引き出しの中
湊人の弁護士から連絡があったのは、一月の半ばだった。
電話口で弁護士は「岡崎湊人の弁護を担当している河合です」と名乗った。四十代とおぼしき、落ち着いた声だった。「菅野さんが独自の調査を続けていると聞きました。直接お話しできますか」
翌日、菅野は弁護士事務所を訪ねた。
河合は小柄な女性だった。デスクの上に書類が積み上がっていたが、乱雑ではなかった。仕事量の多さと、それを管理している人間の几帳面さが、同時に見えた。
「岡崎は一貫して否認しています」と河合は言った。「ただ、証拠の積み重ねが彼に不利で、このままでは厳しい状況です」
「私の調査について、どこから聞きましたか」と菅野は訊いた。
「岡崎本人からです。あなたが独自の調査を続けていると、面会のときに話してくれました。彼は、あなたを信頼しているようです」
菅野は少し間を置いた。「私は、岡崎さんの依頼を受けていません。竹内フミさんの依頼で動いています」
「分かっています」河合は言った。「ただ、あなたが新しい情報を持っているとすれば、公判に影響する可能性があります。協力していただけますか」
「今の段階では、お伝えできることが限られています」菅野は言った。「確認中の事実がいくつかあって、それが確定していない。確定していないことを証言することはできません」
「どのくらいの時間が必要ですか」
「分かりません」
河合は少し考えた。「公判の日程は、来月に第一回があります。それまでに何か動きがあれば、知らせてもらえますか」
「できる範囲で」
事務所を出て、菅野は歩きながら考えた。
来月、第一回公判。時間があまりなかった。
タイムカードの仕掛けについて、具体的に考える必要があった。
自宅に戻って、菅野はノートを広げた。
柏木の席の構造を、記憶から書き出した。
窓際。三方をパーティションで囲まれている。手前に共有プリンター。マルチモニター二台。デスク。椅子。引き出し。
引き出し。
菅野はそこで止まった。
デスクを訪ねたとき、引き出しの存在を確認していた。ただ、中身を見たわけではなかった。
タイムカードをスロットに落とす仕掛けがあるとすれば、どういう構造が考えられるか。
カードをある位置に固定して、時間差でスロットに落下させる。そのためには、固定したカードが、時間をかけて移動する仕組みが必要だった。
菅野は様々な可能性を考えた。ゴムの弾性を使った仕掛け。重力を利用した仕掛け。タイマーを使った電気的な仕掛け。
ただし、電気的な仕掛けは痕跡が残りやすかった。シンプルであるほど、発覚しにくい。
重力を利用する。
菅野は考えを進めた。
カードをある高さに仮固定して、何らかの理由でその固定が解除されたとき、カードが落下してスロットに入る。
仮固定の方法として、粘着力の弱いテープが考えられた。最初はカードを支えるが、時間とともに剥がれる。剥がれた瞬間にカードが落下してスロットに入る。
ただし、カードリーダーのスロットは、通常水平に差し込む方式だった。垂直に落下させるだけでは入らない。
菅野はカードリーダーの構造を思い出そうとした。柏木の席の近くにあると聞いていた。実際に見たことはなかった。
垂直に設置されたスロットであれば、落下によって入る可能性があった。
菅野はそこまで考えて、引き出しのことに戻った。
引き出しがゆっくりと閉まる構造のものがある。ソフトクローズ機構と呼ばれる、ダンパーがついた引き出しだった。勢いよく閉めても、最後の数センチはゆっくりと静かに閉まる仕組みだった。
逆に言えば、少し開いた状態から、重力でゆっくりと閉まっていく引き出し。
閉まりきる時間は、引き出しの重さと傾きと、ダンパーの強さによって変わる。数時間かけてゆっくりと閉まりきる設定も、可能かもしれなかった。
そして閉まりきった瞬間、引き出しの内側に仮止めされていたカードが、垂直に設置されたカードリーダーのスロットに落下する。
菅野はその仕組みを、ノートに図で描いた。
荒削りだった。実現可能かどうか、菅野には判断できなかった。カードリーダーのスロットが垂直かどうかも、まだ確認していなかった。引き出しにソフトクローズ機構があるかどうかも、確認していなかった。
ただ、仕組みとしては成立する可能性があった。
菅野は図の下に書いた。「要確認・カードリーダーの構造・引き出しの機構」
翌日、菅野は柏木に電話した。
「もう一度、職場を訪ねさせてもらえますか」と菅野は言った。「確認したいことがあります」
「今日は難しいですが、明後日であれば」と柏木は言った。「昼休みに来ていただければ」
「分かりました」
電話を切って、菅野は二日間、別の方向を確認することにした。
まず、カードリーダーの一般的な構造について調べた。機種によって異なるが、縦型のスロットを持つものがあることが分かった。カードを縦に差し込む方式で、壁面や柱に設置されることが多い。
次に、ソフトクローズ機構のついた引き出しが、どのくらいの時間をかけて閉まるかを調べた。製品によって異なるが、数秒から数十秒で閉まりきるものが多かった。ただし、引き出しの角度や摩擦を調整することで、より長い時間をかけることも理論上は可能だった。
数時間かけて閉まりきるかどうか。それは通常の使用範囲を超えていた。ただし、不可能ではないかもしれなかった。
菅野は調べながら、自分が何をしているかを意識していた。
柏木を有罪にしようとしているのではなかった。柏木が犯人である可能性を、論理的に検証しようとしていた。
その二つは、似ているが違った。
ただ、検証の過程で、菅野は自分の中にある抵抗を感じていた。
柏木が犯人であってほしくない、という気持ち。
その気持ちがどこから来るのかを、菅野は知っていた。孤独な青年への同情。自分の過去との重なり。誰からも見えない場所で働き続けた経験。
しかし探偵としての菅野は、その気持ちに従うことができなかった。
従うことができなかった。しかし、完全に切り離すこともできなかった。
その葛藤が、この二日間、菅野の中に居続けた。
二日後、菅野は柏木の職場を訪ねた。
エレベーターで七階に上がり、フロアに入った。昼休みの時間帯で、半分ほどの席が空いていた。柏木が迎えに来て、自分の席へ案内した。
パーティションの内側に入った。
菅野は席に座る前に、周囲を確認した。
カードリーダーは、パーティションの外側、プリンターの横の柱に設置されていた。縦型のスロットだった。カードを縦に差し込む方式。柱に固定されていて、高さは腰のあたりだった。
引き出しを確認したかった。
「少し、デスクを見せてもらえますか」と菅野は言った。
柏木は少し間を置いてから、「どうぞ」と言った。
菅野はデスクに近づいた。引き出しが三段あった。一番上の引き出しを、軽く引き出した。
滑らかに動いた。閉めると、最後の数センチがゆっくりと動いた。
ソフトクローズ機構だった。
菅野は何も言わなかった。引き出しを閉めて、元の位置に戻った。
「座りましょうか」と菅野は言った。
柏木は自分の椅子に座った。菅野は脇の椅子に座った。
「確認させてください」と菅野は言った。「事件当夜、タイムカードを打刻してから退勤した、という流れで間違いないですか」
「はい」
「打刻する直前、デスクで何かしていましたか」
「仕事の残りを片付けていました」
「引き出しは使いましたか」
柏木は少し間を置いた。「使ったかどうか、覚えていません」
「覚えていない」
「事件当夜のことを、細かく覚えているわけではないので」
菅野は柏木の顔を見た。
落ち着いていた。動揺していなかった。引き出しについて訊かれたとき、一瞬の間があったが、それだけだった。
ただ、菅野はカードリーダーのスロットの位置と、引き出しの位置を、頭の中で重ねた。
引き出しを少し開けた状態で、内側にタイムカードを仮止めする。引き出しがゆっくりと閉まりきったとき、カードが落下して、すぐ外側のカードリーダーのスロットに入る。
距離的に、成立するかどうか。
菅野には判断できなかった。ただ、スロットの位置と引き出しの位置は、壁を隔てているわけではなかった。パーティションの内側と外側という違いはあったが、物理的な距離は近かった。
「もう一つだけ」と菅野は言った。「エントランスのIDカードと、タイムカードは別のカードですか」
「はい」柏木は言った。「IDカードは首からぶら下げていて、タイムカードは引き出しに入れています」
「引き出しに」
「そうです。毎朝出して、退勤時に打刻して、翌朝また引き出しに入れるという流れで」
菅野はそれを書き留めた。
タイムカードは引き出しに入れている。引き出しにソフトクローズ機構がある。カードリーダーのスロットは縦型で、近くにある。
三点が揃った。
仕組みとして成立する可能性が、現実のものになった。
職場を出て、菅野は歩きながら考えた。
成立する可能性と、実際に行われたことは、別だった。
ただ、可能性が成立した。
エントランスのIDカードを通過させる方法については、まだ考えていなかった。それが残る課題だった。IDカードは首からぶら下げていると柏木は言った。それは本人が持っている。本人がエントランスを通過しなければ、記録は残らない。
ただし。
菅野はそこで考えを止めた。
IDカードを使って、本人がエントランスを通過した後、タイムカードの打刻が時間差で行われる仕組みがあれば。
本人は九時二十二分にエントランスを出た。その前に、引き出しに仕掛けをセットしておく。引き出しが閉まりきる時間を、数時間後に設定しておく。
九時過ぎに退勤したように見せかけながら、実際にはその後に戻ってくることができる。
ただし、再入館の記録がなかった。エントランスを通過した記録は、退館の一件だけだった。
別の入口がある可能性。非常口。あるいは、別の方法。
菅野はそれを確認する必要があった。
しかし今日のところは、ここまでだった。
菅野はコートの前を閉じて、駅の方向へ歩いた。
一月の風が、正面から来た。
剃刀のような違和感が、今日は少し形を変えていた。
違和感ではなく、可能性に近づいていた。




