善人の輪郭
遠藤に連絡を入れたのは、翌朝の九時だった。
「湊人の件、続報はありますか」と菅野は訊いた。
「昨日、改めて事情聴取しました」と遠藤は言った。「本人は依然として否認しています。ただ、汐里が立ち去った後もその場に留まっていた点については、記憶が曖昧だったと認めました」
「記憶が曖昧、というのは」
「言い合いが激しくて、その直後の行動を正確に覚えていない、という説明です。それ自体はあり得る話ですが」
「ただし、証言が変わったことには変わりない」
「そういうことです」遠藤は言った。「逮捕状の請求は、年内に動く可能性があります」
菅野は「分かりました」と言って電話を切った。
年内。あと二週間もなかった。
午前中、菅野は独自の調査を進めた。
貫井の四十分の空白について、コンビニの周辺を当たることにした。防犯カメラの映像は警察が押さえているが、周辺の目撃者については、菅野が独自に確認できる余地があった。
貫井のビルからコンビニまでは、徒歩で五分ほどの距離だった。その周辺を歩きながら、菅野は店や施設を確認した。
コンビニの隣に、小さな金融業者の事務所があった。看板は出ていたが、シャッターが下りていた。その隣に、中古品の買取店があった。
菅野は買取店に入った。
店主は五十代の男で、カウンターの中で雑誌を読んでいた。菅野が名刺を出して事情を話すと、雑誌を置いて話を聞いた。
「一ヶ月ほど前の夜、十時前後に、この辺で見慣れない人物を見ましたか」と菅野は訊いた。
店主は少し考えた。「夜は店を閉めているので、外は見ていないことが多いですが」
「それ以前でも構いません。この周辺で、不審な動きをしている人間を見たことはありますか」
「不審というか」店主は少し口を開いた。「あの金融の事務所、最近閉まってるでしょう。その前に、何度か夜に人が出入りしているのを見たことがあって」
「どんな人間でしたか」
「一人は太った男で、もう一人は普通の体格だった。夜の十時、十一時ごろに出入りしていた。それ自体はおかしくないですが、なんか、こそこそしてる感じがして気になっていました」
「いつごろの話ですか」
「二ヶ月くらい前から、事件の前あたりまでだったと思います。事件の後は見ていない」
菅野はメモを取った。太った男。普通の体格。夜の出入り。事件の前まで。
「太った男というのは、どのくらいの年齢に見えましたか」
「四十代か五十代か。暗かったのではっきりとは」
貫井は四十代後半だった。体格は、太った、という表現が当てはまるかどうか微妙なところだったが、腹のあたりが崩れていた。
菅野はそれ以上の確認を取ることができなかった。目撃者の記憶は断片的で、断定するには材料が足りなかった。
ただ、記録した。
昼過ぎ、菅野は湊人のアパートに向かった。
今回は湊人の状態を確認したかった。任意同行が続き、証言の矛盾を追及されている男が、今どういう状態にあるのか。
ドアを開けた湊人は、前回よりさらに削れていた。頬が落ち、目が落ち窪んでいた。ただ、立ち方はしっかりしていた。崩れていなかった。
「少しだけ時間をもらえますか」と菅野は言った。
湊人は菅野を部屋に上げた。
「汐里さんが立ち去った後、あなたがその場に留まっていたという証言が出ています」と菅野は言った。遠回しにする必要はないと判断した。
湊人は畳の上に座って、菅野を見た。
「知っています。昨日、聞かされました」
「事実ですか」
湊人は少し間を置いた。「分かりません。本当に、あの直後の記憶が曖昧で」
「なぜ曖昧なんですか」
「怒鳴り合った直後だったからです」湊人は言った。「汐里に背を向けられて、自分が何をしたのかという気持ちと、それでも彼女を追いかけたいという気持ちと、でも追いかけてはいけないという気持ちが、全部同時にあって。その場にどのくらいいたのか、その後どこに向かったのか、記憶がぶつ切りになっている」
「警察にはそう説明しましたか」
「しました。信じてもらえているかどうかは分かりませんが」
菅野は湊人の顔を見た。
嘘をついているようには見えなかった。ただ、嘘をついているように見えない人間が嘘をつくことを、菅野は知っていた。
「一つだけ訊かせてください」と菅野は言った。「あなたは汐里さんを、最後まで朝倉汐里と呼び続けた。翠でも、あの子でもなく。それはなぜですか」
湊人は少し目を細めた。
「他の名前で呼ぶ理由がないからです」湊人は言った。「彼女は朝倉汐里です。俺にとっては、ずっとそれだけです」
「翠という名前を、どう思っていましたか」
「知りませんでした。最初は」湊人は言った。「彼女が南区にいることを知って、会いに行って、初めてそういう仕事をしていると分かった。翠という名前も、そのときに知った」
「知ったとき、どう感じましたか」
湊人はしばらく黙っていた。
「怒りました」と彼は最終的に言った。「ただ、誰に怒ればいいのか分からなかった。彼女に怒ることはできなかった。だから、ただ怒っていた」
菅野はその言葉を書き留めなかった。
書き留めるべき種類の言葉ではなかった。
夕方、菅野は繁華街を歩きながら、この二週間で集めた情報を頭の中で整理した。
湊人への疑いは深まっていた。証拠と証言がそちらを向いていた。
貫井には四十分の空白があり、名前を出せない知人がいた。売上保証型の保険があった。金融業者の事務所への不審な出入りの可能性があった。
藤田は横領が発覚して、警察に話すことになっていた。事件当夜のアリバイは一人での自宅待機で、証明できなかった。
礼香は汐里への悪意を認めていた。事件当夜の行動については、まだ詳しく確認していなかった。
そして柏木。
菅野はそこで少し立ち止まった。
柏木については、ノートに「確認・未了」と書いたまま、それ以上動いていなかった。タイムカードの件を警察に確認するよう促すこともしていなかった。
なぜしなかったのか。
柏木を疑う理由がなかったから。
それは本当か。
菅野は歩きながら、自分に問いかけた。
柏木が事件と関わっている可能性を、菅野は一度でも真剣に検討したか。
していなかった。
同情が先にあった。孤独な青年への同情が、検討する前に結論を出していた。
菅野は足を止めた。
繁華街の人の流れが、菅野の周りを通り過ぎていった。
確認しなければならないことがあった。
ただ、今夜ではなかった。今夜は、湊人の件と貫井の件を整理する必要があった。
菅野は歩き始めた。
柏木のことは、明日以降に考えることにした。
それが正しい判断かどうか、菅野には分からなかった。




