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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
聖者の破片
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死角の在処

 十二月の最初の週、菅野は柏木京介の職場を訪ねた。

 アポイントを取ったのは前日だった。柏木は「お昼休みであれば」と言った。十二時に、ビルのエントランスで待ち合わせた。

 菅野が着いたとき、柏木はすでにエントランスに立っていた。グレーのスーツ、白いシャツ、ネクタイは紺色だった。昼休みに会社の外に出るために、少し気を遣った格好をしているように見えた。あるいは、いつもそういう格好なのかもしれなかった。

 「わざわざすみません」と柏木は言った。

 「こちらこそ、お昼の時間をいただいて」

 近くのサンドイッチ店で話すつもりだったが、柏木が「社内の休憩スペースでよければ」と言った。「空いていると思うので」

 菅野は頷いた。

 エレベーターで七階に上がった。フロアに入ると、広いオフィスが広がっていた。昼休みの時間帯で、半分ほどの席が空いていた。残っている社員は弁当を食べたり、スマートフォンを見たりしていた。

 柏木は菅野をフロアの奥へ案内した。

 奥へ進むにつれて、人の気配が薄れた。フロアの端、窓に面した一角に、背の高いパーティションで区切られたスペースがあった。その手前に、共有のプリンターが置かれていた。パーティションの内側には、マルチモニターが二台並んだデスクがあった。

 柏木の席だった。

 菅野はその場所を、一度だけ見渡した。

 窓際。パーティションで三方を囲まれている。プリンターがさらに視線を遮っている。フロアの中心からは、ここに誰かがいるかどうかすら、確認しにくい構造だった。柏木が「誰からも見えない場所」と言っていたのは、正確な表現だった。

 「狭いですが」と柏木は言った。謝っているわけでも、不満を言っているわけでもなかった。ただ、事実として述べているような言い方だった。

 「こちらでいいですか」と菅野は訊いた。

 「はい。休憩室は他の人もいるので」

 パーティションの脇に、簡易的な椅子があった。柏木がそれを引き出して、菅野に勧めた。自分はデスクの椅子に座った。

 菅野はこの場所に来て、改めて柏木の日常を想像した。

 毎朝ここに来て、パーティションの内側に入り、誰とも視線を合わせることなく仕事をする。雑務が集まる。断れない。残業が増える。帰りはいつも遅い。そして毎晩、あの路地を通って帰る。

 孤立した場所で、孤立した時間を送っている男。

 菅野は自分の中に、また同情が生まれてくるのを感じた。

 いかんと思った。しかし感じてしまうものは、どうしようもなかった。


 「事件当夜に見た男のことを、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」と菅野は言った。

 柏木は少し考えた。「あれ以上、詳しく思い出せるかどうか」

 「構いません。断片的でも」

 「路地の入口付近に、男が一人いた。背格好は若い感じで、上着を着ていた。それ以上は」柏木は首を振った。「暗かったですし、足早に歩いていたので」

 「立ち止まっていたわけではなかった」

 「いえ、歩いていました。どこかへ向かっているような歩き方で」

 「路地の奥に向かっていましたか、それとも路地から出てくるところでしたか」

 柏木は少し時間をかけて考えた。「路地の奥の方から、出てくるところだったような気がします。ただ、自信はないです」

 菅野はメモを取った。

 路地の奥から出てきた若い男。九時半から十時の間。湊人が汐里と言い合ったのは十一時前後だった。時間が合わない。柏木が見た男が湊人でない可能性は、最初から高かった。

 「そのことは警察には」

 「話しました。先日、改めて話を聞きに来たので」柏木は言った。「役に立てたかどうか分かりませんが」

 「十分です」

 菅野はペンを置いた。本来の用件は済んでいた。ただ、もう少しだけ話したいことがあった。

 「仕事は、最近どうですか」と菅野は訊いた。

 唐突な質問だったが、柏木は驚かなかった。

 「変わりません」と彼は言った。「年末で少し忙しくなっていますが」

 「残業は続いていますか」

 「ええ。昨日も九時過ぎまでいました」

 「ここに一人で」

 「そうです」柏木は少し笑った。今度の笑い方も、諦めに近かった。「他の人はみんな帰って、フロアの電気が半分消えてから、ようやく片付いた感じで」

 菅野はその話を聞きながら、柏木の手元を見ていた。

 デスクの上は整然としていた。書類が積み上がっているわけでも、散らかっているわけでもなかった。ただ、量が多かった。他の人間が処理しなかったものが、ここに集まってくる構造が、見ただけで分かった。

 「転職は考えませんか」と菅野は言った。

 柏木は少し目を細めた。考えているのか、それとも考えることを避けているのか、判断できない表情だった。

 「考えたことはあります」と柏木は言った。「ただ、なかなか踏み出せなくて」

 「なぜですか」

 「ここにいれば、少なくとも毎日やることがある」柏木は言った。「誰も頼んでくれなくなるよりは、頼まれすぎている方がまだいい、という気持ちがどこかにあって」

 菅野はその言葉を、書き留めなかった。

 書き留めるべき種類の言葉ではなかったが、記憶には残った。

 誰も頼んでくれなくなるよりは、頼まれすぎている方がまだいい。

 それは組織の中で端に追いやられた人間が、それでもそこに留まろうとする理由の、正直な言語化だった。菅野には、それが分かりすぎるほど分かった。


 昼休みの終わりが近づいて、菅野は席を立った。

 「お時間をいただいてありがとうございました」

 柏木は立ち上がって、エレベーターまで送ってきた。

 エレベーターを待つ間、柏木は「岡崎という方が逮捕されると聞きました」と言った。

 菅野は少し止まった。「どこで」

 「ニュースで名前が出ていたので。被害者の知人、という形で」柏木は言った。「捕まれば、解決するんですか」

 「捕まることと解決することは、必ずしも同じではないです」菅野は言った。

 柏木は少し考えるような顔をした。「そうですね」と彼は言った。「そうかもしれない」

 エレベーターが来た。菅野は乗り込みながら、「何かあればまた連絡ください」と言った。

 柏木は頷いた。ドアが閉まった。


 ビルを出ると、十二月の風が正面から来た。

 菅野はコートの前を閉じながら、来た道を戻った。

 柏木の席のことを、頭の中で反芻した。

 窓際の死角。誰からも見えない場所。毎晩遅くまで残っている男。毎晩、あの路地を通って帰る男。

 菅野はその事実を、ただの事実として記憶に収めた。

 何かを感じたわけではなかった。

 ただ、人間の生活というのは、その人間が毎日いる場所の形を帯びる、ということを菅野は知っていた。柏木の生活は、あの狭い死角の形をしていた。パーティションに囲まれて、誰にも見えない場所で、誰かに頼まれた仕事をこなし続ける形を。

 それは、菅野が同情を向けてしまう種類の孤独だった。

 菅野は自分のその感情に、少し注意を払う必要があると思った。

 思いながら、しかしそれ以上深く考えることはしなかった。

 柏木を疑う理由が、今のところ何もなかったからだった。

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