偽りの決着
岡崎湊人が逮捕されたのは、十二月二十五日だった。
クリスマスの朝だった。そのことに意味があるわけではなかったが、菅野の記憶にはその日付が刻まれた。朝のニュースで速報が流れて、菅野はキッチンでコーヒーを淹れながらそれを聞いた。
容疑は殺人。被疑者・岡崎湊人、二十四歳、建設作業員。
テレビの画面に、湊人が連行される映像が短く映った。菅野はそれを見た。
湊人の顔は、菅野が最後に会ったときよりさらに削れていた。ただ、俯いていなかった。カメラを避けることもなく、ただ前を向いて歩いていた。
菅野はコーヒーを持ったまま、テレビを消した。
遠藤から電話があったのは、午前十時だった。
「逮捕しました」と遠藤は言った。
「ニュースで見ました」
「菅野さんの協力に感謝します。いくつかの情報は、捜査に役立ちました」
「まだ確信が持てていません」と菅野は言った。
遠藤は少し間を置いた。「菅野さんが言っていた、顔を整えた件ですか」
「それも含めて」
「捜査の中でも、その点は議論になりました」遠藤は言った。「ただ、総合的な判断として、湊人の関与を示す証拠の重みが上回りました」
「スマートフォンの通信記録の件は」
「十一時四十分のメッセージ、既読がついていました。湊人のスマートフォンで読まれています。位置情報は、現場から二百メートル以内の範囲です」
菅野は黙った。
二百メートル以内。十一時四十分。汐里が生きていて、スマートフォンを持っていた時刻。そしてその後、スマートフォンは消えた。
「湊人は何と言っていますか」
「メッセージを受け取ったことは認めました。ただ、そのまま帰宅したと言っています。会いに行っていないと」
「メッセージの内容は」
遠藤は少し間を置いた。「公開できませんが、助けを求める内容ではありませんでした。それだけは言えます」
助けを求める内容ではなかった。
菅野はそれを頭の中で繰り返した。助けを求めていない。ならば何を伝えようとしていたのか。
「ありがとうございます」と菅野は言って電話を切った。
午後、菅野は柏木のタイムカードを確認しようとした。
年内に確認すると決めていた。今日は二十五日。年内まであと六日だった。
柏木の会社に電話を入れようとして、スマートフォンを持った。
そのとき、竹内フミからの着信が来た。
「逮捕のニュースを見ました」と竹内は言った。「これで、終わりなんでしょうか」
「裁判が続きます。終わりではないです」
「あなたの調査は」
菅野は少し考えた。「続けさせてください。もう少しだけ」
竹内は「分かりました」と言った。「ただ、あなたに無理をさせることになるのは」
「依頼人の意向に従います。ただ、私個人としても、確認したいことが残っています」
「確認したいこと」
「まだ形になっていないことです。形になったら、報告します」
電話を切った。
スマートフォンを持ち直して、柏木の会社の番号を調べた。電話をかけようとして、止まった。
年末の、クリスマスの昼過ぎだった。会社が動いているかどうか分からなかった。タイムカードの管理担当者が、この時間にいるかどうかも分からなかった。
菅野は電話をかけなかった。
年明けに、改めて確認することにした。
そう決めて、スマートフォンを置いた。
夜、菅野は繁華街を歩いた。
目的はなかった。ただ、湊人が逮捕された日に、部屋の中にいることができなかった。
路地の前を通った。
規制線はとっくに撤去されていた。年の瀬の人出で、繁華街は普通ににぎわっていた。誰もここで何があったかを知らないように歩いていた。あるいは知っていても、立ち止まる理由を持たないように。
菅野は路地の入口で足を止めた。
一ヶ月半が経っていた。朝倉汐里が発見されてから、一ヶ月半。
その間に分かったことを、菅野は頭の中で並べた。
汐里の過去。両親の失踪。負債。風俗の仕事。翠という名前とエメラルドの髪。来年の春の計画。隣県の遠い縁戚。詩集を読んでいた図書室。卒業式の前日に春を考えていた十八歳。笑い方が不器用だった、静かな声の女。
そして、整えられた顔。
菅野はそこで止まった。
整えられた顔が、まだ決着していなかった。湊人が逮捕されても、その問いは消えなかった。
湊人があの顔を整えたとすれば、なぜそうしたのか。身体を損傷させながら、顔だけを丁寧に整えた。その矛盾した行為が、同一の人間の同一の夜の行為として、まだ菅野の中では繋がらなかった。
ただ、菅野の感覚が間違っている可能性もあった。
顔を整えた理由などというものは、あとから論理的に説明できる種類のものではないかもしれなかった。人間の行動は、常に合理的ではない。特に、激しい感情の後では。
菅野はそれを知っていた。
知っていながら、納得できなかった。
剃刀のような、という表現が菅野の中に浮かんだ。違和感が、剃刀のように細くて鋭くて、触れると切れる。しかし触れなければ気づかない。
その感覚が、湊人の逮捕によって消えるかと思っていた。
消えなかった。
帰り道、菅野はふと、藤田が言っていた言葉を思い出した。
九月三日の、最後の接触の話ではなかった。それより前の、汐里を店の外で見かけたという話だった。
菅野の記憶の中を探ると、藤田はこう言っていた。
「幸せそうに背負われていく姿を見た」
菅野はその場で立ち止まった。
背負われていく姿。
菅野はその言葉を、最初に聞いたとき、それほど深く考えなかった。酔った客に介抱されていく姿、そういう意味に受け取っていた。
ただ、今夜その言葉が戻ってきたとき、菅野は別のことを考えた。
藤田がそれを見たのは、いつのことだったか。
菅野は記憶を遡った。藤田は「最後に外で会った」のが九月三日だと言っていた。その前に、外で姿を見かけたことがある、という話をしていたはずだった。
詳しく確認していなかった。
菅野はスマートフォンを出して、藤田の番号を見た。夜の十時を過ぎていた。電話をかける時間ではなかった。
明日、確認しようと思った。
「背負われていく姿」が、いつのことで、誰に背負われていたのか。
それが分かれば、何かが変わるかもしれなかった。
あるいは、何も変わらないかもしれなかった。
菅野は歩き始めた。
年の瀬の風が、路地から吹いてきた。
自宅に戻って、ノートを開いた。
最後のページに、菅野は一行だけ書いた。
「藤田・背負われていく姿・時期と相手を確認」
その下に、もう一行。
「柏木・タイムカード・確認・未了」
五度目だった。
同じ言葉を、五度書いていた。
菅野はペンを置いて、その二行を見た。
一方は今夜気づいた新しい疑問で、もう一方は一ヶ月近く放置している未確認事項だった。
二つが同じページに並んでいた。
菅野はノートを閉じた。
年が変わる前に、両方を確認しなければならなかった。
湊人は逮捕された。しかし菅野の仕事は、まだ終わっていなかった。
窓の外で、師走の風が鳴っていた。




