冬の手前
岡崎湊人に逮捕状が請求されたのは、十一月の最終週だった。
遠藤から電話で知らされた。「正式に動きます」と遠藤は言った。それだけだった。菅野は「分かりました」と答えて、電話を切った。
窓の外は曇っていた。十二月が近かった。
菅野はしばらく、窓の外を見ていた。
湊人が犯人である可能性は、論理的には排除できなかった。動機があった。機会があった。証言に矛盾があった。それらを積み重ねれば、逮捕状を請求するに足る理由になる。警察の判断は、手続きとして正しかった。
ただ菅野の中で、顔を整えた者の話が、まだ決着していなかった。
湊人が汐里を殺したとして、顔を整える理由が見えなかった。感情的な衝動の末の犯行であれば、それだけの冷静さと時間的余裕が残るものなのか。遠藤は「犯行後の行動は必ずしも論理的ではない」と言った。それは正しかった。しかし整えられた顔の丁寧さは、菅野の記憶に今もはっきりと残っていた。
あれは、衝動の後に残る行動には見えなかった。
菅野はノートを開いて、最初のページに戻った。
十一月の、夜が明けきらない時間帯。規制線。黄色と黒のテープ。エメラルドの髪が地面に広がっていた。顔だけが、別の文脈に属するように整えられていた。
菅野は「別の文脈」という表現を、心の中でもう一度繰り返した。
顔とそれ以外の部分が、別の意図によって処理されていた。それ以外の部分には激しい損傷があった。しかし顔には、丁寧な手が加えられていた。これは矛盾ではなく、同一の意図から生まれた二つの行為かもしれなかった。
それ以外を損傷させた理由と、顔を整えた理由が、同じ根から来ている可能性。
菅野はそこまで考えて、一度止まった。
まだ根拠がなかった。感覚だけだった。感覚で人間を庇うことも、感覚で人間を疑うことも、この仕事では慎まなければならなかった。
ノートを閉じた。
その日の午後、菅野は竹内フミのところへ報告に行った。
依頼人への中間報告は、この仕事の基本だった。竹内は三〇二号室の管理人として菅野を雇っていた。被害者が朝倉汐里であることが確定し、警察が動いている現状を、正確に伝える必要があった。
竹内の自宅の、廊下に観葉植物が並んでいる家に上がって、菅野は順を追って話した。
竹内は黙って聞いていた。
「岡崎という方が疑われているんですね」と竹内は最後に言った。
「警察はそういう方向で動いています」
「その方が、やったんでしょうか」
菅野は少し考えた。「私には判断できません」
竹内は「そうですか」と言って、膝の上に置いた手を見た。「あの子が、三〇二号室に住んでいたことは、私は何も知らなくて。管理会社を通じて契約したので、顔も見たことがなかった」
「ええ」
「でも」竹内は続けた。「あの朝、路地に倒れているのを見たとき、若い子だと思った。それだけは分かって」竹内は顔を上げた。「若い子が、誰だか分からない状態で倒れている。それが、何かおかしいと思った。だから、あなたにお願いしたんです」
菅野は頷いた。
「名前が分かって、少し良かったです」と竹内は言った。「朝倉汐里さん、というんですね」
「はい」
「誰かに、ちゃんと名前で呼ばれていたんでしょうか」
菅野は答えるのに、少し時間がかかった。
「一人だけ、いたと思います」と菅野は最終的に言った。「ずっと、本名で呼んでいた人間が」
それが湊人のことを指しているとは、言わなかった。
竹内は「そうですか」と言って、また膝の上の手を見た。「それなら、少し良かった」
竹内の家を出たのは、夕方の四時を過ぎたころだった。
空は低く、今にも暗くなりそうな色をしていた。風が出てきて、街路樹の枯れ葉が路面を滑った。
菅野はコートの前を閉じながら歩いた。
師走が近かった。街は少しずつ、年末の空気を帯び始めていた。
歩きながら、菅野は柏木京介のことを考えた。
考えようとしたわけではなかった。ただ、自然に浮かんできた。
窓際の、パーティションに囲まれた席。誰からも見えない場所。断れない性格。残業が続く日々。毎晩、あの路地を通って帰る男。
菅野は自分の中に、柏木への同情があることを自覚していた。同情は判断を曇らせる。それは知っていた。
ただ、柏木が事件に関与している可能性を示すものは、今のところ何もなかった。現場近くを通っていたことを自分から申告した。目撃した可能性のある人物についても話した。それらは疑いを持たれることを恐れていない人間の行動だった。
菅野は柏木を、被害者側の人間として分類していた。加害者側でも容疑者側でもなく、この事件によって何かを失った側の人間として。根拠は薄かった。ただ、そういう印象があった。
来週、柏木の職場を一度訪ねようと思っていた。
事件に関してではなく、事件当夜に目撃した「若い男」についての証言を、もう少し詳しく聞くためだった。それだけの理由だった。
少なくとも、菅野はそう思っていた。
夜、菅野は自宅で汐里の年表を作った。
判明していることだけを、時系列に並べた。
十六歳・高校二年の終わり——父の会社が倒産、負債発生。
十七歳・高校三年の春——両親が失踪。一人になる。
十八歳——卒業。専門学校への進学断念。アルバイトで生活。
二十歳から二十一歳——南区へ転居。連絡が途絶える。
二十三歳・夏——礼香との口論。藤田との最後の接触(九月三日)。貫井から「来なくていい」と言われる(八月から九月初旬)。
二十三歳・十一月——岡崎湊人との言い合い。その後、消息が途絶える。翌朝、南区の路地で発見。
菅野は年表を見た。
十六歳から二十三歳まで、七年間。その七年間が、この年表には入りきっていなかった。数行の記述では、到底収まらない時間があった。
誰かに笑いかけた時間。疲れて帰った夜。金色の星のシールを鏡に貼った日。エメラルドの髪を選んだ日。その色にこだわった理由。
菅野には分からなかった。
ただ、分からないことを知っておく必要があった。分かった気になることが、この仕事では最も危険なことのひとつだったから。
年表の最後の行の下に、菅野は一行だけ書き足した。
「朝倉汐里・二十三歳。名前を持っていた」
ペンを置いて、電気を消した。
窓の外で風が鳴っていた。
十一月が終わろうとしていた。




