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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
剥離する虚像
24/50

記録の穴

 遠藤から連絡があったのは、一月の第二週だった。

 「柏木の会社への照会、結果が出ました」と遠藤は言った。

 菅野はノートを開いた。「退勤時刻は」

 「事件当夜、九時十七分の打刻記録があります」

 「九時十七分」

 「はい。カードリーダーへの打刻で、記録として残っています」

 菅野はそれを書き留めた。九時十七分。路地で柏木が「九時半から十時の間に通った」と言っていたこととも、矛盾しない時刻だった。

 「打刻の方法は」と菅野は訊いた。

 「カードをスロットに入れる方式です。カードリーダーは柏木の席の近くにあるということで」

 「打刻した瞬間を、誰かが目視で確認していますか」

 遠藤は少し間を置いた。「会社への確認では、目視での確認はしていないということです。各自の打刻を信頼する運用になっているとのことで」

 「つまり、本人以外に、その時刻に打刻されたことを確認した人間はいない」

 「そういうことになります」遠藤は言った。「ただし、記録として残っている以上、それが証拠になります。記録を改ざんしない限り」

 「改ざんではなく、仕組みで操作することはできますか」

 沈黙があった。少し長い沈黙だった。

 「どういう意味ですか」と遠藤は言った。

 「カードをリーダーに入れる操作を、本人がその場にいない状態で行う方法があるかどうか、ということです」

 また沈黙があった。

 「具体的に何を考えていますか」と遠藤は言った。

 「まだ形になっていません。ただ、カードリーダーの位置と、柏木の席の構造を確認したいと思っています」

 「菅野さん」遠藤は言った。「湊人の公判準備が進んでいます。柏木の件で新しい動きをするなら、それなりの根拠が必要です。今の段階では」

 「分かっています」菅野は言った。「根拠を作る前の、確認の段階です」

 電話を切った。


 午前中、菅野は柏木の職場のビルに向かった。

 中に入るつもりはなかった。外から確認できることを確認するつもりだった。

 ビルのエントランスに入って、エレベーターの案内板を見た。柏木の会社は七階だった。

 菅野はエレベーターに乗らなかった。

 代わりに、エントランスの警備員に話しかけた。名刺を出して、建物の管理会社への取材として、タイムカードの管理方式について話を聞きたいと言った。

 警備員は少し考えてから、「管理会社の担当者を呼びます」と言った。

 十分ほどして、四十代の男が降りてきた。菅野は同じ説明をした。

 「このビルのテナントには、どういった入退館記録がありますか」と菅野は訊いた。

 「エントランスのカードリーダーで、入館と退館の記録を取っています」男は言った。「各テナントの社員は、それぞれのIDカードで記録されます」

 「それは、タイムカードとは別の記録ですか」

 「別です。エントランスの記録は、ビル側が管理しています。各テナントの社内のタイムカードとは、別の系統です」

 菅野はメモを取った。「事件当夜の、特定の社員の入退館記録を確認することは可能ですか」

 「警察からの正式な照会があれば可能です」男は言った。「ただし、テナントの社員のプライバシーに関わるので」

 「分かりました」菅野は言った。「警察を通じて照会してもらいます」

 男は頷いた。菅野は礼を言って、ビルを出た。


 外に出て、菅野は少し考えた。

 エントランスのカードリーダー。入退館の記録。それはビル側が管理していて、各テナントのタイムカードとは別系統だった。

 つまり、エントランスを通過した時刻と、タイムカードの打刻時刻は、別々に記録されている。

 もし柏木が九時十七分にタイムカードを打刻したとしても、エントランスのカードリーダーを通過した時刻が別にあれば、その二つを照合できる。

 それが一致しているなら、九時十七分に退勤したという記録は正しい。

 一致していなければ、何かがおかしい。

 菅野はすぐに遠藤にメッセージを送った。「ビルのエントランスに、別系統の入退館記録があります。タイムカードとの照合をお願いできますか」

 返信は少しして来た。「照会します」


 昼過ぎ、菅野は自宅でノートを広げて、柏木に関する情報を時系列に並べた。

 五月か六月。接待の席で翠に再会。高校のころから顔を知っていた女が、そこにいた。

 その後。指名客になった。一年ほど通った。

 八月の終わり。翠が具合を悪くした夜、背負って送った。

 九月以降。翠が来なくなった。柏木も来なくなった。

 十一月。事件。翠が路地で発見された。

 その後。柏木が菅野に接触してきた。目撃情報を提供した。連絡を取り続けた。

 菅野はその時系列を見た。

 接待の席で再会。高校のころから知っていた女。

 柏木は「驚いた」と言った。その「驚き」が何だったのか。

 菅野の中に、一つの問いが浮かんだ。

 高校のころから知っていた女が、なぜその席にいたのか。

 接待の席に来るということは、その仕事をしているということだった。柏木はそれを、接待の席で初めて知ったことになる。

 知ったとき、柏木は何を思ったのか。

 「驚いた」という一言では、足りなかった。

 菅野はノートに書いた。「接待の席での再会・柏木の内側で何が起きたか・未確認」

 その行を書きながら、菅野は自分の中にある感覚を測っていた。

 一ヶ月半前、路地の前で菅野に話しかけてきた青年。窓際の死角で一人残業をする男。誰かに頼まれすぎている方がまだいい、と言った男。その男への同情が、菅野の中にまだあった。

 あった。しかし前ほど大きくなかった。

 翠の客だったことを隠していた。高校のころから知っていたことを隠していた。それらを隠しながら、菅野に近づいてきた。

 その事実が、同情の上に少しずつ積み重なっていた。


 夕方、遠藤から電話があった。

 「エントランスの入退館記録、照会しました」と遠藤は言った。

 「結果は」

 「事件当夜、柏木のIDカードがエントランスのカードリーダーを通過した記録は、退館方向で一件あります」

 「時刻は」

 「九時二十二分です」

 九時二十二分。タイムカードの打刻が九時十七分。エントランス通過が九時二十二分。

 五分の差。席からエントランスまでの移動時間として、不自然ではなかった。七階からエレベーターで降りて、エントランスを出るまでの時間として、五分は妥当だった。

 矛盾はなかった。

 菅野は少し間を置いた。

 「九時二十二分以降、再入館の記録は」

 「ありません。その夜は退館記録だけで、再入館はしていません」

 菅野は「分かりました」と言った。

 「柏木のアリバイは、記録上は成立しています」と遠藤は言った。「菅野さんが考えているような操作が行われていないとすれば、ですが」

 「記録上は、という部分が重要です」と菅野は言った。

 遠藤は少し黙った。「菅野さん、具体的に何を考えているか、教えてもらえますか」

 「タイムカードの打刻が、本人がその場にいない状態で行われた可能性です。何らかの仕掛けで、時間差で打刻することができるなら、記録上の退勤時刻と実際の退勤時刻が異なる可能性があります」

 「ただし、エントランスの記録は一致しています」

 「エントランスはIDカードで通過します。IDカード自体を、何らかの方法で通過させることができれば」

 沈黙があった。

 「それは、かなり周到な準備が必要ですね」と遠藤は言った。

 「はい」菅野は言った。「ただし、不可能ではない」

 「根拠は」

 「まだありません」菅野は言った。「ただし、柏木の席の構造が、そういった準備をするのに適している可能性があります。誰からも見えない死角で、プリンターが視線を遮っている」

 遠藤はしばらく黙っていた。

 「もし本当にそういう仕掛けがあったとすれば、それを証明する必要があります。記録が一致している以上、記録を覆すだけの物証が必要です」

 「分かっています」

 「湊人の公判準備は進んでいます。菅野さんが新しい方向に動くなら、時間があまりありません」

 電話を切った。

 菅野はノートを開いた。

 タイムカード・九時十七分打刻。エントランス・九時二十二分退館。記録上の矛盾なし。

 その下に書いた。

 「仕掛けの可能性・誰からも見えない死角・プリンターが視線を遮る」

 さらに下に書いた。

 「証明する方法・未着手」

 菅野はペンを置いた。

 記録は成立していた。アリバイは、記録上は存在した。

 しかし記録と現実の間に、隙間がある可能性。

 その隙間を証明することが、今の菅野にできるかどうか。

 窓の外は暗くなっていた。一月の夜が、早く落ちていた。


 夜遅く、菅野はもう一度、柏木に関する情報を頭の中で整理した。

 高校のころから顔を知っていた女。接待の席での再会。指名客になった一年間。具合が悪くなった夜に背負って送った。翠が来なくなると同時に来なくなった。菅野への接触。目撃情報の提供。連絡の継続。

 そしてタイムカードの打刻と、エントランスの通過記録。

 記録は一致していた。

 ただ、菅野の中の剃刀のような違和感は、消えなかった。

 むしろ、少しずつ鋭くなっていた。

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