表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
剥離する虚像
21/50

新年の棘

 年が明けた。

 菅野は元日を、自宅で過ごした。特別なことは何もしなかった。おせちも雑煮も作らなかった。コンビニで買った肉まんを食べながら、ノートを読み返した。

 一ヶ月半分の記録が、そこにあった。

 最初のページから順番に読んでいくと、自分がどこを見ていて、どこを見ていなかったかが分かった。捜査の記録というのは、同時に判断の記録でもあった。何を重視して、何を後回しにしたか。その選択の跡が、ノートには残っていた。

 「柏木・タイムカード・確認・未了」という項目が、五回繰り返されていた。

 菅野はその五行を、少しの間見ていた。

 同じ項目を五回書いて、五回先送りにした。状況のせいだと思っていた。優先順位のせいだと思っていた。しかし元日の静かな部屋で読み返すと、それが言い訳に見えた。

 ただ、言い訳だとしても、今この瞬間に確認できることではなかった。年始で会社は動いていない。藤田への電話も、三が日を過ぎてからの方がいいだろう。

 菅野はノートを閉じて、窓の外を見た。

 元日の空は晴れていた。冬の光が、薄く路面に落ちていた。


 四日、菅野は藤田に電話した。

 藤田は出た。声は落ち着いていた。年末に警察に出頭して、横領の件を話したという話を、年明けのメッセージで受け取っていた。

 「あけましておめでとうございます」と菅野は言った。

 「おめでとうございます」藤田は言った。「警察の件は、弁護士と相談しながら進めています」

 「大変な年明けになりましたね」

 「自分でやったことですから」藤田は短く言った。諦めではなく、受け入れの声だった。

 「一つだけ確認させてください」と菅野は言った。「以前、翠さんが誰かに背負われていく姿を見た、という話をされていましたね」

 「はい」

 「それはいつのことでしたか」

 藤田は少し考えた。「夏の終わりから秋の初めごろだったと思います。八月か、九月の頭か」

 「場所は」

 「店の近くの路地です。夜に、偶然通りかかったときに見ました」

 「時刻は」

 「夜の十一時か、十一時半ごろだったと思います」

 菅野はメモを取った。夏の終わりから秋の初め。夜の十一時から十一時半。店の近くの路地。

 「背負っていたのはどんな人物でしたか」と菅野は訊いた。

 「男性です。若い男性で、背が高かった。コートか何か、上着を着ていて、前を閉じていた。翠を背負って、しっかりした足取りで歩いていました」

 「顔は見えましたか」

 「後ろ姿でした。顔は見えていません」

 「翠さんの様子は」

 「ぐったりしていました。眠っているか、酔っているか。そういう状態に見えた」

 「あなたはそれを見て、どう思いましたか」

 「客と帰るところだと思いました」藤田は言った。「それで、諦めました。もう連絡するのをやめようと思った。その後も連絡してしまいましたが、あのとき諦めようとしたのは本当で」

 菅野はメモを取った。

 若い男性。背が高い。上着、前を閉じていた。しっかりした足取り。

 「上着の色は覚えていますか」

 「暗い色でした。紺か、グレーか」

 菅野のペンが、一瞬止まった。

 暗い色の上着。紺か、グレー。

 柏木が事件当夜に目撃したという「若い男」について、後から「暗い色の上着だったような気がする」と言っていた。

 ただし藤田が見たのは夏の終わりから秋の初め、事件は十一月だった。時期が違った。別の出来事だった。

 菅野はそれを確認した。「その出来事は、事件の夜ではなく、もっと前のことですね」

 「そうです。事件よりずっと前のことです」

 「分かりました」菅野は言った。「それから、その男のことを、もう少し詳しく思い出せますか。体格とか、歩き方とか」

 「体格は普通でした。ただ、背が高かった。それから」藤田は少し考えた。「歩き方が、妙に落ち着いていた。翠を背負っているのに、急いでいなくて。まるで、荷物を運んでいるような」

 「荷物を運んでいるような」

 「そう感じました。慌てていなかった。堂々としていた、という感じで」

 菅野はその表現を書き留めた。

 荷物を運んでいるような足取り。翠を背負って、急がず、堂々と。

 その印象が、菅野の中で少し引っかかった。

 酔った女性を介抱している男の歩き方は、もう少し不安定なはずだった。相手の重みに引っ張られて、バランスを取りながら歩く。それが普通だった。しかし藤田が描写した男は、落ち着いていて、堂々としていた。

 菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。


 電話を切った後、菅野はしばらく動かなかった。

 荷物を運んでいるような足取り。

 それが何を意味するのか。

 眠っている、あるいは酔っている女性を背負うとき、人間は慎重になる。相手が動かないように、落とさないように。そういう緊張が、歩き方に出る。

 しかし藤田が見た男は、緊張していなかった。

 緊張していなかった理由として、考えられることが二つあった。

 一つは、慣れていた可能性。その状況に、何らかの形で慣れていた。

 もう一つは、相手が既に動かない状態だった可能性。

 菅野は二番目の可能性を考えた。

 動かない状態。意識がない状態。あるいは、それ以上の状態。

 ただ、藤田が見たのは夏の終わりだった。事件は十一月だった。

 別の出来事だった。

 それとも。

 菅野は少し考えた。

 夏の終わりに、翠は誰かに背負われていた。その後、貫井から「来なくていい」と言われた。藤田に最後の接触をした。礼香に言われた言葉を受け取った。湊人に拒絶した。そして十一月に、路地で発見された。

 夏の終わりに背負われていた出来事と、十一月の事件は、繋がっているのか。それとも無関係なのか。

 菅野にはまだ分からなかった。

 ただ、藤田の証言を、最初に聞いたときよりも深く考える必要があった。


 午後、菅野は柏木に電話した。

 タイムカードの件ではなかった。別のことを確認したかった。

 柏木は二回のコールで出た。

 「新年おめでとうございます」と菅野は言った。

 「おめでとうございます」柏木は言った。「まだ調査を続けているんですか」

 「続けています。少し確認させてください。以前、事件当夜に路地で目撃した男のことを話してもらいましたね」

 「はい」

 「その男が路地から出てきたとき、何か抱えていたり、背負っていたりはしませんでしたか」

 少しの間があった。

 「いえ」と柏木は言った。「一人で歩いていました。何も持っていなかったと思います」

 「確かですか」

 「暗かったので、はっきりとは言えませんが。ただ、荷物を持っている様子ではなかったと思います」

 「分かりました。ありがとうございます」

 「何か、新しいことが分かりましたか」と柏木は訊いた。

 「まだ確認中です」

 「そうですか」柏木は少し間を置いた。「湊人さんが逮捕されても、まだ続けているんですね」

 「はい」

 「菅野さんは、湊人さんがやったとは思っていないんですか」

 菅野は少し考えた。「確信が持てていない、というのが正確なところです」

 「そうですか」柏木は言った。「あなたのような方が確信を持てないなら、何かあるんでしょうね」

 菅野はその言葉を聞いた。

 何かある。柏木はそう言った。

 「お時間をいただいてありがとうございました」と菅野は言って電話を切った。


 夜、ノートを開いた。

 藤田の証言を書き直した。夏の終わり。夜の十一時から十一時半。若い男。背が高い。暗い色の上着。荷物を運んでいるような足取り。落ち着いていた。堂々としていた。

 その下に書いた。「事件当夜との関連・不明」

 さらに下に、小さく書いた。

 「同一人物の可能性・排除できない」

 書いてから、その行を見た。

 排除できない、と書いた。

 夏の出来事と十一月の事件を、同一人物が関わっている可能性。それは何を意味するのか。

 汐里を背負って歩いていた男が、後に汐里を殺した男である可能性。

 しかし夏の出来事が何だったのかは、まだ分からなかった。酔った汐里を介抱していた可能性も、まだ排除できなかった。

 菅野はペンを置いた。

 もう一つ、確認しなければならないことがあった。

 汐里が夏の終わりから秋の初めにかけて、体調を崩したり、記憶が飛ぶような出来事があったりしなかったか。それを知っている人間が、いるかどうか。

 礼香に訊けるかもしれなかった。あるいは貫井か。

 菅野はノートに書いた。「汐里・夏の終わり・体調・記憶・礼香に確認」

 その隣に、また書いた。

 「柏木・タイムカード・確認・未了」

 六度目だった。

 菅野はその六文字を、少しの間見ていた。

 年明けの最初の週が、始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ