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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
剥離する虚像
22/50

夏の空白

 礼香に電話したのは、五日の午前中だった。

 年明けの、まだ静かな時間帯だった。礼香は起きていた。貫井の件が警察に知れて、店の営業が止まっているという話を、年末のうちに聞いていた。

 「仕事はどうしていますか」と菅野は最初に訊いた。

 「別のところを探しています」礼香は言った。乾いた声だった。「とりあえず、年明けから動こうと思って」

 「大変な年末でしたね」

 「まあ」礼香は短く言った。「貫井さんのことは、なんとなく分かっていました。経営が苦しそうなのは、見ていれば分かるので」

 「一つだけ確認させてください」と菅野は言った。「翠さんが店に来なくなる前、夏の終わりから秋の初めごろの話です。翠さんの様子で、何か気になることはありましたか」

 礼香は少し間を置いた。「どういう意味ですか」

 「体調を崩していたとか、記憶が曖昧になっていたとか、そういうことがなかったかということです」

 また間があった。今度は少し長かった。

 「一度だけ」と礼香は言った。「あったかもしれない」

 「教えてもらえますか」

 「八月の終わりごろだったと思います。翠が仕事に来て、途中で具合が悪くなったことがあって」礼香は言った。「最初は酔ったのかと思ったんですが、翠はほとんど飲まないので。顔色が悪くて、ふらふらしていて」

 「その夜、どうなりましたか」

 「貫井さんに連絡して、早めに上がらせてもらうことになって。客の一人が、送っていくと言い出して」

 菅野はペンを止めた。「客が送っていった」

 「はい。指名が多かった常連の方で。翠のことを心配して、自分が送ると言って」

 「その客というのは、どんな人物でしたか」

 「若い男性でした。背が高くて、真面目そうな感じで。翠の指名客の中では、おとなしい方で。いつも長い時間いるわけじゃなくて、短い時間だけ来て帰るような」礼香は言った。「名前は源氏名しか知らないけど」

 「源氏名で構いません」

 「京ちゃん、と呼ばれていました。本人がそう名乗っていたので」

 菅野のペンが、また止まった。

 京。

 柏木京介の、京。

 菅野は少し呼吸を整えた。偶然かもしれなかった。源氏名は本名から取ることが多いが、同じ読みの名前を持つ男は他にもいる。

 「その客の外見を、もう少し詳しく教えてもらえますか」と菅野は言った。声が変わらないように、注意した。

 「背が高くて、細身で、顔が整っていた。二十代前半くらいに見えた。いつも清潔な感じで、言葉遣いが丁寧で」礼香は言った。「翠の客の中では、浮いていたかもしれない。なんか、場違いな感じがして」

 背が高い。細身。顔が整っている。二十代前半。清潔な印象。丁寧な言葉遣い。

 菅野は書き留めながら、その描写が誰に重なるかを考えないようにした。考えないようにしながら、考えていた。

 「その客が翠さんを送っていった後、翠さんから何か聞きましたか」と菅野は訊いた。

 「翌日、来たときに少し話しました。ちゃんと家まで送ってもらったと言っていました。それだけで、詳しくは話してくれなかった」

 「その後も、その客は来ていましたか」

 「来ていました。ただ、翠が来なくなってからは、見ていないです」

 「翠さんが来なくなったのと、ほぼ同時期ですか」

 「そうだったと思います」礼香は少し考えた。「翠がいなくなってから、その客も来なくなった。だから、なんとなく覚えていて」

 菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。


 しばらく、動かなかった。

 京ちゃん。背が高い。細身。顔が整っている。二十代前半。清潔な印象。丁寧な言葉遣い。翠がいなくなると同時に来なくなった。

 八月の終わり、具合が悪くなった翠を、その客が送っていった。

 藤田が見たのは、夏の終わりから秋の初め、夜の十一時から十一時半ごろ、店の近くの路地で、若い男が翠を背負って歩いていた姿だった。

 時期が重なっていた。

 菅野は深呼吸した。

 重なっている、という事実と、同一人物である、という結論は、別のことだった。焦ってはいけなかった。

 ただ、今確認しなければならないことが、いくつかあった。

 一つ。柏木京介が、貫井の店の客だったかどうか。

 二つ。柏木が翠と面識があったかどうか。

 三つ。タイムカードの件。

 菅野はノートを開いた。

 「柏木・タイムカード・確認・未了」という項目の横に、新しく書き加えた。

 「柏木・翠の客・京ちゃん・要確認」

 書いてから、少し考えた。

 これを確認する方法はいくつかあった。直接柏木に訊く。貫井に訊く。あるいは、礼香に写真を見せて確認してもらう。

 ただ、直接柏木に訊くことは、今の段階では慎重にしなければならなかった。

 菅野は貫井に電話した。


 貫井は出た。

 「お聞きしたいことがあります」と菅野は言った。「店に、京ちゃんと名乗る常連客がいましたか」

 少しの間があった。

 「いました」と貫井は言った。「翠の指名客で、二十代前半の男です」

 「本名は分かりますか」

 「源氏名しか知らない。こっちもそれ以上は訊かないので」

 「外見を教えてもらえますか」

 「背が高くて、大人しい感じの男です。指名はしていたが、あまり長居しない客で。お金は払いが良かった」

 「最後にいつ来ましたか」

 「翠が来なくなってから、見ていない。九月か十月ごろが最後だったと思います」

 菅野はメモを取った。「その客が、八月の終わりごろに、具合が悪くなった翠を送っていったことがありますか」

 「ありました」貫井は少し間を置いた。「あのとき、翠がどうなったのか心配だったが、翌日来たから安心した」

 「その夜の時刻を覚えていますか」

 「十時か、十一時ごろだったと思います。はっきりとは」

 「分かりました」菅野は言った。「ありがとうございます」

 「何か、分かったんですか」と貫井は訊いた。

 「まだ確認中です」

 電話を切った。


 菅野は席に座ったまま、長い時間をかけて考えた。

 柏木京介が、翠の客だった可能性が出てきた。

 貫井も礼香も、「京ちゃん」という源氏名しか知らなかった。外見の描写は、柏木と一致していた。ただし、外見が一致しているだけでは同一人物とは言えなかった。

 菅野は写真を持っていなかった。柏木の顔を礼香や貫井に確認してもらうには、何らかの形で写真を入手する必要があった。

 それとも、直接柏木に訊くか。

 翠の客でしたか、と。

 菅野はその問いを頭の中で作った。

 もし柏木が客だったとすれば、菅野に対して一度もそのことを話していなかったことになる。翠が死んだことを知りながら、自分が客だったことを隠していたことになる。

 それはなぜか。

 疑われることを恐れたから、という理由は考えられた。翠の客だったと知られれば、捜査の対象になる可能性がある。だから話さなかった。

 ただ、柏木は自分から菅野に近づいてきた。名刺を受け取り、連絡をしてきた。目撃情報を提供してきた。それは、疑われることを恐れている人間の行動とは、少し違うように見えた。

 菅野は考えを止めた。

 今の段階では、まだ確認が足りなかった。

 写真を入手して、礼香と貫井に確認してもらう。それが先だった。

 菅野はスマートフォンを出して、柏木の会社のウェブサイトを検索した。社員の顔写真が掲載されているかもしれなかった。

 会社のサイトを開いた。小規模な会社だった。スタッフ紹介のページがあった。

 柏木京介の名前と、顔写真があった。

 菅野はその写真を保存した。


 午後、菅野は礼香に再度電話した。

 「先ほどの京ちゃんという客の写真があります。確認してもらえますか」

 礼香は少し驚いた様子だったが、「送ってください」と言った。

 菅野は写真をメッセージで送った。

 返信まで、五分ほどかかった。

 「この人です」と礼香は書いてきた。「間違いない」

 菅野はその返信を見た。

 間違いない。

 柏木京介は、翠の客だった。

 そして翠が来なくなると同時に、店に来なくなった。

 菅野はノートを開いて、新しいページに書いた。

 「柏木京介・翠の指名客・確認済」

 「八月末・翠を背負って送った・藤田の目撃と合致する可能性」

 「翠との関係・菅野に対して隠していた」

 三行を書いて、ペンを置いた。

 窓の外は曇っていた。一月の光が薄かった。

 菅野は長い間、その三行を見ていた。

 剃刀のような違和感が、少しずつ形を持ち始めていた。

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