4-9-2
次更新9月24日
しゃっ しゃっ
刃が砥石を渡った。
ティリスは剣を返し、反対側にも同じだけ石を当てた。傍らの桶で指を濡らす。砥石に水を足すと、また低い擦過音が続いた。
梁から三人の女が吊られていた。手足と胴を縄に取られ、足先が床から浮いている。傷口には包帯が巻かれていた。身じろぎするたびに身体が揺れ、隣の女へ肩が触れた。
部屋には窓がない。厚い扉は閉じられ、町の喧騒も届かなかった。工房から運び込まれたときに一人が喚いたが、外から応じる声はなかった。
腿に包帯を巻いた女がメッケを見下ろした。アゴで自分の吊り縄を示す。
「おいおい。冒険者ギルド様が、こんなことしていいのか?」
隣の女が鼻で笑った。
「衛兵の真似事か? 人を吊るして取り調べか?」
「上に知れたら困るんじゃないの。なあ、ギルド長さん」
メッケは小卓に紙を置いた。角を揃え、筆にインクを含ませる。
「なに黙ってんだよ。足がいてーんだよ、あんたんとこの冒険者に刺されたこの脚がさぁ」
「あたしらは善良な一般市民だぜ。市民を冒険者が傷つけたなんて知られたら大ごとだよなぁ」
メッケは三人を見た。
「もう一度聞くぞ。誰に雇われた」
腿に包帯を巻いた女が口の端を曲げた。隣の二人を見る。
手首にも包帯のある女は顎を上げたまま答えない。もう一人はメッケの肩越しに扉を見ていた。
「名前も言えん相手か」
「知らねーって言ってんだろ」
女の口が閉じた。それ以上喋るつもりはなさそうだった。
砥石を擦る音が続いた。
「わしは回りくどいのは嫌いでの」
扉の向こうで甲高い鳴き声が聞こえたかと思うと、エリハルが豚を抱えて倉庫に入ってきた。腹の下へ片腕を回し、もう一方の腕で押さえている。豚は四肢を突っ張り、首を振って暴れた。
エリハルは豚を抱え直し、足で扉を閉めた。三人の前を横切り、梁から垂れた縄の下へ豚を運ぶ。
メッケが小卓から顔を上げた。
「そこへ吊れ。桶は下にある」
エリハルは豚を押さえたまま、前脚の付け根に縄を掛けた。引き上げられた胴が宙で捻れ、尻が下になる。豚はなおも脚を振り、部屋中に鳴き声を響かせた。
三人の女がそれを見ていた。豚の吊り縄を目で辿り、自分たちを吊っている梁へ視線を移す。
エリハルが大きな桶を豚の下へ寄せた。底が床を擦った。
腿に包帯を巻いた女が口を開いた。声は出なかった。
「ティリス。どないや」
「も、もうできます」
ティリスが布で剣を拭った。
ここへ来る前に工房の件は聞いていた。
ティリスは立ち上がり、梁と壁までの間を測ると、気に入らなかったのか桶の位置を少し直す。三人には何も尋ねなかった。
「そちらへ下がっていただけますか」
エリハルが一歩退いた。
三人も身を引こうとした。逃げ場のない身体が揺れ、縄が軋んだ。
ティリスは柄を両手で握った。正面に豚を据えると、先ほどまで落ち着かなかった目が止まった。
「なんて名前やったっけ?」
「腸落としです」
ティリスの足が踏み込み、目にもとまらぬ速さで剣が豚の股へ撥ね上がる。
小さく硬い音がした。刃は骨盤と腹膜だけを破り、浅いところで止まった。腹の形は崩れない。
血が先に桶を打った。遅れて内臓物が濡れた音を立てて桶に入った。
ティリスは剣を引いた。足を戻し、刃先を下げる。
豚はまだ生きていた。
首を振り、脚で宙を蹴っていた。
女達はそれを見ていた。口が開いたままになっている。
隣の女が顔を背けた。身体も一緒に回りかけ、縄に引き戻された。
メッケは筆を持った。エリハルは豚の揺れを見てから、三人へ向き直った。
「さあ、どいつからいこか」
「わかった! 喋る! 喋るから!」
「あたしは何も決めてない、雇ったのは鳥籠の――」
「待ってくれ、あたしから聞いてくれ!」
「一人ずつじゃ」
綺麗な手の平返しだった。
三人の声が途切れた。腿に包帯を巻いた女が唾を飲み込み、もう一度何か言おうとした。息だけが漏れた。
豚の荒い息が続いていた。
メッケはエリハルへ顎を向けた。
「そっちはもう締めてやれ」
エリハルが頷いて豚のかたわらへ戻る。メッケは筆を取り、手首に包帯を巻いた女を指した。
「お前じゃ。いま何と言った」
「鳥籠。鳥籠の仕事だって」
「それは仕事の名か? 雇い主の名か?」
「雇い主だ。鳥籠、そう呼んでる。妙な連中なんだ。顔も見せねえし、何人いるかもわからねえ」
筆が紙を走った。
残る二人が口を開きかけた。メッケは指を立てたまま目だけを向ける。
二人は口を閉じた。
「何をする仕事じゃ」
「男を捕まえて、あそこへ入れとく。受け取りが来たら渡す。それだけだ」
「どの男でもええんか?」
エリハルが尋ねた。女は勢いよく首を振る。
「言われた奴だけだ。勝手にはやらない。今日の男も、予定になかったんだが、突然声がかかって捕まえろって言われたんだ。冒険者なんて、知らなかったんだ」
「何であいつやったんや」
「知らねえよ。連中が決めることだ。ただ、いつも店のねえ奴だ。ギルドにも入ってねえ、消えても探す奴がいねえのを選ぶ。あいつもそうだと聞いた」
「探す奴がおらん、な」
エリハルはそれだけ言った。
「捕まえてからは?」
「逃げないように見とくだけだ。絶対に傷をつけるなって。騒がせるなとも言われた」
「袋と縄はそのためか」
女が頷いた。縄が揺れる。止めようとして顎を引き、それから小さく「そうだ」と答えた。
メッケはそちらへ筆の先を向けた。
「次はお前じゃ。あの工房で暮らしておったのか」
「違う。仕事があるときだけだ」
「捕まえた男もずっと置くわけではないな」
「受け取りまでだよ。ずっと面倒を見る金なんてもらってない」
言い終えてから、女はエリハルを見た。
エリハルは何も言わなかった。豚はもう動かない。女は顔を伏せ、自分の腹に掛かった縄へ視線を落とした。
「誰が受け取りに来る」
「向こうの奴だ。あたしらとは別の」
ティリスが新しい桶を運んできた。女の足の下へ置く。
「ひぃ」
女の喉から声が漏れる。桶は空だった。
メッケは筆を持ったまま問いを続けた。
「名は」
「し、知らない!」
ティリスが立ち上がった。女は足を縮めたが、桶は真下にあった。
女は顔を跳ね上げた。
「本当だ! 名乗らないんだよ! こっちも聞かなかった!」
「うむ。今はこっちを見て答えい」
メッケは女の目が戻るまで待った。
「引き渡した後はどこへ運ぶ」
「知らない。渡したら帰っていい。それで終わりなんだ!」
「ついて行ったことは」
「ない!! 探ったらこっちの身が危ないんだ! 雇った奴に聞いてくれ! あたしらじゃなく、そいつなら!」
「では、そいつはどこにおる」
「し、しらねぇよ!」
女の視線が隣へ逃げた。隣も首を振った。
「奥で叫んでおった子供は」
「女が連れてきた。男が来たら突き出せって、それだけだ」
「どこの子じゃ」
「知らねえ。あの日に初めて見た」
エリハルが小さく頷いた。あの子から聞いた話と同じだった。
「上の部屋に女がおったな。あれは誰じゃ」
「上……? わ、分からない。上に誰か入って来ても、こっちには何も」
「とぼけんな。お前らの仲間やろ」
「あたしらは下だ。上で何をするかまで聞いてないんだ!」
エリハルが腰に手を当てる。
「もう、いいかの」
「……た、助けてくれーーーー!」
メッケが筆で指す。
ティリスが剣を構える。
女は首を振った。吊り縄が捻れた。
刃が振られた。
叫びが途切れた。切れた布が桶へ落ちる。
女の服だけが裂けていた。肌に傷はなかった。
「お見事じゃな」
メッケが感心した声を漏らした。
女は口を開けたまま身体の力が抜け、縄に重みが掛かった。失神しているのだ。
◇
じゅうじゅう、と脂の焼けるうまそうな音があたりに響く。
小さな火が網の端を舐める。エリハルが串で腸を転がすと、焦げた面から香ばしい匂いが立った。
ギルドの裏庭に卓を出していた。夜風が煙をさらい、台所の勝手口から漏れる灯が足元の土を照らしていた。
卓の中央に小ぶりな陶製の炉が据えてあった。中で炭が赤く熾り、口に渡した網の上でホルモンが縮んでいる。三人は炉を囲んで椅子を寄せ、それぞれ串を手にしていた。
「そっちはもうええで~」
エリハルに言われ、ティリスが網から一切れ取った。
歯を入れると弾力が返った。もう一度噛む。塩と熱い脂が口に広がった。「うーん、美味しいです」
メッケは焼けたものを皿へ移し、空いた場所へ次を置いた。
「鳥籠か」
「名前だけじゃわからんなぁ。もうちょい詳しく効いてみんとなぁ」
「まぁ、一度喋ったら」
エリハルが答える。メッケは腸を一切れ口へ運んだ。
はふはふと、
「……上にいた連中が本命じゃろうな。思ったより狡猾じゃぞ」
「本人らも連れてってもらわれへんのやったらなぁ」
メッケが頷いた。
ティリスはまだ口を動かしていた。飲み込んでから姿勢を正す。
「つ、次は何を調べるんですか」
「連中からは口のうまいやつに他の情報を聞かせておく。あの工房を扱った不動産屋じゃ。明日はエリハルとわしで行く……手がかりがあるかは……まぁ、行ってみてからじゃな」
メッケは卓の端に置いた紙を引き寄せた。工房を仲介した店についての書きつけだった。
エリハルが皿をどかす。メッケは紙を脂の届かぬところへ広げた。
「貸した者と借りた者を確かめる。捕らえた三人が何をしておったかも話す。使わせた事情を聞かねばならん」
「すんなり教えてくれるとええけどな」
「なぁに、人間真摯に尋ねれば、誠意は通じるもんじゃよ」
ティリスが二人の顔を順に見た。
皿の上に串を置く。背を伸ばしたまま一度口を閉じ、改めてメッケへ向き直った。
「わ、私もご一緒してよろしいでしょうか」
「明日か?」
「はい。こういう仕事は、まだよく分かりませんので。お二人がどうお話をなさるのか、見て覚えたいです」
エリハルは網の上から視線を上げた。
「ええんちゃう。冒険者やってりゃこういう鉄火場は日常茶飯事や……新人研修にはもってこいやろ」
「……今日は研修ではなかったんですか」
「あれはお前が教える側や」
メッケも頷き、紙を三人の間へ向けた。
「ならば朝にここへ来い。店が開く頃に着くよう出る」
「は、はい。ありがとうございます」
ティリスは皿を見下ろし、小さく頷いた。
「まぁ先ほどのは見事な技じゃったな。腹を破らずに腸だけ落とすとは」
「ほ、骨盤と腹膜だけを破るように教わりました。深く入れすぎてもいけないので」
「ほう。力任せというだけではないのじゃな、……しかし、どういうときに使うんじゃ?」
「多数相手の時に使います。斬り伏せるよりも戦意を落とすのにもってこいなので」
「……血なまぐさいのー」
エリハルが網の端に残ったものを裏返す。メッケは翌朝の待ち合わせ場所を確かめ、書きつけを畳んだ。
「明日はわしが先に話す。お主は横で聞いておれ」
「わ、分かりました。剣は、もう一度研いでおいた方がよろしいでしょうか」
「研いでおいて損はないじゃろうな」
メッケは畳んだ紙を懐へしまうと、ティリスは膝に手を揃えた。
「あ、明日はご指導よろしくお願いします」
エリハルは残りの一切れをティリスの皿に載せ、口の端を上げた。
「あぁ、ティリス。今夜はユーニちゃんと約束あるんやろ。腰いわして、明日来られへんとか言わんといてや」
「わ、わかってますってば!」
ティリスは最後の一切れを口に入れた。食べ終えると皿を寄せ、剣を背負って立ち上がった。
「そ、それでは、お先に失礼します」
「おう。また明日な」
ティリスはメッケにも頭を下げ、裏庭を出ていった。靴音が遠ざかる。
メッケは空いた椅子からエリハルへ目を移した。
「随分と目をかけておるな」
「ティリスか?」
「お前が新人を連れ歩くとはの」
エリハルは串を置いた。
「ああ。あれは伸びるで」
メッケが片眉を上げた。
「ほう、珍しいな。お前が人を褒めるのは」
「Bは軽々……場数踏ましたら、相当なもんになるわ」
エリハルは空いた椅子を見た。
「そいつは楽しみじゃな」
メッケは炉の炭を寄せた。赤い火が灰の下から覗いた。
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