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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
聖者の破片
12/50

翠という名前

 岡崎湊人が任意同行に応じたのは、十二月の第二週だった。

 逮捕ではなかった。少なくとも、この段階では。遠藤からの電話で菅野はそれを知った。「本人が応じました」と遠藤は言った。「弁護士を呼んで、話し合いをしています」

 「本人は否認していますか」

 「しています。ただ、証言の矛盾については、説明がつかない部分が残っていて」

 「分かりました」

 電話を切って、菅野はノートを開いた。

 湊人が任意同行に応じた。それは湊人が、自分の潔白を示そうとしているとも取れた。あるいは、応じざるを得ない状況に追い込まれたとも取れた。どちらかは、今の菅野には判断できなかった。

 菅野がこの段階でできることは、警察が動いている方向とは別の方向を、並行して確認し続けることだった。湊人が犯人である可能性を排除するわけではない。ただ、それ以外の可能性を閉じないでいることが、菅野の仕事だった。


 その日の午後、菅野は貫井のビルに三度目の訪問をした。

 今回は礼香にも話があった。貫井に連絡を入れると、「礼香も呼んでおく」と言った。

 ビルの三階、いつもの部屋に二人が座っていた。貫井はソファの中央に、礼香は端に、少し距離を置いて。二人の間の空気が、前回より硬くなっていた。何かあったのか、あるいは菅野が来ることで緊張が生まれているのか、判断できなかった。

 「岡崎さんが任意同行に応じたことは、ご存知ですか」と菅野は言った。

 貫井は頷いた。「ニュースで」

 礼香は窓の外を見ていた。

 「お二人に確認したいことがあります」菅野は続けた。「翠さんが、この仕事を始める前のことについて、何か聞いていましたか」

 貫井は少し考えた。「本人からは、ほとんど聞いていない。こっちも訊かない。それがうちのやり方で」

 「礼香さんは」

 礼香は窓から視線を戻した。「少しだけ聞いたことがあります」

 「どんなことを」

 「家族がいないって。親が蒸発したとか、そういうことを」礼香は平坦な声で言った。「酔ったときに、一度だけ話してくれて。翌日には何もなかったような顔をしてたけど」

 「酔ったとき、というのは」

 「仕事終わりに、何人かで飲んだことがあって。そのとき」礼香は少し間を置いた。「翠がそういう話をするのは、珍しかったです。いつもは何も話さなかったから」

 「他に何か話していましたか」

 礼香は少し考えた。「お金を貯めたいって。何のためかは言わなかったけど、とにかくお金が必要だって」

 「負債の返済でしょうか」

 「分かりません。訊かなかった」礼香は言った。「訊ける雰囲気じゃなかった。なんか、そこだけ触れちゃいけない感じがして」

 菅野はメモを取った。

 お金を貯めたい。何のために。両親が遺した負債の返済なのか、あるいは別の何かのためなのか。汐里が二十三歳になるまでの七年間に、負債がどうなっていたのかは、まだ確認できていなかった。

 「翠という名前は、本人が選んだんですか」と菅野は貫井に訊いた。

 「そうです。うちは本人に選ばせている」

 「なぜ翠を選んだか、聞きましたか」

 貫井は首を振った。「訊いていない」

 菅野は礼香を見た。礼香は少し首を傾けた。

 「一度だけ、訊いたことがあります」と礼香は言った。「なんとなく訊いたら、好きな色だから、と言っていました」

 「好きな色」

 「エメラルドグリーン。髪の色と同じで。その色が好きだから、翠にしたって」礼香は言った。「そのくらいのことしか話してくれなかった。それ以上は」

 菅野はその話を聞きながら、汐里が鏡に貼った金色の星のシールを思った。エメラルドグリーンと金色。どちらも、光を持つ色だった。

 それが何を意味するのか、菅野には分からなかった。ただ、意味があるような気がした。


 帰り際、エレベーターを待っていると、礼香が後ろから来た。

 貫井には聞こえない距離だった。

 「一つだけ、言っていいですか」と礼香は言った。声を少し低くしていた。

 「どうぞ」

 「岡崎さんが、やったとは思えないんです」礼香は言った。「会ったことはないけど、翠が昔話をするときに、その人のことが出てきたことがあって」

 「どんな話でしたか」

 「優しい人がいた、という話です。昔、そういう人がいたって。名前は言わなかったけど、たぶんその人のことだと思う」礼香は菅野を見た。「翠がそういう話をするのも、珍しかった。だから覚えていて」

 「それだけですか」

 「それだけです」礼香は言った。「証拠とか、そういうことじゃないのは分かってます。ただ、言っておきたくて」

 エレベーターが来た。礼香はそのまま踵を返して、部屋に戻っていった。

 菅野はエレベーターに乗りながら、礼香の言葉を考えた。

 優しい人がいた、と汐里は言っていた。それが湊人のことならば、汐里は湊人を完全に拒絶していたわけではなかったことになる。拒絶しながら、どこかに残していた。

 あの夜の言い合いが、汐里にとってどういう意味を持っていたのか。

 菅野には、まだ分からなかった。


 夜、自宅で藤田正彦に電話した。

 確認したいことがあった。藤田が最後に汐里と会った九月三日のことについて、もう少し詳しく聞いておきたかった。

 藤田は電話に出た。声は前回より少し落ち着いていた。あるいは、落ち着いたふりをしていたのかもしれなかった。

 「九月三日の件です」と菅野は言った。「会った場所はどこでしたか」

 「喫茶店です。彼女が指定した場所で」

 「彼女が指定した」

 「はい。私が会いたいと連絡して、彼女が場所を指定してきた。珍しかったです。いつもは私が決めていたので」

 「彼女の様子は、その日はどうでしたか」

 「疲れていました。ただ」藤田は少し間を置いた。「いつもと少し違う疲れ方をしていた」

 「どう違いましたか」

 「覚悟、というか。何かを決めた後のような顔でした。もう会いに来ないでくれ、と言ったときも、感情的じゃなかった。淡々としていた」

 菅野はそれを書き留めた。

 九月三日。何かを決めた後のような顔。淡々とした拒絶。

 汐里がその時点で何を決めていたのか。負債の返済に目処が立ったのか。あるいは別の何かなのか。

 「他に何か話しましたか」と菅野は訊いた。

 「少しだけ」藤田は言った。「これからどうするのか、と訊いたら、考えている、と言っていました。具体的なことは話してくれなかったけど、どこかに行くような話をしていた気がする」

 「どこかに行く」

 「はっきりとは言わなかったです。ただ、この街にいつまでもいるつもりはない、というような話を」藤田は言った。「それを聞いて、私は安心したんです。この街を出るなら、私と会うこともなくなる。それでいいと思った」

 「安心した」

 「彼女のためにも、私のためにも」藤田は少し沈黙した。「ただ、それが最後になるとは思っていなかった」

 菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。

 この街を出るつもりだった。

 汐里は、何かを終わらせようとしていた。貫井から切られ、藤田を断り、湊人を拒絶した。それらが同じ方向を向いていたとすれば、汐里は十一月の時点で、南区を離れる準備を進めていたのかもしれなかった。

 そうだとすれば、彼女を殺す理由を持つ人間は、その計画を知っていた人間か、あるいは知らずに彼女を失うことを恐れていた人間か。

 菅野はノートにそれを書いた。

 書いてから、少し考えて、その行に線を引いた。

 消したわけではなかった。ただ、まだ判断する段階ではないと思った。

 窓の外で、十二月の風が鳴っていた。

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