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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
聖者の破片
15/50

空白の四十分

 貫井克己に四度目の訪問をしたのは、翌朝だった。

 今回は事前の連絡を入れなかった。

 ビルの呼び鈴を押すと、しばらくして貫井の声がした。「誰ですか」

 「菅野です」

 間があった。長い間だった。

 「今、人がいます」と貫井は言った。

 「少しだけ時間をいただけますか」

 また間があった。「下で待っていてください」

 エントランスの前で待った。十分ほどして、貫井が降りてきた。コートを羽織っていたが、前を閉じていなかった。急いで降りてきた様子だった。

 「立ち話で構いません」と菅野は言った。

 貫井は菅野を見た。目の下の隈が、前回より濃くなっていた。

 「事件当夜の件です」と菅野は言った。「コンビニに寄った際、四十分ほど空白があるということを、警察から伺いました」

 貫井の表情が、わずかに固くなった。

 「会った知人というのは、どういった方ですか」

 「個人的な関係の人間です」貫井は言った。「事件とは関係ない」

 「それでも、警察に名前を出せない理由が何かあるんですか」

 貫井は少し視線を外した。道路の向こう、遠い場所を見るような目だった。

 「出せない理由がある」と貫井は最終的に言った。「ただ、事件とは関係ない。それだけは本当のことです」

 「信じてほしければ、説明が必要です」

 「分かっています」貫井は言った。「ただ、今はまだ」

 菅野はそれ以上押さなかった。

 押せる段階ではなかった。貫井が何かを隠しているのは明らかだったが、それが事件に直結するものなのかどうか、この段階では判断できなかった。

 「一つだけ聞かせてください」と菅野は言った。「このビルに保険をかけていますか。火災保険以外に」

 貫井は菅野を見た。今度は視線を外さなかった。

 「なぜそれを」

 「以前、保険という言葉に反応されたので」

 貫井は少し黙った。風が吹いて、コートの前が揺れた。

 「かけています」と貫井は言った。「売上保証型の保険です。店が何らかの理由で営業できなくなった場合に、補填される種類の」

 「いつからですか」

 「今年の春から」

 「翠さんが辞める前後ですね」

 貫井は答えなかった。

 菅野は「ありがとうございます」と言って、その場を離れた。


 歩きながら、菅野は考えた。

 売上保証型の保険。今年の春から。翠が辞めた時期と重なっている。

 貫井の店が何らかの理由で営業できなくなれば、保険金が出る。その「何らかの理由」に、事件が絡んでいる可能性。

 ただ、それはまだ仮定の域を出なかった。売上保証型の保険を持っていることは、それ自体では何も意味しなかった。経営者が保険に入ることは珍しくなかった。

 ただ、四十分の空白と、名前を出せない知人と、保険という三点が重なると、輪郭のようなものが見えてくる。

 菅野はそれをノートに書き留めながら、まだ確信を持てなかった。


 午後、思いがけないことが起きた。

 藤田正彦から電話があった。

 「菅野さん、少し話せますか」と藤田は言った。声が前回より乾いていた。

 「どうぞ」

 「会社で、調査が入りました」藤田は言った。「経理の件です」

 横領が発覚した、ということだった。

 菅野は「そうでしたか」と言った。

 「近いうちに、警察の方に話すことになると思います。その前に、菅野さんに伝えておきたくて」

 「どうして私に」

 「あなたに話したことで、気持ちが少し楽になったので」藤田は言った。「隠していたことを誰かに話すと、少し楽になるものだと知らなかった」

 菅野は少し間を置いた。「警察に話すことは、正しい判断です」

 「ええ」藤田は言った。「翠のことも、全部話します。横領の件も。どうなるかは分かりませんが、隠し続けるよりはいい」

 「一つだけ確認させてください」と菅野は言った。「事件当夜、あなたはどこにいましたか」

 「自宅です。一人で」藤田は言った。「証明できる人間はいません。それは警察にも話しています」

 「その夜、外出しましたか」

 「しませんでした」

 「翠さんが、この街を出るつもりだということは知っていましたか」

 「九月三日に、少しそういう話を聞きました。だから、私はその後、連絡しなかった。出て行くなら、それでいいと思って」

 菅野は「ありがとうございます」と言った。

 「菅野さん」と藤田は電話を切る前に言った。「翠は、幸せになれましたか。この先」

 菅野は答えなかった。

 答えられなかった。

 「分かりません」と菅野は最終的に言った。

 藤田は「そうですね」と言って、電話を切った。


 夕方、菅野は繁華街を歩いていた。

 目的があったわけではなかった。ただ、現場の近くを歩くと、何かが整理されることが菅野にはあった。現場の空気を身体で感じながら考えると、机の上では気づかないことに気づくことがある。

 路地の入口を通り過ぎたとき、前方から人が来た。

 柏木だった。

 コートを着て、鞄を持っていた。仕事帰りの格好だった。菅野に気づいて、少し足を止めた。

 「こんばんは」と柏木は言った。

 「お帰りですか」

 「ええ、今日は少し早かったので」柏木は言った。七時を過ぎていた。早い、という感覚が、この男の日常を示していた。

 「少し話せますか」と菅野は言った。

 「はい」

 近くのコーヒースタンドに入った。持ち帰り用のカップを二つ買って、外の立ち飲みスペースで向かい合った。

 「事件当夜のことを、もう一度確認させてください」と菅野は言った。「九時半から十時の間に路地を通った、ということでしたね」

 「はい」

 「その前後、職場にいたんですか」

 「はい。その日は九時過ぎまで残業していました。退勤の記録も残っているはずです」

 「タイムカードか何かで」

 「はい。うちは打刻式のカードで管理しているので」柏木は言った。「正確な時刻が残っているはずです」

 菅野はメモを取った。

 打刻式のタイムカード。退勤時刻の記録。九時過ぎまで職場にいた。それが事実であれば、事件との関わりは物理的に難しい。

 「そのカードは、警察に確認してもらいましたか」と菅野は訊いた。

 「いえ、まだです。私は参考人として話を聞かれた程度で、詳しい調査は受けていないので」柏木は言った。「必要であれば、確認してもらえると思います」

 菅野は頷いた。

 「職場には、そのカードを誰かが確認していますか」

 「上の人間が確認しています。月末に集計するので」柏木は言った。「ただ、私の席は少し離れているので、実際に誰がどの時刻に打刻したかを目で見ている人間は、あまりいないかもしれないですが」

 菅野は「そうですか」と言って、コーヒーを飲んだ。

 柏木の席は誰からも見えない。打刻の瞬間を目で確認した人間がいない可能性がある。

 菅野はその事実を、ただの事実として記録した。

 疑いとして記録したわけではなかった。確認すべき事項として、書き留めた。ただそれだけだった。

 「寒くなりましたね」と柏木は言った。

 「そうですね」菅野は空を見た。雲が低く、星が見えなかった。「もうすぐ年末です」

 「早いですね」柏木は言った。「今年は、いろいろなことがありすぎて」

 「そうですね」

 柏木はコーヒーを飲み干して、「お邪魔しました」と言った。「気をつけて帰ってください」

 「あなたもどうぞ」

 柏木は軽く頭を下げて、人の流れに溶けていった。

 菅野はしばらくそこに立っていた。

 タイムカード。打刻。誰からも見えない席。………見えない席。

 もし仮に、死角から抜けるとしても、タイムカードを打つ方法が無い。

 それらを繋げて考えることを、菅野はしなかった。

 柏木を疑う理由が、今のところ何もなかった。

 それは事実だった。菅野はそう思った。

 コーヒーカップを捨てて、夜の街を歩き始めた。

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