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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
泥濘の聖母
10/50

冬の手前

 岡崎湊人に逮捕状が請求されたのは、十一月の最終週だった。

 遠藤から電話で知らされた。「正式に動きます」と遠藤は言った。それだけだった。菅野は「分かりました」と答えて、電話を切った。

 窓の外は曇っていた。十二月が近かった。

 菅野はしばらく、窓の外を見ていた。

 湊人が犯人である可能性は、論理的には排除できなかった。動機があった。機会があった。証言に矛盾があった。それらを積み重ねれば、逮捕状を請求するに足る理由になる。警察の判断は、手続きとして正しかった。

 ただ菅野の中で、顔を整えた者の話が、まだ決着していなかった。

 湊人が汐里を殺したとして、顔を整える理由が見えなかった。感情的な衝動の末の犯行であれば、それだけの冷静さと時間的余裕が残るものなのか。遠藤は「犯行後の行動は必ずしも論理的ではない」と言った。それは正しかった。しかし整えられた顔の丁寧さは、菅野の記憶に今もはっきりと残っていた。

 あれは、衝動の後に残る行動には見えなかった。

 菅野はノートを開いて、最初のページに戻った。

 十一月の、夜が明けきらない時間帯。規制線。黄色と黒のテープ。エメラルドの髪が地面に広がっていた。顔だけが、別の文脈に属するように整えられていた。

 菅野は「別の文脈」という表現を、心の中でもう一度繰り返した。

 顔とそれ以外の部分が、別の意図によって処理されていた。それ以外の部分には激しい損傷があった。しかし顔には、丁寧な手が加えられていた。これは矛盾ではなく、同一の意図から生まれた二つの行為かもしれなかった。

 それ以外を損傷させた理由と、顔を整えた理由が、同じ根から来ている可能性。

 菅野はそこまで考えて、一度止まった。

 まだ根拠がなかった。感覚だけだった。感覚で人間を庇うことも、感覚で人間を疑うことも、この仕事では慎まなければならなかった。

 ノートを閉じた。


 その日の午後、菅野は竹内フミのところへ報告に行った。

 依頼人への中間報告は、この仕事の基本だった。竹内は三〇二号室の管理人として菅野を雇っていた。被害者が朝倉汐里であることが確定し、警察が動いている現状を、正確に伝える必要があった。

 竹内の自宅の、廊下に観葉植物が並んでいる家に上がって、菅野は順を追って話した。

 竹内は黙って聞いていた。

 「岡崎という方が疑われているんですね」と竹内は最後に言った。

 「警察はそういう方向で動いています」

 「その方が、やったんでしょうか」

 菅野は少し考えた。「私には判断できません」

 竹内は「そうですか」と言って、膝の上に置いた手を見た。「あの子が、三〇二号室に住んでいたことは、私は何も知らなくて。管理会社を通じて契約したので、顔も見たことがなかった」

 「ええ」

 「でも」竹内は続けた。「あの朝、路地に倒れているのを見たとき、若い子だと思った。それだけは分かって」竹内は顔を上げた。「若い子が、誰だか分からない状態で倒れている。それが、何かおかしいと思った。だから、あなたにお願いしたんです」

 菅野は頷いた。

 「名前が分かって、少し良かったです」と竹内は言った。「朝倉汐里さん、というんですね」

 「はい」

 「誰かに、ちゃんと名前で呼ばれていたんでしょうか」

 菅野は答えるのに、少し時間がかかった。

 「一人だけ、いたと思います」と菅野は最終的に言った。「ずっと、本名で呼んでいた人間が」

 それが湊人のことを指しているとは、言わなかった。

 竹内は「そうですか」と言って、また膝の上の手を見た。「それなら、少し良かった」


 竹内の家を出たのは、夕方の四時を過ぎたころだった。

 空は低く、今にも暗くなりそうな色をしていた。風が出てきて、街路樹の枯れ葉が路面を滑った。

 菅野はコートの前を閉じながら歩いた。

 師走が近かった。街は少しずつ、年末の空気を帯び始めていた。

 歩きながら、菅野は柏木京介のことを考えた。

 考えようとしたわけではなかった。ただ、自然に浮かんできた。

 窓際の、パーティションに囲まれた席。誰からも見えない場所。断れない性格。残業が続く日々。毎晩、あの路地を通って帰る男。

 菅野は自分の中に、柏木への同情があることを自覚していた。同情は判断を曇らせる。それは知っていた。

 ただ、柏木が事件に関与している可能性を示すものは、今のところ何もなかった。現場近くを通っていたことを自分から申告した。目撃した可能性のある人物についても話した。それらは疑いを持たれることを恐れていない人間の行動だった。

 菅野は柏木を、被害者側の人間として分類していた。加害者側でも容疑者側でもなく、この事件によって何かを失った側の人間として。根拠は薄かった。ただ、そういう印象があった。

 来週、柏木の職場を一度訪ねようと思っていた。

 事件に関してではなく、事件当夜に目撃した「若い男」についての証言を、もう少し詳しく聞くためだった。それだけの理由だった。

 少なくとも、菅野はそう思っていた。


 夜、菅野は自宅で汐里の年表を作った。

 判明していることだけを、時系列に並べた。

 十六歳・高校二年の終わり——父の会社が倒産、負債発生。

 十七歳・高校三年の春——両親が失踪。一人になる。

 十八歳——卒業。専門学校への進学断念。アルバイトで生活。

 二十歳から二十一歳——南区へ転居。連絡が途絶える。

 二十三歳・夏——礼香との口論。藤田との最後の接触(九月三日)。貫井から「来なくていい」と言われる(八月から九月初旬)。

 二十三歳・十一月——岡崎湊人との言い合い。その後、消息が途絶える。翌朝、南区の路地で発見。

 菅野は年表を見た。

 十六歳から二十三歳まで、七年間。その七年間が、この年表には入りきっていなかった。数行の記述では、到底収まらない時間があった。

 誰かに笑いかけた時間。疲れて帰った夜。金色の星のシールを鏡に貼った日。エメラルドの髪を選んだ日。その色にこだわった理由。

 菅野には分からなかった。

 ただ、分からないことを知っておく必要があった。分かった気になることが、この仕事では最も危険なことのひとつだったから。

 年表の最後の行の下に、菅野は一行だけ書き足した。

「朝倉汐里・二十三歳。名前を持っていた」

 ペンを置いて、電気を消した。

 窓の外で風が鳴っていた。

 十一月が終わろうとしていた。

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