情報の重さ
所轄の刑事、遠藤と会ったのは、翌朝の十時だった。
遠藤は四十代の半ばで、菅野より少し若かった。以前の仕事で二度ほど関わったことがあり、互いの仕事の仕方をある程度知っていた。信頼、というほどではないが、実務的な意味での連携はできる相手だった。
所轄の小会議室で、菅野はノートを開いた。
「貫井克己、佐野礼香、藤田正彦、岡崎湊人の四人について、私が把握している情報を共有します」と菅野は言った。「ただし、私の調査は私的なものですので、証拠としての価値については判断をお任せします」
遠藤は頷いて、メモを取る準備をした。
菅野は順番に話した。
貫井については、事件当夜に「少しの間外に出た」と話していること、保険という言葉に一瞬反応したこと、店の経営状況について詳細を話したがらなかったこと。
礼香については、夏の終わりに汐里と口論があったこと、その内容、その後コンビニで偶然会っていること。
藤田については、横領の件を話したうえで、九月三日が最後の接触だったこと、拒絶されたことを本人が認めていること。
湊人については、事件当夜の詳細な時系列、言い合いの内容、立ち去った経緯。それから汐里の過去——両親の失踪、負債、高校時代のことを湊人から聞いたこと。
遠藤は黙って聞いて、黙って書いた。
菅野が話し終えると、遠藤は少し間を置いてから言った。「藤田の横領については、我々も別の経路で把握しています」
「そうでしたか」
「岡崎については」遠藤はペンを置いた。「証言の矛盾というのは、立ち去った時刻のことです。本人は十一時から十一時半と言っていますが、隣人が通報した記録は十一時四十分です。通報から遡ると、口論が終わったのは十一時三十分を過ぎていた可能性が高い」
「本人の記憶との差異ですね」
「ええ。それだけなら誤差の範囲とも言えますが、問題は別にあって」遠藤は少し声を落とした。「岡崎は『先に立ち去った』と言っています。ただ、隣人の証言では、口論が終わった後に立ち去ったのは女性の方が先だったと」
菅野はメモを取りながら、その矛盾の意味を考えた。
湊人が先に立ち去ったのか、汐里が先に立ち去ったのか。どちらが先かという問題は、その後の行動の可能性を大きく変える。
「隣人の証言の信頼性は」
「高いとは言えません。夜遅い時間で、窓越しの目撃です。ただ、複数人から似た証言が出ていて」遠藤は言った。「逮捕状の請求については、上が判断することですが、方向としてはそちらに進んでいます」
菅野は頷いた。
「私から一点だけ」と菅野は言った。「現場の状況についてです」
「どうぞ」
「被害者の顔が整えられていた点について、岡崎湊人がそれをする理由が、私にはまだ見えていません」
遠藤は少し考えた。「犯行後の行動は、必ずしも論理的じゃないです。罪悪感、愛着、後悔。そういうものが混じることはある」
「それは理解しています」菅野は言った。「ただ、整えられ方が、非常に丁寧だった。化粧を直し、髪を梳かした形跡がある。それだけの時間と、心理的な余裕があったとすると」
「犯行が計画的だった可能性を示唆するということですか」
「あるいは、感情的な衝動で起きた事件ではない可能性です」
遠藤は黙った。
菅野も何も付け加えなかった。これ以上は、菅野の領域を超えていた。判断するのは警察だった。
「参考にします」と遠藤は最終的に言った。
所轄を出て、菅野は昼食を取るために近くの食堂に入った。
定食を頼んで、待つ間にノートを開いた。
今日の時点で、捜査の重心は岡崎湊人に向いていた。それは証拠と証言から導き出された、論理的な結果だった。菅野には異議を唱える根拠がなかった。
それでも、引っかかりは消えなかった。
菅野は以前、刑事だったころに一度だけ、「正しい方向に向いた捜査が、間違った人間を指していた」という経験をしたことがあった。証拠が揃っていた。証言も一致していた。論理的には疑いようがなかった。しかし何かが違った。その「何か」を言語化できないまま、菅野は捜査を続けた。最終的に真相が明らかになったとき、菅野は自分の感覚を信じていてよかったと思った。
ただ同時に、感覚というのは誤ることもある、ということも知っていた。
定食が来た。菅野は食べながら、汐里のことを考えた。
高校の担任が言っていた言葉を思い出した。「卒業式の朝、きれいな笑顔でした」と教師は言っていた。
湊人は「汚れても、汚れない目をしていた」とは言わなかった。それは礼香が言ったことだった。汚れきらない目。礼香がそれを憎んでいたとしても、その観察は正確だったかもしれない。
高校の担任の言葉と、礼香の言葉が、重なった。
汐里という人間の輪郭が、少しずつ肉付きを持ち始めていた。名前と顔が一致した。過去の事情が分かった。しかし彼女がどういう人間だったのかは、まだ断片からしか見えなかった。
菅野は食事を終えて、勘定を払い、外に出た。
午後、菅野はひとつだけ確認したいことがあった。
汐里の高校時代の同級生を、湊人以外にも当たれないかどうか。湊人は汐里を「朝倉汐里」として知っていた。しかしほかの人間の目には、彼女がどう映っていたのか。
湊人に電話して、同級生の名前を一人か二人、教えてもらえないかと頼んだ。
湊人は少し黙ってから、「一人だけ」と言って、女性の名前と連絡先を教えてくれた。「汐里と仲が良かった子です。今も連絡が取れるかどうかは分からないけど」
電話をかけると、三回目のコールで繋がった。
女性は最初、警戒した様子だったが、事情を話すと少しずつ話してくれた。汐里とは高校一年から二年にかけて仲が良かったこと、高校三年で急に疎遠になったこと。
「三年になってから、別人みたいになったんです」と女性は言った。「話しかけても、うわの空みたいで。でも責める気持ちにはなれなくて」
「なぜですか」
「家のことで大変なんだろうなと、なんとなく分かっていたので」女性は少し間を置いた。「入学したころの汐里ちゃんは、本当に明るい子で。声が大きいわけじゃないけど、そこにいるだけで、なんか、穏やかな気持ちになれるような子で」
菅野は「そうでしたか」と言った。
「卒業してから一度だけ、偶然会ったことがあって」女性は続けた。「就職して一年目くらいのころだったと思います。汐里ちゃんは笑っていて、元気そうだったけど、目が笑っていなかった。それが気になって、連絡先を交換したんですが、その後は」
「その後は」
「私から連絡しても、返事が来なくて。しばらくして、番号が変わったみたいで繋がらなくなりました」
菅野は礼を言って電話を切った。
目が笑っていなかった。礼香の言葉と、また重なった。
汐里は自分の内側を、ほとんど誰にも見せなかった。見せることができなかったのか、見せたくなかったのか。あるいは、見せる相手がいなくなっていたのか。
菅野にはその答えが出なかった。
夜、自宅でノートを閉じる前に、菅野は一度だけ、柏木から受け取ったメッセージを見返した。
「亡くなった方のことが気になっていて。誰にでも、生きていた時間があったはずなのに」
菅野はその言葉を、もう一度読んだ。
悪意のある言葉には聞こえなかった。
ただ、誰が言ったかに関わらず、その言葉は正確だった。
朝倉汐里には、生きていた時間があった。梨の花のような笑顔を持っていた時間が。目が笑っていた時間が。金色の星のシールを鏡に貼った、何かを信じていた時間が。
その時間を誰かが終わらせた。
菅野はノートを閉じた。
まだ何も終わっていなかった。




