夏の空白
礼香に電話したのは、五日の午前中だった。
年明けの、まだ静かな時間帯だった。礼香は起きていた。貫井の件が警察に知れて、店の営業が止まっているという話を、年末のうちに聞いていた。
「仕事はどうしていますか」と菅野は最初に訊いた。
「別のところを探しています」礼香は言った。乾いた声だった。「とりあえず、年明けから動こうと思って」
「大変な年末でしたね」
「まあ」礼香は短く言った。「貫井さんのことは、なんとなく分かっていました。経営が苦しそうなのは、見ていれば分かるので」
「一つだけ確認させてください」と菅野は言った。「翠さんが店に来なくなる前、夏の終わりから秋の初めごろの話です。翠さんの様子で、何か気になることはありましたか」
礼香は少し間を置いた。「どういう意味ですか」
「体調を崩していたとか、記憶が曖昧になっていたとか、そういうことがなかったかということです」
また間があった。今度は少し長かった。
「一度だけ」と礼香は言った。「あったかもしれない」
「教えてもらえますか」
「八月の終わりごろだったと思います。翠が仕事に来て、途中で具合が悪くなったことがあって」礼香は言った。「最初は酔ったのかと思ったんですが、翠はほとんど飲まないので。顔色が悪くて、ふらふらしていて」
「その夜、どうなりましたか」
「貫井さんに連絡して、早めに上がらせてもらうことになって。客の一人が、送っていくと言い出して」
菅野はペンを止めた。「客が送っていった」
「はい。指名が多かった常連の方で。翠のことを心配して、自分が送ると言って」
「その客というのは、どんな人物でしたか」
「若い男性でした。背が高くて、真面目そうな感じで。翠の指名客の中では、おとなしい方で。いつも長い時間いるわけじゃなくて、短い時間だけ来て帰るような」礼香は言った。「名前は源氏名しか知らないけど」
「源氏名で構いません」
「京ちゃん、と呼ばれていました。本人がそう名乗っていたので」
菅野のペンが、また止まった。
京。
柏木京介の、京。
菅野は少し呼吸を整えた。偶然かもしれなかった。源氏名は本名から取ることが多いが、同じ読みの名前を持つ男は他にもいる。
「その客の外見を、もう少し詳しく教えてもらえますか」と菅野は言った。声が変わらないように、注意した。
「背が高くて、細身で、顔が整っていた。二十代前半くらいに見えた。いつも清潔な感じで、言葉遣いが丁寧で」礼香は言った。「翠の客の中では、浮いていたかもしれない。なんか、場違いな感じがして」
背が高い。細身。顔が整っている。二十代前半。清潔な印象。丁寧な言葉遣い。
菅野は書き留めながら、その描写が誰に重なるかを考えないようにした。考えないようにしながら、考えていた。
「その客が翠さんを送っていった後、翠さんから何か聞きましたか」と菅野は訊いた。
「翌日、来たときに少し話しました。ちゃんと家まで送ってもらったと言っていました。それだけで、詳しくは話してくれなかった」
「その後も、その客は来ていましたか」
「来ていました。ただ、翠が来なくなってからは、見ていないです」
「翠さんが来なくなったのと、ほぼ同時期ですか」
「そうだったと思います」礼香は少し考えた。「翠がいなくなってから、その客も来なくなった。だから、なんとなく覚えていて」
菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。
しばらく、動かなかった。
京ちゃん。背が高い。細身。顔が整っている。二十代前半。清潔な印象。丁寧な言葉遣い。翠がいなくなると同時に来なくなった。
八月の終わり、具合が悪くなった翠を、その客が送っていった。
藤田が見たのは、夏の終わりから秋の初め、夜の十一時から十一時半ごろ、店の近くの路地で、若い男が翠を背負って歩いていた姿だった。
時期が重なっていた。
菅野は深呼吸した。
重なっている、という事実と、同一人物である、という結論は、別のことだった。焦ってはいけなかった。
ただ、今確認しなければならないことが、いくつかあった。
一つ。柏木京介が、貫井の店の客だったかどうか。
二つ。柏木が翠と面識があったかどうか。
三つ。タイムカードの件。
菅野はノートを開いた。
「柏木・タイムカード・確認・未了」という項目の横に、新しく書き加えた。
「柏木・翠の客・京ちゃん・要確認」
書いてから、少し考えた。
これを確認する方法はいくつかあった。直接柏木に訊く。貫井に訊く。あるいは、礼香に写真を見せて確認してもらう。
ただ、直接柏木に訊くことは、今の段階では慎重にしなければならなかった。
菅野は貫井に電話した。
貫井は出た。
「お聞きしたいことがあります」と菅野は言った。「店に、京ちゃんと名乗る常連客がいましたか」
少しの間があった。
「いました」と貫井は言った。「翠の指名客で、二十代前半の男です」
「本名は分かりますか」
「源氏名しか知らない。こっちもそれ以上は訊かないので」
「外見を教えてもらえますか」
「背が高くて、大人しい感じの男です。指名はしていたが、あまり長居しない客で。お金は払いが良かった」
「最後にいつ来ましたか」
「翠が来なくなってから、見ていない。九月か十月ごろが最後だったと思います」
菅野はメモを取った。「その客が、八月の終わりごろに、具合が悪くなった翠を送っていったことがありますか」
「ありました」貫井は少し間を置いた。「あのとき、翠がどうなったのか心配だったが、翌日来たから安心した」
「その夜の時刻を覚えていますか」
「十時か、十一時ごろだったと思います。はっきりとは」
「分かりました」菅野は言った。「ありがとうございます」
「何か、分かったんですか」と貫井は訊いた。
「まだ確認中です」
電話を切った。
菅野は席に座ったまま、長い時間をかけて考えた。
柏木京介が、翠の客だった可能性が出てきた。
貫井も礼香も、「京ちゃん」という源氏名しか知らなかった。外見の描写は、柏木と一致していた。ただし、外見が一致しているだけでは同一人物とは言えなかった。
菅野は写真を持っていなかった。柏木の顔を礼香や貫井に確認してもらうには、何らかの形で写真を入手する必要があった。
それとも、直接柏木に訊くか。
翠の客でしたか、と。
菅野はその問いを頭の中で作った。
もし柏木が客だったとすれば、菅野に対して一度もそのことを話していなかったことになる。翠が死んだことを知りながら、自分が客だったことを隠していたことになる。
それはなぜか。
疑われることを恐れたから、という理由は考えられた。翠の客だったと知られれば、捜査の対象になる可能性がある。だから話さなかった。
ただ、柏木は自分から菅野に近づいてきた。名刺を受け取り、連絡をしてきた。目撃情報を提供してきた。それは、疑われることを恐れている人間の行動とは、少し違うように見えた。
菅野は考えを止めた。
今の段階では、まだ確認が足りなかった。
写真を入手して、礼香と貫井に確認してもらう。それが先だった。
菅野はスマートフォンを出して、柏木の会社のウェブサイトを検索した。社員の顔写真が掲載されているかもしれなかった。
会社のサイトを開いた。小規模な会社だった。スタッフ紹介のページがあった。
柏木京介の名前と、顔写真があった。
菅野はその写真を保存した。
午後、菅野は礼香に再度電話した。
「先ほどの京ちゃんという客の写真があります。確認してもらえますか」
礼香は少し驚いた様子だったが、「送ってください」と言った。
菅野は写真をメッセージで送った。
返信まで、五分ほどかかった。
「この人です」と礼香は書いてきた。「間違いない」
菅野はその返信を見た。
間違いない。
柏木京介は、翠の客だった。
そして翠が来なくなると同時に、店に来なくなった。
菅野はノートを開いて、新しいページに書いた。
「柏木京介・翠の指名客・確認済」
「八月末・翠を背負って送った・藤田の目撃と合致する可能性」
「翠との関係・菅野に対して隠していた」
三行を書いて、ペンを置いた。
窓の外は曇っていた。一月の光が薄かった。
菅野は長い間、その三行を見ていた。
剃刀のような違和感が、少しずつ形を持ち始めていた。




