2-2-1
宿を出たボクは、朝の冷たい空気を吸い込みながら、市場の喧騒の中へ足を踏み入れた。空はまだ薄暗く、ランタンが軒先にかかっている。 幻想的な光景だ。 活気ある掛け声と焼き立ての香ばしい香りが広がっている。
匂いに引き寄せられるように屋台の一角で足が止まった。炭火でじっくり焼かれた串焼きが、肉汁を滴らせながら並んでいる。香ばしい煙が漂ってきて、思わず腹の虫が鳴る。昨日は夕食を果物だけで済ませたから、今はがっつりしたものが食べたい。今日はこれでも買っていくか。「それ、頂戴」
指差し、三本注文した。御者と同乗者のティリスの分もだ。食べなければ、自分で食べればいいしな。
「あいよ」
考え事をしていると、木の葉に包まれた熱々の串を手渡される。うーん、美味しそうだな。
「三本喰うのかい? 男の子には多いんじゃないか?」
「ボク結構大食いなんだ」
男の子、ねぇ……。この世界のいったい何がそうさせているのか。男性、と言うものは一様に虚弱な存在として認知されている。肉体労働はおろか、結婚すれば家から出ない男性もいるほどだ。
好奇心交じりの店主の視線を受けながら、屋台をあとにする。肉汁と香草のシンプルだが暴力的な香りが鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。早く食べたいな。
馬車へ向かう道は、まだ朝の湿気を含んだ冷たい空気が漂っていた。市場を抜けると、徐々に人影がまばらになり、石畳の道が続く。ボクは串焼きを片手に歩きながら、馬車の待つ場所を目指した。
通りの脇では屈強な女性たちが朝の仕入れを終え、重い荷物を軽々と担いでいる。
早歩きでしばらく道を進んでいると、馬車が視界に入る。御者は馬の世話をしており、ボクに気づくと手を挙げた。
馬車の御者に挨拶しながら、「これよかったらどうぞ」と手渡すと、御者はフードの奥で目を細めて受け取った。
「…!」
鼻をひくひくと動かし、串焼きの匂いを堪能しているようだった。手にした串をそっと抱えるように持っている。
馬車に乗り込み、昨日座っていた位置に腰を落ち着ける。ティリスはまだ来ていない。
革張りのクッションに尻を埋めながら、昨日の夜のことを思い出す。中々いい出会いだった。初めての商売も成功。言うことなしだ。 自分の欲望も満たせて、金も貰えて、人間関係の後腐れもない。
良いね。
新しい街でもこんな調子でやっていければいいな。目を閉じて、しばし止まった馬車の中で呼吸を整えた。
扉が開かれて、軋む音とともに冷たい朝の空気が流れ込んできた。ティリスがゆっくりと乗り込んできたのだ。彼女の動きはどこかぎこちない足取りだ。
「おはよう、ティリス」
「あ…」
ボクの声を聴くと、一瞬ボクの目を見たが、すぐに視線をそらして自分の席に座り込んだ。
「…おはようございます…」
暗い声だな。なんだか 顔色も冴えない。
「あまり元気ないね」
「……ちょっと、眠れなくて」
「もしかして、旅先だと眠れなくなるタイプ? 結構繊細なんだね」
「あ、…はい、そうなんです。あは」
ボクの言葉にティリスは取り繕ったような返事を返して、窓の外をじっと見つめている。
「その様子じゃ、朝ごはん食べてないよね。これどう? 一緒に食べようかなって買ってきたんだけど」
ボクは軽く串焼きを持ち上げて見せた。だが、ティリスはちらりと視線を寄越すだけで、すぐに俯いてしまった。
「……大丈夫です」
…これは要らないの方の「大丈夫です」かな。
「そう?」
要らないならしょうがない。食欲ないのだろうか。それとも、肉というのは朝から重すぎたか。それじゃあ、二本とも食べるか。少し冷めてるので、肉汁の熱が薄れて、香りも落ち着いてしまっている。それでも塩と香草の風味が広がり、噛むたびにじんわりと旨味が滲み出してくる。美味しい。
ボクが串肉を食べていると、見送り人がベルを振り、澄んだ音が朝の空気に響く。馬車がゆっくりと動き出し、市場の喧騒が遠ざかっていく。
会話がなくなり場を沈黙が支配する。ボクは間を置いてまったく関係のない話題を振ってみる。
「そういえば、凄い話聞いちゃったんだ。カタクラに透明化の服を売ってる魔道具屋があるんだって。透明化って知ってる? おとぎ話の付呪だよね。すごくない?」
「…」
彼女はテンポが遅れてこちらに顔を向けると、 まるで聞いていなかった様子で「……あ、そうなんですね」と呟いた。
「…でもね、それ外套じゃなくて、布地が足りなくて下着サイズなんだって。あははは。透明化下着だって。誰が買うんだろうね」
「……はい」
「…………」
「…………」
「…………」
思わず馬車の天井を見つめた。昨日仲良くなれたと思ったのに、彼女のよそよそしい態度の理由はなんだろうか。何も思い当たる節はない。体調不良か何かだろうか。
「……あの」
唐突にティリスが口を開いた。思いつめたような、縋るような目でボクを見ていた。
「……み、見間違い、だと思うんですけど」
「……?」
「ユーニさん、き、昨日……その……夜に道端で……」
言いかけて、喉に詰まったように沈黙する。馬車の軋む音だけが続いた。
やがて絞り出すように言葉が落ちる。
「……女の人と、一緒に歩いたり……なんかしてないですよね?」
「――――」
ごくん。咀嚼した肉を呑み込む。
――なるほど。昨日エリハルと一緒に歩いているところを見られてたのか。
どう言い繕おうか。と、一瞬考えを巡らせるが、……うん。別にやましいことはないよな?
体を売るというのも、立派な商売だ。仕事なんだから、取り繕って嘘をついたりする必要は無い。
「昨日、女性と一緒に歩いたよ。高めの宿が並んでる辺りだったかな」
「――っ」
ティリスは目を見開き口をパクパクさせて何か言おうとするが、声にならない。金魚みたいだ。
「……で、でも、女の人と往来で、ふ、ふしだらなことをしたりなんか、してないですよね?」
ふしだら……。
どこまでがふしだらと言っていいのか、昨日のことを思い返す。酒場から出て、手を繋いで、腰に手をまわして……。
あれは、果たしてふしだらな行いだっただろうか? 線引きがいまいちよくわからない。
「ふしだらな行いって、具体的にどこまでの行為のこと?」
ティリスが両手で耳まで真っ赤にして言葉を詰まらせる。
「ふ、ふしだらというのは……その……」
「キスとか?」
「そ、そうですね。口づけは、ふしだらな行為です」
確かに。道端でいちゃつくカップルなんかは目に毒だ。公の場では節度を守れ。家でやれ。納得できる。
「あとは……、その……り……とか」
「え?」
ただでさえ小さいティリスの声が、口元を押さえてさらにくぐもる。まるで蚊の鳴くような音で、馬車の音に紛れて全然聞き取れない。
何度か聞き返すと、とうとう彼女は顔を真っ赤にして、羞恥に耐えるように絞り出した。
「……体を、触りあったりとか」
「まさか。往来でボクはそんなはしたない真似しないよ」
ボクは彼女の目をまっすぐ見ながら断言する。
……あれ? 本当にしなかったよな? お酒も入っていたし……初めての商売だったから、なんか思い出せないな。
ティリスはしばし言葉を失ったまま、視線を泳がせていた。
「そ、そうですか……えっと、すると、昨日一緒にいた女性というのは、どなただったんですか?」
「彼女はお客さんだよ」
「お、お客さん……ですか」
ティリスは一瞬きょとんとした顔をしたあと、ふっと肩の力を抜いた。胸に手を当てて小さく息をついた。
「……あ、商売か何かの……お客さんってことですか」
拍子抜けしたように呟いて、胸をなで下ろす。眉間の皺も消えて、安堵の笑みすら浮かべていた。
「よ、よかった……。あ、あはは、そうですよね。ユーニさんがそんなふしだらな真似するわけないですもんね。すいません、私なんか勘違いしてたみたいで……」
その瞬間――ぐぅぅぅ、と彼女のお腹が盛大に鳴った。
「……!」
彼女の顔が再び赤くなる。忙しい顔だな。
「あはは……やっぱりお腹すいてたんだね」
ボクが手を付けていなかった串焼きを掲げて「食べる?」と聞きなおすと、ティリスは恥ずかしさを誤魔化すようにうなずいた。
おずおずと受け取ると、ぱくりと一口頬張った。肉を噛むたびに、ティリスの表情が少しずつ緩んでいく。
「冷めちゃってるよね」
「い、いえっ……おいしいですっ……」
頬張りながら、緑の瞳を輝かせる。ほっとしたのか、彼女は思い出したようにボクに頭を下げた。
「す、すいません……こんな親切なユーニさんが、あんなことするわけないですよね。わ、わたし、大変失礼な誤解をしていて……」
「ん? ……まぁ、気にしなくていいよ」
誤解ってなんだろう?
ボクが軽く流すと、ティリスは口をもごもご動かしたまま、遠慮がちに問いかけてきた。
「そういえば、そのお仕事って、どんなお仕事なんですか?」
「男娼だよ」
「げぇっほ! げほぐへっ!」
「だ、大丈夫……?」
ティリスが突然、むせ返るように咳き込んだ。 驚いて見ると、顔を真っ赤にして、喉を押さえている。……肉、詰まらせた? また顔を真っ赤に染めたかと思うと、次第に血の気が引いたみたいに青ざめていく。やば。マジじゃないか。
「ちょ、ちょっと、息できてる!?」
彼女の背中に回り込み、肩甲骨のあたりを叩く。
一発、二発――反応がない。三発目、四発目で、喉の奥から「ぐっ」と音がして、 串焼きの肉がぽとりと馬車の床へ転げ落ちた。おぉ……結構大きいのが詰まってたな。そりゃ詰まるわ。安堵の息をつくと、ティリスは「ぜはー、ぜはー」と荒い呼吸を繰り返し、涙と涎と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
ひどい有様だけど、ちゃんと息はできている。よかった。
「ユ、ユーニざ、ん……」
「うん、本当、大丈夫? ほら、水、飲む?」
水筒を差し出すと、ティリスはそれを慌てたように受け取り、一気に喉を鳴らして飲み干した。
……水、全部飲まれた……。まぁ、いいけど……。
やがて呼吸を整えたティリスは、袖で涙と鼻水をぐいっと拭い、こちらに向き合うと口を開いた。
「ユーニさんは不潔です!!!!」
おぉ……。
飛び出したのはまさかの一言だった。
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