞いたのか、今は思い出せませんが」
「どんな印象でしたか」
「真面目な生徒、という印象があります。ただ、それ以上は」
菅野は礼を言って電話を切った。
同じ高校。一つ上の学年。
菅野はそれをノートに書いた。
柏木は「同じ地域に住んでいて、少し知っていた程度」と言っていた。同じ高校にいたことは、話さなかった。
意図的に話さなかったのか。それとも、些細なことだと判断したのか。
菅野には判断できなかった。ただ、また何かを話さなかった、という事実が積み重なった。
翠の客だったことを話さなかった。高校から顔を知っていたことを話さなかった。そして同じ高校にいたことも、話さなかった。
話さなかったことが、三つになった。
菅野はノートに書いた。「同じ高校・一つ上の学年・柏木が話さなかった」
その行を書きながら、菅野は柏木が接待の席で汐里を見たときのことを考えた。
同じ高校にいた、一つ下の女。その女が、接待の席にいた。
柏木は「驚いた」と言った。
その驚きの中身を、菅野はまだ完全には理解していなかった。
ただ、今日新しく知った事実を加えると、「驚き」の意味が少し変わってくるような気がした。
同じ学校にいた女が、変わり果てた場所にいた。
その事実が、柏木の中で何かを引き起こした。
何を引き起こしたのか。
夜、遠藤から電話があった。
「搬入口の記録が出ました」と遠藤は言った。
菅野は身構えた。「事件当夜の記録は」
「通過記録が一件あります」
「時刻は」
「夜の十時四十七分です」
菅野はメモを取りながら、頭の中で時系列を組み立てた。
柏木がエントランスを退館したのが九時二十二分。搬入口の通過記録が十時四十七分。その間、約一時間二十五分。
タイムカードの打刻は九時十七分。
もし柏木が九時二十二分にエントランスを出て、その前にタイムカードの仕掛けをセットしておき、十時四十七分に搬入口から戻ったとすれば。
「その通過記録は、入館方向ですか、退館方向ですか」と菅野は訊いた。
「入館方向です」
入館。十時四十七分に、誰かが搬入口から入った。
「誰が入ったかの特定は」
「暗証番号式なので、できません」遠藤は言った。「ただし」
「ただし」
「退館記録も一件あります。同じ夜の、十一時五十八分です」
十一時五十八分。退館。
菅野は数字を並べた。
九時二十二分・エントランス退館。十時四十七分・搬入口入館。十一時五十八分・搬入口退館。
その間の時間が、事件当夜の空白だった。
「遠藤さん」と菅野は言った。「汐里さんが最後にスマートフォンを使ったのが、十一時四十分のメッセージでしたね」
「はい」
「十一時五十八分に搬入口から退館した人物が、その前に現場にいたとすれば、時系列として矛盾しません」
沈黙があった。長い沈黙だった。
「菅野さん」と遠藤は言った。「これは、重大な方向転換になります」
「はい」
「湊人の件は、逮捕されています。公判が始まります。この新しい情報を正式に捜査に組み込むとすれば、それなりの手続きが必要で」
「分かっています」菅野は言った。「ただ、この記録は事実として存在します」
遠藤はまた少し黙った。「明日、上と相談します。菅野さんの情報を、正式な捜査の俎上に乗せる方向で」
「お願いします」
電話を切った。
菅野はノートを開いて、今夜確認したことを書いた。
搬入口・十時四十七分・入館。搬入口・十一時五十八分・退館。個人特定不能。
書き終えて、ペンを置いた。
記録は語っていた。ただし、記録が示す「誰か」が柏木であるという証明は、まだなかった。
搬入口の暗証番号を、柏木が知っていたかどうか。総務担当者が共有しているということだったが、柏木がその番号を持っていたかどうかは、別の確認が必要だった。
菅野はノートに書いた。「暗証番号・柏木が持っていたか・要確認」
その下に、もう一行書いた。
「翠への感情・接待での再会後に何が変わったか・核心」
核心、と書いた。
全ての情報が、そこに向かっていた。
柏木が汐里を殺したとすれば、その理由が。
接待の席で、同じ高校にいた女に再会した。変わり果てた場所で。
その再会が、柏木の中で何かを動かした。
菅野はまだ、その「何か」の名前を知らなかった。
ただ、知ることが近づいているような気がした。
一月の夜が、深くなっていた。




