引継ぎと追加書類
俺は二つの書類を前にして頭を抱えていた。
一つは、外周管理塔で受信したエドガー・ヴァレン名義の通信記録。
もう一つは、王国管理局から届いた給与申請の追加資料要求書だ。
前者には、八百年前の謎と、魔王の心臓の封印に関わる重大な情報が含まれている可能性がある。
後者には、提出期限が明記されていた。
しかも、後者の期限のほうが早い。
「なあ、ミレイ」
「はい?」
「世界の危機と役所の期限が重なった場合、どちらを優先するべきだと思う?」
ミレイは少し考えた。
「世界の危機ではないでしょうか」
「正解だ。だが、世界の危機を防ぐために働いている人間が、生活費を失って現場を離れたらどうなる?」
「……それも問題ですね」
「そう。だから俺は、世界を救いながら書類も出す」
俺は追加資料要求書を机に置いた。
「ただし、役所の書類は世界よりも手ごわい可能性がある」
書類には、次のように書かれていた。
『管理者報酬の支給にあたり、過去八百年分の施設維持費、職務引き継ぎ記録、管理者権限の継承状況、未処理案件一覧、ならびに報酬支給停止者の処理状況を提出してください』
俺はゆっくりと顔を上げた。
「八百年分?」
「そう書いてありますね」
「俺が管理者になってから、まだ何日だと思う?」
「正確には、十数日です」
「十数日で八百年分の経理をやれと」
「……大変ですね」
「大変という言葉で済むなら、世の中の経理担当者はもっと笑顔で働いている」
俺は要求書の隅に、小さく書き込んだ。
『提出可能な記録から順次提出。欠損記録は欠損として明記。未確認事項は未確認とする』
全部そろうまで何も出さない、という方法もある。
だが、それでは何も進まない。
ある資料を先に提出し、不足分の所在と調査状況を説明する。相手が追加で必要なものを示してきたら、その都度対応する。
仕事を止めないためには、完璧を待つより、確認できた事実を積み上げるほうがいい。
「よし。まずは報酬関係の原本を整理する。それから冷却系統の調査だ」
「その順番でいいんですか?」
「もちろん。冷却系統はセシリアたちが確認している。俺が同じ場所を二度調べても、人手の無駄だ。それより、俺にしかできない管理者権限の確認を進める」
俺は椅子から立ち上がった。
「仕事というのは、忙しい人間が全部抱えることじゃない。適切な人間に、適切な仕事を渡すことだ」
「ゴトーさん、最近、管理者らしいことを言いますね」
「最近、管理者らしい責任だけは増えているからな。言葉くらい立派にならないと、割に合わん」
*
午前中、俺たちは原本台帳の保管室に集まった。
参加者は、俺、ミレイ、レオン、セシリア、ガルド。
そして、黒竜のDR-001も、少し離れた場所でこちらを見ていた。
黒竜は人間の会議に参加しているつもりなのかもしれないが、あの巨体で黙って座っているだけでも十分な圧力がある。
会議室の椅子が軋む音より、黒竜の尻尾が床に触れる音のほうが大きい。
「では、確認事項を整理します」
ミレイが記録板を開いた。
「第一に、外周管理塔から受信した通信の送信者が、本当にエドガー・ヴァレンなのか。第二に、通信にあった『前回と同じ兆候』が、八百年前の補助冷却系統の異常を指しているのか。第三に、エドガーの勤務記録と報酬停止の経緯。第四に、赤竜の首輪との関連性です」
「よし。まずは事実と推測を分けよう」
俺は机に四つの札を置いた。
札には、それぞれこう書かれている。
確認済み。
未確認。
推測。
対応中。
「これだけで、会議の半分はまともになる」
レオンが札を見つめた。
「ずいぶん簡素な仕組みですね」
「複雑な仕組みを導入すると、仕組みを管理する仕事が増える。管理するための管理を始めたら、もう終わりだ」
ミレイが笑いをこらえながら、札を並べ替えた。
「では、確認済みからいきます。八百年前の記録に、補助冷却系統の黒い筋が記載されています。今回、外周管理塔から同じ兆候が発生しているという通信が届きました」
「ただし、同じ現象とは限らない」
俺が付け加える。
「通信の送信者が本人かどうかも未確認。ここまではいいな?」
全員がうなずいた。
「では、セシリア。冷却系統の調査状況を教えてくれ」
「補助冷却系統のうち、旧式の配管に微弱な魔力の乱れが確認されました。通常の冷却動作に大きな影響は出ていませんが、一部の記録値が不自然に揺れています」
「黒い筋は?」
「現時点では、以前見つかったものと同じ特徴を持つ痕跡は確認できていません。ただし、配管の一部は封鎖されており、内部を直接確認するには追加の安全措置が必要です」
「つまり、異常の兆候はあるが、八百年前と同じかどうかはわからない、と」
「そのとおりです」
「よし。危険が確認されていないからといって、安全だと断定しない。逆に、異常があるからといって、すぐに破壊工作だと決めつけない。調査はその方針で続けよう」
次に、レオンが報告した。
「王立封印監察局としても、今回の通信記録を調査対象に加えます。ただし、外周管理塔の通信機構そのものが古いため、送信時刻を特定できるかはわかりません」
「わかった。記録の複製を渡す。原本はここで保管する」
「慎重ですね」
「証拠の原本がなくなったら、あとで全員が困るからな。複製を渡して、必要なら照合する。これで十分だ」
ガルドは腕を組んでいた。
「もし、誰かが施設内部から封印に干渉しているなら、どうします?」
「証拠が出たら、権限と手順に従って対処する。現時点では、侵入者がいるとも、内部の人間が関与しているとも断定できない」
「仲間が関与していたとしてもですか?」
少し、空気が変わった。
俺はガルドを見た。
「仲間だから疑わない、というのも違う。仲間だから犯人だと決めつける、というのも違う。事実を確認する。それが一番、本人のためにもなる」
ガルドはしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「了解しました」
会議は順調だった。
問題は、その直後に起きた。
俺が給与関係の記録を表示させようとした瞬間、原本台帳が突然光ったのだ。
『未処理案件の更新を検知』
『対象:エドガー・ヴァレン』
『勤務状態:確認要求中』
『管理者補佐権限:有効』
そして、見慣れない項目が一つ追加された。
『引き継ぎ待機期間:七百九十九年』
「……待て」
俺は表示板を指さした。
「七百九十九年?」
「はい。そう表示されています」
ミレイが確認する。
「エドガーの記録が最後に更新された時期と一致しますね」
「ということは、八百年前に引き継ぎが止まって、それ以来ずっと待っていた可能性があるわけか」
「可能性としては、そうです」
「人事部が八百年間、退職処理を終わらせていなかったら、俺なら三日で転職するぞ」
セシリアが真面目な顔で答えた。
「転職先が存在すれば、ですが」
「そこは異世界の厳しいところだな……」
しかし、笑い話で終わらせるわけにはいかなかった。
引き継ぎ待機期間が本当に八百年近く続いているなら、エドガーの権限はなぜ維持されているのか。
なぜ報酬は停止されているのか。
なぜ、退職処理が無効なのか。
そして、なぜ今になって通信が届いたのか。
俺は原本台帳に問いかけた。
「この待機期間は、何を基準に計算している?」
返答はすぐに出た。
『前任管理者補佐による引き継ぎ完了報告を基準としています』
「引き継ぎ完了報告は存在するのか?」
『該当記録はありません』
「では、エドガーの職務が継続していると判断した理由は?」
少し長い沈黙のあと、表示が変わった。
『管理者補佐権限が無効化されていないため』
俺は額を押さえた。
「つまり、権限が残っているから勤務中扱い。でも、勤務中扱いだから退職処理ができない。退職処理ができないから権限が残る……」
「循環していますね」
ミレイが言った。
「うん。典型的な処理の行き詰まりだ」
俺は深くため息をついた。
この施設は、魔王の心臓を封じるほどの技術を持っている。
しかし、退職処理一つ、まともに終わらせられないらしい。
技術力と事務能力は、必ずしも比例しない。
これは俺が異世界で学んだ、実に重要な教訓だった。
*
昼過ぎ、俺たちはエドガーの勤務記録を調べることにした。
外周管理塔で提示された第三の本人確認方法。
『本人の最終勤務報告』。
これが見つかれば、少なくともエドガーが最後に何をしていたのか、手がかりが得られるかもしれない。
保管室には、古い記録板が何十枚も並んでいた。
ミレイが記録の分類を担当し、俺は管理者権限で閲覧可能な範囲を確認する。
レオンは原本の保全を担当し、セシリアは記録板に残った魔力の異常を調べた。
ガルドは入口を守っている。
黒竜は、なぜか入口の外で昼寝を始めていた。
「DR-001、見張りを頼んだつもりなんだが……」
俺が声をかけると、黒竜は片目を開けた。
『見張っている』
「寝ているように見えるぞ」
『目を閉じていても、音と魔力の流れは感知できる』
「便利だな。俺もその能力があれば、会議中に寝ても怒られなかったのに」
『お前は、目を開けていても寝ているような顔をすることがある』
「それは能力の話じゃない。俺の人生の話だ」
ミレイが吹き出した。
黒竜は再び目を閉じた。
どうやら、異世界の守護竜にまで俺の勤務態度を評価される時代が来たらしい。
それから一時間ほどして、ミレイが声を上げた。
「見つかりました!」
俺は急いでそちらへ向かった。
記録板には、古い文字でこう記されていた。
『管理暦七百九十九年、第四十七日』
『担当者:エドガー・ヴァレン』
『勤務内容:補助冷却系統の定期点検』
『特記事項:冷却系統内部に不明な接続経路を確認』
その下には、さらに短い文章が残っていた。
『接続経路は、外部からではなく、施設内部から形成されている可能性がある』
俺は黙って記録を読んだ。
八百年前のエドガーは、補助冷却系統に異常を見つけていた。
そして、内部から接続経路が形成されている可能性を記録していた。
以前見つけた八代目管理者の警告とも、内容が似ている。
「ゴトーさん。これは……」
「重要な記録だな」
俺はすぐに結論を出さず、記録板の前後を確認した。
「ただし、これが今の異常とつながっているかどうかは、まだわからない。記録を複製して、原本を保管する。冷却系統の調査結果と照合しよう」
ミレイがうなずく。
だが、記録はそこで終わっていなかった。
板の下部に、小さな追記がある。
『点検後、封印監察局より立ち入り制限の通達を受領』
『調査継続の許可を申請』
『回答待ち』
さらに、その下。
『管理者への報告を試みる』
最後の行だけ、文字が乱れていた。
『管理者権限により、報告先が変更された』
俺は記録板を見つめた。
「……管理者権限により、報告先が変更された?」
「誰が変更したのでしょうか」
ミレイが尋ねた。
「この記録だけではわからない。管理者本人かもしれないし、管理者権限を持つ別の担当者かもしれない。あるいは、自動処理が誤って変更した可能性もある」
レオンが慎重に言った。
「しかし、報告先が変更されたことで、エドガーの調査が止まった可能性はあります」
「そうだな。そこは調べる価値がある」
俺は記録板の情報を整理した。
エドガーは補助冷却系統の異常を見つけた。
施設内部から接続経路が形成されている可能性を記録した。
その後、封印監察局から立ち入り制限を受けた。
調査継続を申請したが、回答は記録されていない。
管理者への報告先は、管理者権限によって変更されている。
そして、エドガーの勤務記録は、そこで途切れていた。
「誰かが意図的に止めたのか。それとも、何らかの事故で処理が止まったのか」
俺は小さくつぶやいた。
「どちらにしても、今の段階では断定できない」
「ゴトーさんは、犯人を探したいとは思わないんですか?」
ミレイが尋ねた。
「もちろん、原因は知りたい。だが、犯人を探すことと、原因を確認することは同じじゃない。誰かが悪意を持ってやったと決めつけると、別の可能性を見落とす」
俺は記録板をレオンに渡した。
「まずは、誰がどの権限を持っていたのかを確認する。それから、報告先がどこに変更されたのかを探す」
レオンは真剣な表情でうなずいた。
「王立封印監察局の古い記録も調べます。過去の立ち入り制限について、該当する文書が残っているかもしれません」
「頼む。原本の複製を渡すから、受領記録も残してくれ」
「承知しました」
そのときだった。
記録板の端に、見覚えのない印が浮かび上がった。
黒い円。
その中央を、細い線が縦に貫いている。
セシリアの表情が変わった。
「その印……」
「何か知っているのか?」
「赤竜の首輪を調べた際、魔力の流れに似た形状を確認しています。ただし、完全に同じとは言えません」
俺は印をじっと見た。
八百年前の記録。
補助冷却系統の異常。
エドガーの勤務停止。
赤竜の首輪。
そして、いま現れた印。
これらはつながっているのか。
それとも、似たものが偶然重なっているだけなのか。
まだわからない。
だが、調査すべきものは一つ増えた。
「ミレイ、この印も記録してくれ。セシリア、首輪の記録と照合。レオンは監察局の古い文書を確認。俺は、報告先が変更された記録を探す」
「はい」
全員が動き始めた。
俺はふと、管理者の机に置かれた給与申請書を思い出した。
八百年前の職務記録は、少しずつ明らかになり始めている。
だが、俺の給与申請は、まだ追加資料の提出待ちだ。
どうやら、この施設には二つの未解決問題がある。
一つは、封印の内側で何が起きているのか。
もう一つは、なぜ八百年分の事務処理を、着任したばかりの俺がやらなければならないのか。
どちらも簡単には終わりそうにない。
*
夕方、俺は管理者室に戻った。
机の上には、ミレイが整理してくれた記録の一覧が置かれていた。
そして、その隣には新しい通信記録があった。
外周管理塔からの受信だ。
今回は、文字だけではなかった。
音声記録が添付されている。
『本人が登録した音声記録』
エドガーの声なのかどうかは、まだわからない。
俺はセシリアとミレイを呼び、レオンにも通信をつないだ。記録を再生する前に、原本を保存し、再生によって何かが起こる可能性について確認した。
幸い、セシリアによれば、音声記録は独立した保管領域にあり、再生だけで施設の機構が作動する可能性は低いとのことだった。
「では、再生するぞ」
俺は再生を選択した。
最初に聞こえたのは、雑音だった。
次に、低い機械音。
そして、男の声がした。
『こちらは、管理者補佐エドガー・ヴァレン』
古い録音らしく、声は少しかすれている。
『この記録を聞いている者がいるなら、補助冷却系統の異常は、まだ解決していない可能性がある』
ミレイが息をのんだ。
音声は続いた。
『私は、内部接続経路の調査を進めていた。しかし、調査記録が管理者に届いていないことが判明した』
『報告先の変更を確認したが、変更者の記録は見つからなかった』
『封印監察局への照会も、回答がない』
そこで、男は一度言葉を切った。
遠くで何かが鳴っている。
風の音か。
機械の音か。
それとも、別の何かか。
『私は、調査の継続を求める』
『ただし、冷却系統の停止は避けてほしい。現時点で、系統を停止した場合の封印への影響を確認できていない』
俺はうなずいた。
この注意は重要だ。
異常があるからといって、設備を止めればいいとは限らない。特に、魔王の心臓の封印とつながっている可能性がある設備なら、なおさらだ。
そして、音声の最後に、エドガーはこう言った。
『管理者へ。もし私の勤務記録が残っているなら、私を退職扱いにも、勤務継続扱いにも、まだしないでほしい』
俺は顔を上げた。
『私の状態が確認できていない以上、どちらの判断も正確ではない』
『まずは、私が何を調べ、何を報告しようとしたのかを確認してほしい』
そこで音声は途切れた。
室内には、しばらく沈黙が続いた。
やがて、ミレイが静かに言った。
「エドガーは、自分の扱いを決める前に、記録を調べてほしいと考えていたんですね」
「そうだな」
俺は音声記録を保存した。
「自分がどう扱われるかより、まず事実を確認してほしい。なかなか立派な仕事の姿勢だと思う」
「ゴトーさんと似ていますね」
「いや、俺はもっと給料のことを気にするぞ」
ミレイが笑った。
俺も少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔に戻る。
この音声が本当にエドガー本人のものかは、まだ確認できていない。
録音された時期も不明だ。
それでも、内容は重要だった。
エドガーは、冷却系統を停止するなと警告している。
現在、施設の補助冷却系統には異常の兆候がある。
そして、赤竜の首輪にも、関連する可能性のある魔力の流れが確認されている。
次に何をすべきかは、はっきりしていた。
「明日、補助冷却系統の調査を進める。ただし、停止や解除はしない。セシリアの安全確認を受けながら、外から確認できる範囲を調べる」
「わかりました」
「レオンには、音声記録を監察局へ共有してもらう。ミレイは、八百年前の記録と今回の記録を時系列で整理。ガルドには、調査区画の安全確保を頼む」
俺は机の上の予定表に、明日の作業を書き込んだ。
その下に、もう一つ。
『給与申請の追加資料を提出』
これも忘れてはいけない。
俺は最後に、エドガーの音声記録をもう一度見た。
八百年前の男が、本当にまだどこかにいるのか。
それとも、残された記録だけが、引き継ぎを待ち続けているのか。
答えは、まだ出ていない。
だが、少なくとも一つだけ、わかったことがある。
この施設では、記録が途切れたからといって、仕事が終わったとは限らない。
報告が届かなかったからといって、問題が解決したとは限らない。
そして、担当者がいなくなったからといって、責任まで消えてくれるわけではない。
俺は深くため息をついた。
「……ミレイ」
「はい?」
「明日の朝、パンを多めに用意してくれ」
「調査が長引きそうだからですか?」
「違う。明日も役所から追加資料が来る気がする」
「そんな予感、当たらないといいですね」
「俺もそう思う」
異世界の未来は、相変わらず不透明だ。
ただし、明日の予定だけは決まっている。
冷却系統の調査。
八百年前の記録の照合。
エドガーの所在確認。
そして、給与申請。
魔王の心臓を封じる施設の管理者になった俺は、明日もまた、世界の危機と書類の山を相手に働くことになりそうだった。
おっさんの処世術
異常を見つけても、すぐに設備を止めない。 止めることで、別の重大な問題が起きる場合もある。
証拠は原本を守り、複製で共有する。 調査のスピードと記録の保全は両立できる。
記録がないことと、誰かが消したことは別。 原因を決めつけず、変更履歴や権限を確認する。
退職や処分の判断には、本人の状態と事実の確認が必要。 書類上の都合だけで人を扱わない。
大きな仕事でも、小さな生活でも、予定に書かなければ忘れる。 世界の危機と給与申請は、どちらも予定表に入れておく。




