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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
剥離する虚像
26/50

別の入口

 翌朝、菅野はビルの管理会社に電話した。

 「先日お話しした件で、追加の確認をお願いしたいのですが」と菅野は言った。「エントランス以外に、ビルへの出入りができる入口はありますか」

 担当者は少し考えた。「搬入口が一階の裏手にあります。業者用の入口で、通常は施錠されています」

 「その施錠は、どのような方式ですか」

 「暗証番号式です。テナントの総務担当者には番号を共有しています」

 「記録は取れますか。誰がいつ通過したかという」

 「暗証番号式なので、個人を特定する記録は取れません。通過した時刻の記録だけが残ります」

 菅野はメモを取った。「事件当夜の、搬入口の通過記録はありますか」

 「警察からの照会があれば確認できますが」

 「分かりました。警察を通じて照会してもらいます」

 電話を切って、すぐに遠藤に連絡した。

 「搬入口の記録を確認してもらえますか」と菅野は言った。事情を説明した。

 遠藤は少し黙ってから「照会します」と言った。声に、何かが混じっていた。菅野の調査が、遠藤の想定を超え始めているときの、あの気配だった。


 午後、菅野は湊人の弁護士・河合に電話した。

 「新しい情報があります」と菅野は言った。「まだ確定ではありませんが」

 「聞かせてください」

 菅野は順番に話した。柏木が翠の客だったこと。高校のころから顔を知っていたこと。菅野に対してそれらを隠していたこと。タイムカードの仕掛けの可能性。搬入口の件。

 河合は黙って聞いていた。

 「柏木京介という人物が、事件に関与している可能性を考えているということですか」と河合は言った。

 「可能性を検証している段階です」

 「物証はありますか」

 「ありません。今のところ、状況証拠と、仕組みとしての可能性だけです」

 河合は少し考えた。「公判で使えるかどうかは、証拠次第です。ただ、捜査の方向に疑問を呈する材料として、弁護側が動くことはできるかもしれない」

 「それはあなたの判断に任せます」

 「一つだけ訊かせてください」と河合は言った。「菅野さんは、柏木が犯人だと思いますか」

 菅野は少し間を置いた。

 「思い始めています」と菅野は最終的に言った。「確信ではない。ただ、思い始めている」

 河合は「分かりました」と言って電話を切った。


 夕方、菅野は高校の担任教師に、三度目の電話をした。

 「以前お話しした際に、汐里さんの高校時代のことを教えていただきましたね」と菅野は言った。「もう一つだけ確認させてください。同じ学校に、柏木京介という生徒はいましたか」

 少しの間があった。

 「柏木」と教師は繰り返した。「確認しないと分かりませんが、少し待っていただけますか」

 保留になった。五分ほどして教師が戻ってきた。

 「同じ学年に、柏木という生徒はいませんでした」と教師は言った。「ただ、一つ上の学年に、柏木という生徒がいた記録があります」

 「一つ上」

 「はい。ただ、私のクラスではなかったので、詳しいことは分かりません」

 「その生徒の名前は分かりますか」

 「柏木京介、という名前が記録にあります」

 菅野はメモを取った。「ありがとうございます」

 一つ上の学年。柏木京介。

 同じ高校にいた。汐里より一つ上の学年に。

 「その当時、何か覚えていることはありますか。柏木という生徒について」

 「私のクラスではなかったので」教師は言った。「ただ、名前は聞いたことがあったような気がします。どんな理由で聞いたのか、今は思い出せませんが」

 「どんな印象でしたか」

 「真面目な生徒、という印象があります。ただ、それ以上は」

 菅野は礼を言って電話を切った。


 同じ高校。一つ上の学年。

 菅野はそれをノートに書いた。

 柏木は「同じ地域に住んでいて、少し知っていた程度」と言っていた。同じ高校にいたことは、話さなかった。

 意図的に話さなかったのか。それとも、些細なことだと判断したのか。

 菅野には判断できなかった。ただ、また何かを話さなかった、という事実が積み重なった。

 翠の客だったことを話さなかった。高校から顔を知っていたことを話さなかった。そして同じ高校にいたことも、話さなかった。

 話さなかったことが、三つになった。

 菅野はノートに書いた。「同じ高校・一つ上の学年・柏木が話さなかった」

 その行を書きながら、菅野は柏木が接待の席で汐里を見たときのことを考えた。

 同じ高校にいた、一つ下の女。その女が、接待の席にいた。

 柏木は「驚いた」と言った。

 その驚きの中身を、菅野はまだ完全には理解していなかった。

 ただ、今日新しく知った事実を加えると、「驚き」の意味が少し変わってくるような気がした。

 同じ学校にいた女が、変わり果てた場所にいた。

 その事実が、柏木の中で何かを引き起こした。

 何を引き起こしたのか。


 夜、遠藤から電話があった。

 「搬入口の記録が出ました」と遠藤は言った。

 菅野は身構えた。「事件当夜の記録は」

 「通過記録が一件あります」

 「時刻は」

 「夜の十時四十七分です」

 菅野はメモを取りながら、頭の中で時系列を組み立てた。

 柏木がエントランスを退館したのが九時二十二分。搬入口の通過記録が十時四十七分。その間、約一時間二十五分。

 タイムカードの打刻は九時十七分。

 もし柏木が九時二十二分にエントランスを出て、その前にタイムカードの仕掛けをセットしておき、十時四十七分に搬入口から戻ったとすれば。

 「その通過記録は、入館方向ですか、退館方向ですか」と菅野は訊いた。

 「入館方向です」

 入館。十時四十七分に、誰かが搬入口から入った。

 「誰が入ったかの特定は」

 「暗証番号式なので、できません」遠藤は言った。「ただし」

 「ただし」

 「退館記録も一件あります。同じ夜の、十一時五十八分です」

 十一時五十八分。退館。

 菅野は数字を並べた。

 九時二十二分・エントランス退館。十時四十七分・搬入口入館。十一時五十八分・搬入口退館。

 その間の時間が、事件当夜の空白だった。

 「遠藤さん」と菅野は言った。「汐里さんが最後にスマートフォンを使ったのが、十一時四十分のメッセージでしたね」

 「はい」

 「十一時五十八分に搬入口から退館した人物が、その前に現場にいたとすれば、時系列として矛盾しません」

 沈黙があった。長い沈黙だった。

 「菅野さん」と遠藤は言った。「これは、重大な方向転換になります」

 「はい」

 「湊人の件は、逮捕されています。公判が始まります。この新しい情報を正式に捜査に組み込むとすれば、それなりの手続きが必要で」

 「分かっています」菅野は言った。「ただ、この記録は事実として存在します」

 遠藤はまた少し黙った。「明日、上と相談します。菅野さんの情報を、正式な捜査の俎上に乗せる方向で」

 「お願いします」

 電話を切った。

 菅野はノートを開いて、今夜確認したことを書いた。

 搬入口・十時四十七分・入館。搬入口・十一時五十八分・退館。個人特定不能。

 書き終えて、ペンを置いた。

 記録は語っていた。ただし、記録が示す「誰か」が柏木であるという証明は、まだなかった。

 搬入口の暗証番号を、柏木が知っていたかどうか。総務担当者が共有しているということだったが、柏木がその番号を持っていたかどうかは、別の確認が必要だった。

 菅野はノートに書いた。「暗証番号・柏木が持っていたか・要確認」

 その下に、もう一行書いた。

 「翠への感情・接待での再会後に何が変わったか・核心」

 核心、と書いた。

 全ての情報が、そこに向かっていた。

 柏木が汐里を殺したとすれば、その理由が。

 接待の席で、同じ高校にいた女に再会した。変わり果てた場所で。

 その再会が、柏木の中で何かを動かした。

 菅野はまだ、その「何か」の名前を知らなかった。

 ただ、知ることが近づいているような気がした。

 一月の夜が、深くなっていた。

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