新年の棘
年が明けた。
菅野は元日を、自宅で過ごした。特別なことは何もしなかった。おせちも雑煮も作らなかった。コンビニで買った肉まんを食べながら、ノートを読み返した。
一ヶ月半分の記録が、そこにあった。
最初のページから順番に読んでいくと、自分がどこを見ていて、どこを見ていなかったかが分かった。捜査の記録というのは、同時に判断の記録でもあった。何を重視して、何を後回しにしたか。その選択の跡が、ノートには残っていた。
「柏木・タイムカード・確認・未了」という項目が、五回繰り返されていた。
菅野はその五行を、少しの間見ていた。
同じ項目を五回書いて、五回先送りにした。状況のせいだと思っていた。優先順位のせいだと思っていた。しかし元日の静かな部屋で読み返すと、それが言い訳に見えた。
ただ、言い訳だとしても、今この瞬間に確認できることではなかった。年始で会社は動いていない。藤田への電話も、三が日を過ぎてからの方がいいだろう。
菅野はノートを閉じて、窓の外を見た。
元日の空は晴れていた。冬の光が、薄く路面に落ちていた。
四日、菅野は藤田に電話した。
藤田は出た。声は落ち着いていた。年末に警察に出頭して、横領の件を話したという話を、年明けのメッセージで受け取っていた。
「あけましておめでとうございます」と菅野は言った。
「おめでとうございます」藤田は言った。「警察の件は、弁護士と相談しながら進めています」
「大変な年明けになりましたね」
「自分でやったことですから」藤田は短く言った。諦めではなく、受け入れの声だった。
「一つだけ確認させてください」と菅野は言った。「以前、翠さんが誰かに背負われていく姿を見た、という話をされていましたね」
「はい」
「それはいつのことでしたか」
藤田は少し考えた。「夏の終わりから秋の初めごろだったと思います。八月か、九月の頭か」
「場所は」
「店の近くの路地です。夜に、偶然通りかかったときに見ました」
「時刻は」
「夜の十一時か、十一時半ごろだったと思います」
菅野はメモを取った。夏の終わりから秋の初め。夜の十一時から十一時半。店の近くの路地。
「背負っていたのはどんな人物でしたか」と菅野は訊いた。
「男性です。若い男性で、背が高かった。コートか何か、上着を着ていて、前を閉じていた。翠を背負って、しっかりした足取りで歩いていました」
「顔は見えましたか」
「後ろ姿でした。顔は見えていません」
「翠さんの様子は」
「ぐったりしていました。眠っているか、酔っているか。そういう状態に見えた」
「あなたはそれを見て、どう思いましたか」
「客と帰るところだと思いました」藤田は言った。「それで、諦めました。もう連絡するのをやめようと思った。その後も連絡してしまいましたが、あのとき諦めようとしたのは本当で」
菅野はメモを取った。
若い男性。背が高い。上着、前を閉じていた。しっかりした足取り。
「上着の色は覚えていますか」
「暗い色でした。紺か、グレーか」
菅野のペンが、一瞬止まった。
暗い色の上着。紺か、グレー。
柏木が事件当夜に目撃したという「若い男」について、後から「暗い色の上着だったような気がする」と言っていた。
ただし藤田が見たのは夏の終わりから秋の初め、事件は十一月だった。時期が違った。別の出来事だった。
菅野はそれを確認した。「その出来事は、事件の夜ではなく、もっと前のことですね」
「そうです。事件よりずっと前のことです」
「分かりました」菅野は言った。「それから、その男のことを、もう少し詳しく思い出せますか。体格とか、歩き方とか」
「体格は普通でした。ただ、背が高かった。それから」藤田は少し考えた。「歩き方が、妙に落ち着いていた。翠を背負っているのに、急いでいなくて。まるで、荷物を運んでいるような」
「荷物を運んでいるような」
「そう感じました。慌てていなかった。堂々としていた、という感じで」
菅野はその表現を書き留めた。
荷物を運んでいるような足取り。翠を背負って、急がず、堂々と。
その印象が、菅野の中で少し引っかかった。
酔った女性を介抱している男の歩き方は、もう少し不安定なはずだった。相手の重みに引っ張られて、バランスを取りながら歩く。それが普通だった。しかし藤田が描写した男は、落ち着いていて、堂々としていた。
菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。
電話を切った後、菅野はしばらく動かなかった。
荷物を運んでいるような足取り。
それが何を意味するのか。
眠っている、あるいは酔っている女性を背負うとき、人間は慎重になる。相手が動かないように、落とさないように。そういう緊張が、歩き方に出る。
しかし藤田が見た男は、緊張していなかった。
緊張していなかった理由として、考えられることが二つあった。
一つは、慣れていた可能性。その状況に、何らかの形で慣れていた。
もう一つは、相手が既に動かない状態だった可能性。
菅野は二番目の可能性を考えた。
動かない状態。意識がない状態。あるいは、それ以上の状態。
ただ、藤田が見たのは夏の終わりだった。事件は十一月だった。
別の出来事だった。
それとも。
菅野は少し考えた。
夏の終わりに、翠は誰かに背負われていた。その後、貫井から「来なくていい」と言われた。藤田に最後の接触をした。礼香に言われた言葉を受け取った。湊人に拒絶した。そして十一月に、路地で発見された。
夏の終わりに背負われていた出来事と、十一月の事件は、繋がっているのか。それとも無関係なのか。
菅野にはまだ分からなかった。
ただ、藤田の証言を、最初に聞いたときよりも深く考える必要があった。
午後、菅野は柏木に電話した。
タイムカードの件ではなかった。別のことを確認したかった。
柏木は二回のコールで出た。
「新年おめでとうございます」と菅野は言った。
「おめでとうございます」柏木は言った。「まだ調査を続けているんですか」
「続けています。少し確認させてください。以前、事件当夜に路地で目撃した男のことを話してもらいましたね」
「はい」
「その男が路地から出てきたとき、何か抱えていたり、背負っていたりはしませんでしたか」
少しの間があった。
「いえ」と柏木は言った。「一人で歩いていました。何も持っていなかったと思います」
「確かですか」
「暗かったので、はっきりとは言えませんが。ただ、荷物を持っている様子ではなかったと思います」
「分かりました。ありがとうございます」
「何か、新しいことが分かりましたか」と柏木は訊いた。
「まだ確認中です」
「そうですか」柏木は少し間を置いた。「湊人さんが逮捕されても、まだ続けているんですね」
「はい」
「菅野さんは、湊人さんがやったとは思っていないんですか」
菅野は少し考えた。「確信が持てていない、というのが正確なところです」
「そうですか」柏木は言った。「あなたのような方が確信を持てないなら、何かあるんでしょうね」
菅野はその言葉を聞いた。
何かある。柏木はそう言った。
「お時間をいただいてありがとうございました」と菅野は言って電話を切った。
夜、ノートを開いた。
藤田の証言を書き直した。夏の終わり。夜の十一時から十一時半。若い男。背が高い。暗い色の上着。荷物を運んでいるような足取り。落ち着いていた。堂々としていた。
その下に書いた。「事件当夜との関連・不明」
さらに下に、小さく書いた。
「同一人物の可能性・排除できない」
書いてから、その行を見た。
排除できない、と書いた。
夏の出来事と十一月の事件を、同一人物が関わっている可能性。それは何を意味するのか。
汐里を背負って歩いていた男が、後に汐里を殺した男である可能性。
しかし夏の出来事が何だったのかは、まだ分からなかった。酔った汐里を介抱していた可能性も、まだ排除できなかった。
菅野はペンを置いた。
もう一つ、確認しなければならないことがあった。
汐里が夏の終わりから秋の初めにかけて、体調を崩したり、記憶が飛ぶような出来事があったりしなかったか。それを知っている人間が、いるかどうか。
礼香に訊けるかもしれなかった。あるいは貫井か。
菅野はノートに書いた。「汐里・夏の終わり・体調・記憶・礼香に確認」
その隣に、また書いた。
「柏木・タイムカード・確認・未了」
六度目だった。
菅野はその六文字を、少しの間見ていた。
年明けの最初の週が、始まっていた。




