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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
聖者の破片
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収束する疑い

 十二月の第三週、捜査の重心が岡崎湊人に向かって明確に傾いた。

 遠藤から連絡があったのは、月曜日の朝だった。

 「新しい証言が出ました」と遠藤は言った。「事件当夜、現場近くで湊人と汐里が言い合っていた後、汐里が立ち去り、その後も湊人がしばらくその場に留まっていたという目撃証言です」

 「しばらく、というのはどのくらいですか」

 「十分から十五分ほど。それからゆっくり歩いて、汐里が向かった方向へ進んだというんです」

 菅野はメモを取った。「目撃者は」

 「近くのマンションの住人です。窓から見ていた。複数人から似た証言が出ています」

 湊人は「先に立ち去った」と言っていた。しかし目撃証言では、汐里が先に立ち去り、湊人がその後を追う形になっていた。

 「湊人本人に確認しましたか」と菅野は訊いた。

 「しています。本人は記憶が曖昧だと言っています。ただ、説明がつかない部分が増えてきている」

 菅野は電話を切ってから、しばらく窓の外を見ていた。

 湊人が汐里の後を追った。そうだとすれば、汐里の最後の時間に、湊人が関わっていた可能性は高くなる。

 ただ、追ったことと、殺したことは別だった。

 それを遠藤に言うことは、今の菅野にはできなかった。根拠がなかった。


 午前中、菅野は汐里の高校の担任だった教師に、もう一度電話した。

 今回は別のことを訊きたかった。

 「高校時代の汐里さんについて、もう少し教えてもらえますか」と菅野は言った。「特に、彼女が好きだったものや、大切にしていたことを」

 教師は少し考えた。「好きなもの、ですか」

 「何でも構いません」

 「図書室によく来ていました」と教師は言った。「昼休みも、放課後も。本を読むというより、静かな場所にいたかったのかもしれないけれど」

 「何か読んでいましたか」

 「詩集を借りることが多かったと、司書の先生から聞きました。現代詩の、あまり有名ではないような詩人の本を。私には分からない分野で」

 菅野はメモを取った。詩集。静かな場所。

 「色へのこだわりはありましたか。特定の色が好き、とか」

 「ありましたね」教師は少し間を置いた。「制服のリボンを、規定の色ではなく緑色のものに変えて来たことがあって、一度注意したことがありました。そのときに、この色が好きなんです、と言って。反省している様子ではなかったけれど、悪びれているわけでもなくて。ただ、好きだから、という感じで」

 緑色。エメラルドグリーン。翠という源氏名。それらが一本の線で繋がった。

 汐里にとって、その色は高校時代からすでに大切なものだった。

 「それ以外に、何か覚えていることはありますか」

 「卒業式の前日に、一人で教室に残って窓の外を見ていたことがあります。声をかけたら、春になったら何をしようか考えていました、と言って。笑っていました。あの子が自然に笑うのを見たのは、そのときが最後だったかもしれない」

 菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。

 春になったら何をしようか。

 汐里は高校の卒業前日に、春を考えていた。そして二十三歳の十月に、来年の春に引っ越すつもりだと書いていた。

 七年間を経て、また春を目標にしていた。

 その春は来なかった。


 午後、菅野は竹内フミのところへ報告に行った。

 定期的な報告の義務があった。竹内は菅野を迎えて、お茶を出した。

 「捜査の方向は、岡崎さんの方に向いているようですね」と竹内は言った。ニュースで見たのだろう。

 「そういう状況です」と菅野は答えた。

 「あなたはどう思いますか」

 菅野は少し考えた。依頼人に対して、どこまで話すべきか。

 「まだ確信が持てていません」と菅野は言った。「警察の判断は、証拠と証言に基づいていて、それは正しい手続きです。ただ、私の中にはまだ疑問が残っています」

 「どんな疑問ですか」

 「現場の状況についてです。被害者の顔が整えられていた点について、岡崎さんがそれをする理由が、まだ私には見えていない」

 竹内は静かに聞いていた。

 「顔を整えた人間は、彼女の顔を知っていた人間だと思います」菅野は続けた。「ただの知り合いではなく、彼女の顔に意味を見ていた人間が。岡崎さんは彼女を幼馴染として知っていた。顔を知っていた、という点では当てはまります。ただ」

 「ただ」

 「幼馴染が顔を整えるとすれば、それは彼女への愛情から来るように思えます。しかし同時に、身体を損傷させている。その二つが、同じ人間の同じ夜の行為として、私にはまだ繋がらないんです」

 竹内はお茶を持ったまま、少し考えた。「それは、警察に話しましたか」

 「話しました。ただ、私の感覚に過ぎないと言われました。それは正しい指摘です」

 「でも、あなたは諦めていない」

 「諦めたくないと思っています」菅野は言った。「ただ、確信を持てないまま動くことの危険も知っています」

 竹内はお茶を置いた。「続けてください」と彼女は言った。「あなたが諦めないでいてくれることが、私の依頼の中身ですから」


 夜、菅野はノートを広げて、柏木について書いた項目を見返した。

 タイムカード。打刻。誰からも見えない席。打刻の瞬間を目で確認した人間がいない可能性。

 菅野はその項目を見ながら、少し考えた。

 確認すべき事項として書き留めたまま、深追いしていなかった。なぜしなかったのか。

 柏木を疑う理由がなかったから、というのが菅野の答えだった。

 それは正しい判断か。

 菅野は少しの間、そこで止まった。

 疑う理由がない、という状態と、疑わない理由がある、という状態は、似ているが違う。菅野は今、どちらの状態にあるのか。

 柏木の孤独に同情していた。それは事実だった。窓際の死角。誰にも頼まれすぎている男。毎晩遅くまで残る男。その孤独に、菅野は自分の過去を重ねていた。

 同情が判断を曇らせている可能性。

 菅野はそこまで考えて、一度ペンを置いた。

 ただ、柏木を疑う具体的な材料が何もなかった。タイムカードの件は、誰でも条件が揃えば言えることだった。確認できていないという事実は、疑いの根拠にはならなかった。

 菅野はペンを取って、その項目の横に小さく書いた。

 「確認・未了」

 それだけ書いて、ノートを閉じた。

 窓の外で、十二月の風が鳴っていた。

 明日、遠藤に連絡を入れて、湊人の件の続報を確認するつもりだった。

 そして、貫井の四十分の空白についても、もう少し掘り下げたかった。

 捜査の重心が湊人に傾いている今だからこそ、それ以外の方向を見続けることが、菅野にできる唯一のことだった。

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