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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
剥離する虚像
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予備校の記録

 翌朝、菅野は柏木の会社に電話した。

 今度は総務担当者に繋いでもらい、搬入口の暗証番号について訊いた。総務担当者への共有範囲を確認したかった。

 「搬入口の暗証番号は、各部署の総務担当者と、それから」担当者は少し間を置いた。「フロアの施錠管理を任されている社員にも共有しています」

 「施錠管理を任されている社員、というのは」

 「最後まで残って施錠する役割の社員です。残業が多い方が担当することが多くて」

 菅野はメモを取った。「その役割を担当している社員の名前を教えてもらえますか」

 「それは」担当者は少し躊躇した。「個人情報になりますので」

 「分かりました。警察からの照会で確認してもらいます」

 電話を切って、遠藤にすぐ連絡した。

 遠藤は「確認します」と言った。昨夜の電話以来、遠藤の対応が変わっていた。迅速になっていた。上に相談した結果、菅野の情報を正式な捜査の俎上に乗せる方向になったのだろうと、菅野は判断した。


 午前中、菅野は別の方向を確認することにした。

 柏木と汐里の接点が、高校以前にもあった可能性を、もう少し掘り下げたかった。

 同じ高校、一つ上の学年。同じ地域に住んでいた。それだけが、柏木が話した接点だった。

 ただ、高校生が同じ地域に住んでいるだけで「少し知っていた」というのは、どういう意味なのか。学校が違えば、普通は接点がない。クラブ活動や地域のイベントで顔を合わせる可能性はあるが、それだけで「顔を知っていた」というのは、少し曖昧だった。

 菅野は湊人に電話した。

 「汐里さんが高校時代、習い事や塾などに通っていたか、知っていますか」と菅野は訊いた。

 湊人は少し考えた。「予備校に通っていたと思います。高一か高二のころ、英語が苦手だと言っていて、予備校に行き始めたと聞きました」

 「どこの予備校か分かりますか」

 「名前は聞いたことがあります。駅前の、○○ゼミナールだったと思います」

 菅野はメモを取った。「いつごろまで通っていましたか」

 「高一の終わりか高二の初めごろまでだったと思います。そのあと、家のことがあって、辞めたと言っていたような気がします」

 家のこと。両親が蒸発したのが高三の春だったが、経営が傾き始めたのはその前だった可能性がある。

 「ありがとうございます」と菅野は言って電話を切った。


 予備校の名前を確認して、菅野は駅前に向かった。

 ○○ゼミナールは、駅から徒歩三分ほどの場所にあった。古いビルの二階と三階を使っていた。受付に話しかけて、事情を説明した。

 「七、八年ほど前に在籍していた生徒の記録を確認していただけますか」

 受付の女性は困った顔をした。「個人情報になりますので、正式な手続きが」

 「警察を通じて照会してもらいます。ただ、一点だけ確認させてください。その時期に、この予備校に在籍していた可能性のある生徒が二人います。朝倉汐里と、柏木京介という名前です。記録を探すことは可能ですか」

 女性は「記録自体は残っていると思いますが」と言った。「正式な照会があれば確認できます」

 「分かりました」

 菅野はビルを出た。

 記録が残っている。照会すれば確認できる。

 もし二人が同じ予備校に在籍していた記録があれば、それは接点の証明になる。ただの「同じ地域に住んでいた」ではなく、具体的な接点。

 菅野はすぐに遠藤にメッセージを送った。予備校への照会を依頼した。


 午後、遠藤から折り返しの電話があった。

 「施錠管理の件、確認が取れました」と遠藤は言った。「柏木京介が、フロアの施錠管理を担当していました。残業が最も多い社員として、その役割を任されていたということです」

 菅野は深く息を吸った。

 施錠管理の担当者。搬入口の暗証番号を共有されている立場。

 「搬入口の暗証番号を、柏木が持っていたことが確認されましたね」

 「はい」遠藤は言った。「それから」

 「それから」

 「予備校の照会も急いで動かしました。記録が確認できました」

 菅野は何も言わなかった。続きを待った。

 「朝倉汐里と柏木京介、二人とも同じ予備校に在籍していた記録があります」遠藤は言った。「在籍期間が重なっているのは、七年前の一年間です。汐里が高校一年のとき、柏木が高校二年のときに当たります」

 一年間。同じ予備校に、同じ時期に。

 菅野はメモを取った。

 「その一年間の後、汐里の在籍記録は」

 「途切れています。柏木の方は、その後も一年間在籍して、卒業しています」

 汐里が高一の終わりごろに予備校を辞めた。湊人が言っていた「家のことがあって辞めた」という話と、時期が合った。両親の経営が傾き始めた時期だったのかもしれなかった。

 「遠藤さん」と菅野は言った。「この一年間の接点が、何を意味するか、あなたはどう思いますか」

 遠藤は少し間を置いた。「少なくとも、柏木が『少し知っていた』という説明の根拠になります。ただしそれ以上のことは、今の段階では」

 「はい」菅野は言った。「今の段階では、それだけです」


 夕方、菅野は湊人に再度電話した。

 「もう一つだけ確認させてください」と菅野は言った。「汐里さんが高校一年のころ、予備校で知り合った人物について、何か話していましたか」

 湊人は少し間を置いた。「話していたような気がします。ただ、詳しくは」

 「どんなことを話していましたか」

 「仲の良い人がいると、予備校で。名前は聞かなかった。ただ、汐里がその話をするとき、少し嬉しそうだったのを覚えています」

 「それはいつごろの話ですか」

 「高一の終わりごろだったと思います。その後、予備校を辞めてからは、その話をしなくなって。だから、そのまま忘れていました」

 菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。

 予備校で仲の良い人がいた。嬉しそうだった。そして予備校を辞めてからは、その話をしなくなった。

 菅野はノートに書いた。

 「予備校・一年間・柏木と汐里・同時期在籍確認済」「汐里・予備校で仲の良い人物・湊人への話・嬉しそうだった」

 二行を書いて、少し考えた。

 仲の良い人物が柏木だったとすれば。

 汐里が予備校を辞めた理由が、家のことだったとすれば。

 その後、二人の接点は途切れた。

 そして七年後、接待の席で再会した。

 柏木にとって、その再会は何だったのか。

 かつて知っていた女が、変わり果てた場所にいた。

 変わり果てた。

 その言葉が、菅野の中に落ちた。

 柏木が「驚いた」と言ったのは、ただの驚きではなかったかもしれなかった。予備校で知り合い、何らかの形で関係を持った女が、七年後にそこにいた。その「驚き」の中には、喪失があったかもしれなかった。

 自分が知っていた女は、どこに行ったのか。

 その問いが、柏木の中でどんな形をとったのか。

 菅野にはまだ分からなかった。

 ただ、分かることに近づいていた。


 夜、河合弁護士にメッセージを送った。

 「新しい情報があります。明日、お時間をいただけますか」

 返信はすぐに来た。「午前十時にお越しください」

 菅野はノートを閉じた。

 搬入口の暗証番号を持っていた。予備校で一年間、汐里と同じ時期に在籍していた。汐里が来なくなると同時に、店に来なくなった。菅野に対して複数の事実を隠していた。

 物証はなかった。まだなかった。

 ただ、状況証拠の輪が、少しずつ閉じていた。

 柏木を疑うことへの心理的な抵抗が、菅野の中でまだあった。

 あった。ただし、以前より小さくなっていた。

 探偵としての嗅覚が、同情を少しずつ上回り始めていた。

 窓の外で、一月の風が鳴っていた。

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