過去からの返事かもしれない
朝、目を覚ますと、俺はまず自分の給料について考えた。
異世界に来てからというもの、魔王の心臓だの、黒竜だの、封印施設だの、普通の人生では履歴書に書く機会すらない単語が次々と登場している。
だが、どれだけ壮大な話になろうとも、腹は減る。
そして、腹が減るなら飯がいる。飯がいるなら金がいる。金がいるなら給料がいる。
つまり、俺の人生における最大の謎は、魔王よりも給与規定なのである。
「ゴトーさん、朝食の前に確認してほしいものがあります」
食堂に入るなり、ミレイが一枚の紙を差し出してきた。
「朝食の前に仕事の話をするのは、職場環境としていかがなものかと思うんだが」
「では、朝食の後にしますか?」
「いや、もう紙を見てしまった。気になって飯が喉を通らなくなる。巧妙な手口だな」
紙には、昨夜、原本台帳に表示された文言が書き写されていた。
『外周管理塔からの応答を待機中』
その下には、ミレイの細い字で補足がある。
『応答先の識別番号は未登録。接続開始時刻は不明。現在も接続状態が維持されている』
「つまり?」
「外周管理塔が、こちらの呼びかけに応答するのを待っている可能性があります」
「可能性、ね」
「はい。八百年前の通信記録が残っているだけかもしれません。あるいは、施設の自動機構が応答待機状態を維持しているのかもしれません」
「よし。じゃあ、行こう」
「えっ、すぐにですか?」
「返事を待っている相手がいるなら、まずは相手を確認する。返事が八百年前の録音でも、現在の誰かでも、確認するまでは同じだ」
俺はパンを一つつかみ、口に入れた。
「ただし、朝食は持っていく。現地調査で一番信用できないのは、空腹の人間だ」
ミレイは少し考えたあと、真面目な顔でうなずいた。
「合理的です」
「そうだろう。俺の前職は、たぶん食堂の注文係だったんだと思う」
「そんな職業でしたっけ?」
「今、作った」
こうして俺たちは、朝食を包み、外周管理塔の調査を開始した。
もちろん、俺一人では行かない。
レオン、セシリア、ガルドにも声をかけた。赤竜の首輪について調査しているセシリアには、施設の異常な魔力反応を確認してもらう。レオンには記録と調査手順の監督を頼み、ガルドには護衛を頼む。
ミレイは記録係だ。
俺は管理責任者。
肩書だけなら立派だが、実態は弁当持参の現場監督である。
*
外周管理塔へ向かう通路は、中央施設から離れるにつれて古びていった。
壁の装飾は剥がれ、床の金属板には細かな傷が走っている。天井の照明も、ところどころ明滅していた。
「この区画は、長期間使用されていなかったようですね」
セシリアが壁に手をかざし、魔力の流れを確かめる。
「使われていないのに、通信だけ生きているのか?」
「その可能性はあります。施設の機構は、すべてが同じ電力系統で動いているわけではありませんから」
「なるほど。会社でも、誰も使っていない古いシステムだけは妙に元気だったりするからな」
俺の前職の記憶が、また一つ異世界に適応した。
廃止されたはずの共有フォルダ。担当者が退職したあとも動き続ける自動処理。誰も仕様を知らないのに、止めると何が起きるかわからないシステム。
この世界の魔法施設は、思った以上に現代社会の縮図らしい。
「ゴトーさん、こちらです」
ミレイが立ち止まった。
通路の突き当たりに、厚い扉があった。
扉の中央には、円形の紋章。その下に、かすれた文字が残っている。
『中央封印施設・外周管理塔』
そして、その右側には小さな表示板が埋め込まれていた。
表示板は、淡い青色に光っている。
『管理者権限を確認してください』
「レベル五で開くのか?」
俺が管理者証を近づけると、表示板に文字が浮かんだ。
『管理者レベル:五』
『接続先:外周管理塔』
『通信状態:待機中』
『最終正常応答:記録なし』
「最後の一行が気になるな」
レオンが眉をひそめた。
「記録がないということは、最初から応答がなかった可能性もあります」
「あるいは、応答記録が消されたか、別の場所に保管されたか、だな」
「ゴトーさんは、すぐに不正を疑わないんですね」
ミレイが言った。
「疑うのは自由だが、疑いを事実として扱うのは危険だ。『記録がない』という事実と、『誰かが消した』という推測は別物だからな」
俺は管理者証を外した。
「まずは安全確認。それから開ける。セシリア、魔力反応は?」
「扉の向こうに、弱い反応があります。ただし、生物の反応かどうかは判別できません」
「罠の可能性は?」
ガルドが扉の縁を調べながら尋ねる。
「否定できません。少なくとも、扉の前で魔力を流し続けるのは避けたほうがいいでしょう」
「よし。全員、一歩下がる。レオン、記録を頼む。ミレイ、時刻と表示内容を控えてくれ」
俺はもう一度、管理者証をかざした。
「開錠要求。目的は施設状況の確認。危険があれば即時停止する」
表示板が一瞬だけ暗くなった。
続いて、低い音が通路を震わせた。
ゴウン。
扉の内部で、古い機械が動き始める。
だが、扉は開かなかった。
『確認事項があります』
「ほう。役所の窓口みたいなことを言い始めたな」
表示板に、新たな文章が浮かぶ。
『前任管理者補佐、エドガー・ヴァレンの職務状態を確認してください』
俺たちは顔を見合わせた。
エドガー・ヴァレン。
原本台帳に名前が残っていた、八百年前の管理者補佐。
退職処理は無効。補佐権限は有効。報酬支給は停止。
そして、停止理由は、管理者権限による保留。
「ここでもエドガーの名前か」
レオンが低くつぶやいた。
「この塔が、エドガーの職務状態を確認するまで開かないということですね」
ミレイは表示板を読み取った。
「ただ、本人が現在も職務を続けているとは限りません。単に記録の処理が完了していないだけかもしれません」
「そうだな」
俺は表示板に向き直った。
「現時点では本人の所在も状態も確認できていない。職務継続の有無は未確認。報酬停止の妥当性も未確認。確認が済むまで、どちらとも判断しない」
表示板が、しばらく沈黙した。
それから、文字が切り替わった。
『回答を受理しました』
『現管理者の判断を記録します』
『照合先:外周管理塔・勤務記録保管室』
今度こそ、扉が開いた。
*
中は、思ったより狭かった。
塔という名前から、俺は石造りの見張り台を想像していたのだが、実際には小さな制御室だった。
壁一面に古い計器が並び、中央には円形の机。その上に、透明な結晶板が置かれている。
窓はない。
外の様子を見るための場所というより、外周の設備を監視し、中央施設と通信するための場所らしい。
「電力はほとんど残っていませんね」
セシリアが計器を確認した。
「ただ、通信機構だけは最低限の稼働状態を維持しています」
「つまり、施設全体の稼働率が九パーセントでも、ここは通信だけ生きている可能性があるわけだ」
「はい」
「なんだか、うちの部署の電話だけは壊れなかったときのことを思い出すな」
「ゴトーさんの部署では、何があったんですか?」
「人も予算も減ったのに、電話だけは鳴るんだ」
「それは……大変ですね」
「異世界でも理解してもらえるとは、思わなかった」
俺は机の結晶板に近づいた。
板の表面には、細い線が何本も走っている。中央に触れると、文字が浮かび上がった。
『勤務記録保管室』
『最終更新:管理暦七百九十九年』
『未処理案件:一件』
『担当者:エドガー・ヴァレン』
「最終更新が七百九十九年?」
ミレイが小さく声を上げた。
「エドガーが記録から消えた時期と近いですね」
「近いだけだ。関連しているかどうかは、まだわからない」
俺は表示された項目を順番に確認した。
未処理案件の内容は、通常の文字では表示されなかった。
代わりに、結晶板の端に小さな鍵の形をした印が浮かんでいる。
『閲覧には本人確認が必要です』
「本人確認?」
レオンが周囲を見回す。
「エドガー本人がいなければ、閲覧できないということですか?」
「あるいは、本人が設定した確認手順が必要なのかもしれない」
俺が答えると、結晶板に別の文章が現れた。
『本人確認方法を選択してください』
その下には三つの選択肢が並んでいた。
『第一:本人の管理者補佐証』
『第二:本人が登録した音声記録』
『第三:本人の最終勤務報告』
「三つ目なら、記録を探せば何とかなるかもしれません」
ミレイが言った。
「そうだな。だが、まずは第一と第二の保管場所を確認しよう。本人の証明に使うものが、本人の記録を閲覧するために必要だなんて、なかなか面倒な仕組みだ」
「安全性を考えれば、妥当な設計とも言えます」
セシリアはそう言った。
「安全性は大切だが、運用のしやすさも大切だ。鍵を開ける鍵が、鍵のかかった箱の中にあるような仕組みは、担当者がいなくなった瞬間に詰む」
レオンが苦笑した。
「ゴトー殿は、魔法施設を役所の窓口のように評価しますね」
「どんなに神秘的な施設でも、最後は誰かが運用するんだ。運用する人間が困る仕組みは、いずれ誰かを困らせる」
俺は表示を記録し、結晶板から手を離した。
その瞬間だった。
室内の照明が、一斉に消えた。
「全員、動くな!」
ガルドの声が響く。
次の瞬間、結晶板だけが黒く光り始めた。
黒い光。
その言葉を聞いただけで、俺たちの頭には同じものが浮かんだはずだ。
補助冷却系統に残っていた黒い筋。
赤竜の首輪と施設の封印系統に見つかった、正体不明の接続。
だが、俺はすぐに結論を出さなかった。
「セシリア、魔力反応を確認。レオン、扉と通路の状態。ガルド、全員の安全を優先。ミレイ、表示を記録してくれ」
「はい!」
結晶板の中央に、文字が浮かび上がった。
『通信要求を受信しました』
『送信元:外周管理塔』
『送信者:エドガー・ヴァレン』
俺は息を止めた。
八百年前に記録から消えた男。
退職処理は無効のまま、報酬を止められていた男。
その名前が、今、目の前に表示されている。
しかし、俺は喜ぶより先に、表示の詳細を確認した。
「送信時刻は?」
ミレイが結晶板の端を確認する。
「時刻情報がありません」
「音声か映像は?」
「まだ届いていません。通信要求だけです」
「送信元の実在確認は?」
セシリアが首を横に振った。
「現時点ではできません。自動送信された古い記録である可能性もあります」
そうだ。
名前が表示されたからといって、本人がそこにいるとは限らない。
古い記録が自動的に再送されたのかもしれない。何らかの機構が名前を偽装している可能性もある。あるいは、本当に誰かが通信を試みているのかもしれない。
どれも、まだ可能性の段階だ。
俺は結晶板に向かって、慎重に言葉を選んだ。
「こちらは中央封印施設の現管理者、ゴトーだ。通信要求を受信した。送信者の本人確認は未完了。現在の状態と、通信の目的を確認したい」
返事はなかった。
数秒。
十秒。
結晶板の黒い光が、わずかに揺れた。
そして、文字が一行だけ浮かび上がった。
『管理者権限を確認しました』
続いて、もう一行。
『ようやく、引き継ぎの相手が来た』
俺は結晶板を見つめた。
これは、誰かが今入力した言葉なのか。
八百年前に残された記録なのか。
それとも、俺たちが知らない仕組みが、古い言葉を繰り返しているだけなのか。
わからない。
わからないことだらけだ。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺は、引き継ぎを受けた覚えがない。
給与規定も、施設の歴史も、魔王の心臓の管理方法も、正式な説明を受けていない。
それなのに、八百年前の誰かが、俺を引き継ぎ相手と呼んでいる。
「……レオン」
「はい」
「この施設の引き継ぎ書、どこにあると思う?」
「原本台帳ではないでしょうか」
「そうだよな。俺もそう思う」
俺は深く息を吐いた。
「問題は、引き継ぎ書を読む前に、引き継ぎ相手から通信が来てしまったことだ」
ミレイが、緊張した表情のまま言った。
「ゴトーさん。どう返事をしますか?」
俺は結晶板に手を伸ばす前に、全員を見た。
「まず、こちらの情報を必要以上に渡さない。相手の本人確認を進める。通信記録は保存する。異常があれば、すぐに切断できる手順を確保する」
「慎重ですね」
「当然だ。知らない相手から『引き継ぎの相手が来た』と言われて、いきなり業務を全部引き受ける会社員がどこにいる」
俺は少し考えてから、結晶板に告げた。
「引き継ぎを受ける意思はある。ただし、内容と責任範囲を確認してからだ。まず、あなたの現在の状態を教えてほしい」
結晶板は、再び暗くなった。
しばらくして、返答が表示された。
『現在の状態:回答不能』
『理由:勤務記録と実体情報の不一致』
俺は眉を寄せた。
実体情報の不一致。
つまり、記録上のエドガーと、現在の何かが一致していないということか。
それとも、本人が存在するかどうかすら、システムには判断できないのか。
次の一文が表示された。
『補足情報を送信します』
結晶板に、細い線が走った。
その線は、中央から外周へと伸び、途中で二つに分かれた。
一つは、俺たちが立っている外周管理塔。
もう一つは、中央封印施設のさらに地下。
魔王の心臓が封じられている区画だった。
そして、最後に短い警告が浮かび上がった。
『補助冷却系統を確認してください』
『前回と同じ兆候が発生しています』
室内の空気が、急に重くなった気がした。
ミレイが小さくつぶやく。
「前回……。八百年前の記録にあった、黒い筋のことなのでしょうか」
「可能性はある」
俺は結晶板から目を離さずに答えた。
「だが、まだ同じ現象だとは断定できない。まずは現在の冷却系統を確認する。記録と照合する。赤竜の首輪との関係も、セシリアに調べてもらう」
レオンがうなずいた。
「王立封印監察局にも共有します。通信の送信元についても調査が必要です」
「頼む。ただし、確認できた事実と推測は分けて報告してくれ」
俺は結晶板に向かって、最後に一言だけ伝えた。
「エドガー・ヴァレン。あなたが本当にそこにいるのなら、こちらは記録を調べる。あなたの職務状態も、報酬の停止理由も、確認したうえで判断する。だが、まだ何も確定していない。返答を待っていてほしい」
今度は、すぐに返事があった。
『了解』
たった二文字だった。
そのあと、結晶板の光は消えた。
*
中央施設へ戻る途中、俺は次の仕事を頭の中で整理していた。
一つ、補助冷却系統の現状確認。
二つ、八百年前の黒い筋の記録との照合。
三つ、赤竜の首輪との関連調査。
四つ、エドガー・ヴァレンの本人確認方法の確保。
五つ、勤務記録と報酬停止の経緯の調査。
六つ、王立封印監察局への報告。
七つ、管理局への給与申請の進捗確認。
「最後の項目だけ、急に現実的ですね」
ミレイが言った。
「現実的な問題は、放っておくと現実に困るからな」
「魔王の心臓よりもですか?」
「魔王の心臓は封印が弱まれば、みんなが困る。給料が止まれば、俺が困る。規模は違うが、どちらも放置はできない」
俺は空になった弁当包みをたたんだ。
「それに、給料が出ないと、いずれ食料も買えなくなる。食料がなくなれば、調査する人間がいなくなる。そうなれば、魔王の心臓だって困るだろう」
「……一理あります」
「だろう?」
そのとき、施設の通信端末が鳴った。
管理局からの連絡だった。
俺は少しだけ期待して、端末を開いた。
『管理者報酬に関する申請について』
『追加資料の提出をお願いします』
俺は無言で画面を閉じた。
「ゴトーさん?」
「いや。八百年前の謎より先に、今月の生活が謎になりそうだと思ってな」
異世界の歴史は、少しずつ動き始めている。
八百年前の管理者補佐が、いまも引き継ぎを待っているのかもしれない。
封印施設の奥では、何かが再び動き始めているのかもしれない。
だが、俺は知っている。
大きな問題ほど、まずは目の前の確認から始めなければならない。
そして、確認作業には時間がかかる。
時間がかかる仕事には、担当者が必要だ。
担当者には、飯と給料が必要だ。
――だから、管理局の皆さん。
頼むから、俺の給与申請もそろそろ確認してくれ。
おっさんの処世術
名前が出てきただけで、本人だと決めつけない。 記録、証言、現状を照らし合わせる。
わからないことは、わからないまま記録する。 推測を事実に変えると、あとで修正が大変になる。
大きな問題ほど、作業を小さく分ける。 調査項目を整理すれば、何から手をつけるべきか見えてくる。
引き継ぎは、責任範囲を確認してから。 「とりあえず全部よろしく」は、たいてい後で揉める。
安全確認と生活の維持は、どちらも仕事の一部。 使命感だけでは、現場は長続きしない。




