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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
聖者の破片
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出口の形

 汐里がこの街を出るつもりだったとすれば、その痕跡がどこかに残っているはずだった。

 菅野が最初に当たったのは、三〇二号室だった。

 竹内フミに連絡を入れて、もう一度部屋を見せてもらうことができた。竹内は「いつでもどうぞ」と言った。警察がすでに家宅捜索を終えていたが、部屋はそのままにしてあるという話だった。

 マンションに着いたのは、午前中だった。

 三〇二号室のドアを開けると、前回と同じ匂いがした。締め切った空間の、時間が止まった匂い。ただ、前回と少し違うのは、警察が入った痕跡があることだった。引き出しが少し開いたまま、カラーボックスの中の本の順番が変わっている、そういった細かい乱れがあった。

 菅野はゴム手袋をはめて、部屋を歩いた。

 今回は、前回気にしなかった場所を確認するつもりだった。

 まず、テーブルの引き出しを開けた。メモ帳が一冊入っていた。警察が確認済みのはずだったが、残されていた。ページをめくると、数字が並んでいた。金額の計算に見えた。足したり引いたりした跡があり、最終的な数字に丸がついていた。

 数字の単位は分からなかったが、規則的な増減のパターンがあった。月ごとの収支のようにも見えた。

 菅野はそのページを写真に収めた。

 次に、衣装ケースの下の段を確認した。前回は上の段しか見ていなかった。下の段には、季節外れの薄手の服が数枚と、底の方に小さな封筒が一つ入っていた。

 封筒の中には、折り畳まれた紙が一枚あった。

 広げると、手書きの文字があった。住所と、人の名前が書かれていた。見知らぬ名前だった。住所は、隣県の市名だった。

 菅野はそれも写真に収めた。

 隣県。見知らぬ名前。汐里が「この街を出る」と言っていたこととの関連を、今すぐ断定することはできなかった。ただ、確認する価値はあった。


 午後、菅野は湊人のアパートに向かった。

 湊人は任意同行から戻っていた。遠藤の話では、この段階では釈放されている。ただし、捜査は続いていた。

 ドアを開けた湊人は、前回より顔が削れていた。頬が少し落ちて、目の下の隈が濃くなっていた。それでも菅野を部屋に上げた。

 「任意同行の件、お疲れ様でした」と菅野は言った。

 湊人は「疲れました」と短く言って、畳に座った。

 「一つだけ確認させてください」菅野は言った。「汐里さんが、この街を出るつもりだったという話を、あなたは知っていましたか」

 湊人は少し目を細めた。「どこで聞きましたか」

 「別の方からです」

 湊人は膝の上に手を置いた。「知っていました。彼女から直接聞いたわけじゃないけど、事件の夜の言い合いの中で、そういうことを言っていた」

 「どんなことを」

 「もうここにいるつもりはない、あなたとも二度と会わない、全部終わらせる、という感じのことを」湊人は言った。「だから俺は、もっと食い下がってしまったんです。全部終わらせるとは何なのか、どこに行くのか、一緒に行かせてくれと」

 「彼女の反応は」

 「怒鳴り返された。関係ない、お前には関係ない、と」湊人は俯いた。「今思うと、彼女は本当に終わらせようとしていたんだと思う。俺との関係も、この街での生活も。それを俺が邪魔した」

 菅野は湊人の顔を見た。

 邪魔した、という言葉が、どういう意味を持つのか。汐里の計画を邪魔したことへの後悔なのか。それとも別の何かへの告白なのか。

 「警察には、この話をしましたか」と菅野は訊いた。

 「しました。全部話しました」湊人は顔を上げた。「隠すことは何もない。俺がやっていないのは本当のことで、それだけが今の俺には言えることです」

 菅野は頷いた。

 湊人の目を見た。疲弊していたが、濁っていなかった。濁っていない目が、必ずしも潔白を意味するわけではないことを菅野は知っていた。しかし、湊人が汐里を「朝倉汐里」と呼び続けていたことが、まだ菅野の記憶に残っていた。


 夕方、菅野は繁華街の端にある小さなバーに入った。

 仕事のためではなかった。ただ、少し考える時間が必要だった。カウンターに座って、ウイスキーの水割りを頼んだ。

 バーは静かだった。年末が近いのに客が少ないのは、まだ早い時間だからだろう。カウンターの向こうでマスターが静かにグラスを磨いていた。

 菅野はグラスを持ちながら、今日確認したことを整理した。

 三〇二号室の封筒。隣県の住所と名前。汐里が向かおうとしていた場所か、あるいは連絡を取ろうとしていた相手か。それとも全く関係のない何かか。

 藤田が言っていた「この街を出るような話」。湊人が言っていた「全部終わらせる」という汐里の言葉。礼香が言っていた「お金を貯めたい」という話。

 これらが同じ方向を向いているとすれば、汐里は十一月の時点で、南区を離れる具体的な計画を持っていた可能性がある。

 菅野はグラスを置いた。

 そうだとすれば、彼女はもうすぐ消えるはずだった。

 誰かが、その前に彼女を消した。


 帰り道、スマートフォンにメッセージが届いた。

 柏木からだった。「先週はありがとうございました。少し気になったことがあって、もし良ければお電話できますか」

 菅野は歩きながら、電話をかけた。

 柏木は二回のコールで出た。

 「夜分にすみません」と柏木は言った。「今日も遅くまで残業で、帰り道に気になって」

 「何がありましたか」

 「先週、職場に来ていただいたあと、少し記憶を掘り起こしていたんですが」柏木は言った。「事件当夜に見た男のことです。上着の色が、暗い色だったような気がして。紺か、グレーか、そのくらいの」

 「ありがとうございます。記録しておきます」

 「それだけのことで、すみません」柏木は少し間を置いた。「でも、もし何かの参考になればと思って」

 「十分です」菅野は言った。「今日も遅くまでいたんですか」

 「ええ。今、帰り道で」

 「気をつけて帰ってください」

 「はい」柏木は言った。「菅野さんも」

 電話を切った。

 菅野は歩きながら、柏木の声の質を思った。

 疲れていたが、穏やかだった。毎晩遅くまで残業して、あの路地を通って帰る男。誰からも見えない死角から、一人で夜の街に出てくる男。

 菅野の中の同情が、また少しだけ育った。

 それに気づいて、菅野は自分を戒めた。

 同情と判断は、別の引き出しにしまっておかなければならなかった。

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