4-9-1
机の引き出しを抜くと、奥で乾いた木屑が転がった。
指を入れて裏まで探る。紙一枚引っかからない。底板を押しても動かなかった。
外した引き出しを戻し、隣も開ける。こちらには埃しかない。
用心深い連中だな。何にもないや。
ボクは机の下から頭を出した。
上階の部屋には椅子が一脚と小さな机がある。下の作業室を見下ろせる横長の窓には、こちらから近づくと顔が映った。窓の下へ屈んでみる。
なるほど。ここなら床で暴れている相手からは見えにくい。
さっきボクを囲んでいた三人の立ち位置も、奥の出口もよく見えた。品定めにはちょうどいい席だ。呼びもしないのに見物に来ていたわけだし、捕まえる側と無関係とは思えない。
椅子の座面と裏を確かめて立ち上がる。壁際にも足元にも落とし物はない。
逃げた女の声なら覚えている。もっとも、覚えているのは矢を射たときの短い悲鳴だ。通りで会った女に片っ端から悲鳴を上げてもらうわけにもいかない。
裏の小扉が開いた。
エリハルが身を屈めて入ってくる。肩に付いた埃を払い、扉を足先で寄せた。
「裏はどうだった?」
「隣の屋根から路地へ下りられるわ。そこから先はあかんな」
「逃げる方も考えてたんだね」
「ええ場所選んどる。腹立つけどな」
追いかけたところで、もう路地を出ているかもしれない。顔を知らないボクらには、通行人に混ざられるだけで厄介だ。
エリハルは部屋へ一歩入ったところで鼻を動かした。
小さく二度、くんくんと嗅いでいる。
「香水の匂いがするなぁ。ユーニちゃん、つけてる?」
「いいや」
仕事の最中に匂いのつくものは使わない。斥候のたしなみだ。
古い木と埃の匂い。気を付けてみると確かにその奥に少し甘いものがある。階下の血と湿った桶の臭いに気を取られて、意識していなかった。
エリハルは椅子の脇へ寄った。窓から来た風に髪が揺れる。
「セレムやな」
「花?」
「木や。香りのええ木があるんよ。削ったんを焚いたりもする。……でもこれは精油やな」
ボクも隣に立ってみる。
甘いけど、お菓子みたいな匂いではない。落ち着くような、少し重たいような。名前を聞いたから木の匂いに感じるだけかもしれないけど。
「それだけで分かるんだ」
「特徴ある匂いやからな。せやけど、これだけやないで。ほかにも混ざっとるなぁ」
「ほかは?」
「そこまでは……。うちは香水屋やないし」
エリハルはあっさり首を振った。
分かるところだけでも十分だ。
もう一度嗅いでおく。しばらくすると甘さが分からなくなった。鼻が慣れるのが早い。
「こっちは?」
「空っぽ。誰が使ってたか分かりそうなものはなかった」
「几帳面なこっちゃ」
エリハルは開いた引き出しを覗き、椅子にも目をやった。
顔を上げると、エリハルがまた鼻を動かしていた。
「おや。ほかにも匂いがするなぁ……どこからや……」
くんくんと嗅ぎながら、椅子の周りを一回りする。机の上へ鼻を寄せ、引き出しの口も嗅いだ。
ボクは黙って見ていた。さっき香水を言い当てた鼻だ。まだ何か拾えるのかもしれない。
「この匂い……出所は……」
鼻先が机から離れ、こちらへ向いた。
鼻がコートの襟に触れた。そのまま首筋まで上がってくる。息が当たってくすぐったい。
「ユーニちゃんの匂いか」
「何やってるんだよ」
思わず笑ってしまった。額と額がつきそうな距離だった。
「さっきほんまに心配したんやで」
言いながら体を寄せてくる。
ボクの背中が机の縁に当たった。
「扉の向こうで音がして。最初、呼んでも返事せえへんし」
「返事する余裕がなくてね」
エリハルはほっとしたように笑った。
それからボクの頬に手を添えた。目が真剣だ。
「……密室に男と女二人きり、やな……」
「何を言ってるんだ」
「に”ゃっ!」
乳首をつねって距離を離す。「何も起きないはずがなく」じゃなくて。
そんなことしてる暇はないだろう。下には、襲撃者とはいえまだ3人けが人がいるんだ。
「先っちょだけ……! 先っちょだけやから……!」
真剣な顔で言うことか。
ボクは首を横に振り、階段へ向かった。
◇
階下ではギルドから来た人たちが三人の手当てをしていた。見張りを頼み、ボクらは荷受け場まで戻って残りを調べた。
奥の棚に畳んだ麻袋が積まれている。一枚引き出すと、ざらついた繊維が指に擦れた。大きな袋だ。底の縫い目も口の縁もほつれていない。
その横には縄が巻いてあった。手に取って少し解く。湿ってもいないし、引いても崩れない。
「こっちは新しいね」
棚の下には使い古した桶がある。外れかけた箍の周りまで色が染みついていた。袋にも縄にも、そんな汚れはない。
店を畳むときに全部置いていった、という感じではなかった。
「まだ使う気ぃやったんやろな」
「染物にはつかわなさそうだね」
袋だけなら荷物を入れるものだし、縄だけなら荷を縛るものだ。これを持っているだけで悪人なら、街の荷運びは全滅するが。
袋の口を両手で広げてみた。ボクなら、膝を抱えれば入りそうだった。試したくはないものだ。
「上の女も、ここでボクを見るつもりだったのかな」
「あの窓から?」
「うん。わざわざあそこにいたわけだし」
エリハルが奥の作業室へ目を向ける。
「何しに来たんか、下の連中に聞かなあかんな」
ボクは袋を畳み直した。
上で何も拾えなかったからといって、建物まで捨てて考えることはない。誰の持ち物で、誰に使わせていたのか。自分で建てたのでなければ、鍵を渡した相手くらいいるはずだ。
縄と袋の場所を伝え、三人の見張りと移送もギルドの人たちへ引き継いだ。傷の手当てはこのまま続けてもらえるという。
◇
「頼んだそばから早速、手掛かりを得るとはな。さすがじゃ、エリハル」
ギルドの部屋へ入るなり、メッケが顔を上げた。
ボクは机の前の椅子へ座った。
隣でエリハルが槍を壁へ立て掛ける。
「うちやないで」
「ん?」
「痕跡見つけたんも、三人倒したんもこの子や。うちが入ったときには終わっとった」
メッケの目がこちらへ移った。
「一人で三人か」
「向こうが油断してくれたからね」
「ようやった。お主はB級のユーニじゃな」
「ご存じでしたか」
「お主は有名人じゃからな。早速、事情を聞かせてもらおうか」
メッケが紙を手元へ寄せた。
ボクは荷受け場の跡から順に話した。奥から助けを呼ぶ声がしたこと。入ったら扉を閉められたこと。三人とも、ボクを待っていたらしいこと。
「助けを呼んだのは?」
「花売りの子だよ。表の路地で掴まれて、放り込まれて、人が来たら叫べって言われたって。それだけ」
「餌にされたか。その子はどうした」
「怪我はなかったから帰したよ」
「一人でな。大丈夫やったんかな、あの子」
「表を通るように言っておいた。人通りはある道だから」
「ふうん……」と呟きながら、メッケが短く書きつけた。
「連中は連れがいるのも知ってた。仲間が来る前に運ぶって言ってたから」
「誰から聞いたとは?」
「そこまでは。こっちが聞く前に武器を外せって言われた」
メッケの筆が止まった。
ボクの顔と、誰かと一緒に動いていること。それを知っている人なら何人もいる。どこかで見られたのか、誰かが話したのか。現場で分かったのは、待ち伏せされるだけの情報が渡っていたというところまでだ。
思い当たる顔を並べたって、根拠にはならない。
「上にも一人いたよ。顔は見てない。矢を射たら、悲鳴が聞こえてその後に逃げた」
「裏の屋根へ抜ける口がある。そっちは見てきた」
エリハルが退路を説明する間に水を飲んだ。喉に張りついていた埃っぽさがようやく薄れた。
新しい袋と縄の話もした。上の部屋では何か拾わなかったかと聞かれたけど、そちらは空振りだ。
「書類とか、誰が使ってたか分かりそうなものは何もなかった」
メッケは筆を置き、書いたものを上から辿った。
「あそこを使っていたことは間違いなさそうじゃな。残りは本人らに聞くとしよう」
「その三人なんだけど、もうここにいるの?」
「運び終えたと報せが来ておる。手当てもさせておるぞ」
エリハルがメッケの方へ顔を向けた。
「ギルドの中におるんか?」
受付にはいつも人がいる。依頼を受ける人も、終えて帰った人も出入りする。その奥を三人まとめて運び込んだら、ちょっとした見世物だ。
「騎士団に引き渡す前に見つかったら面倒事にならんか?」
「安心せい、ギルドも隠し場所くらい持っとるわ」
メッケは水差しへ手を伸ばした。
「どれだけ騒いでも構わん場所がな」
「そらええな」
エリハルが自分の杯も差し出した。
便利な倉庫が空いています、くらいの調子で話が進んでいる。
「工房の方も調べたいな。誰が持ってる建物なのか」
「そちらは不動産屋を当たる。仲介した者を探させよう」
メッケが紙の端へ書き足した。
持ち主が使わせていたのか、貸した後は知らなかったのか。そもそも借りずに入り込んだ可能性もある。
「エリハル、明日はわしと来い。お前が隣におれば、向こうも話が早かろう」
「うちを脅しに使う気ぃやろ」
「話し合いの付き添いじゃ」
「よう言うわ。今日も働いたんやで。ちっとは休ませてえな」
エリハルが椅子の背にもたれた。
場所を見てきたボクなら、工房の説明くらいは手伝える。
「ボクも一緒に行こうか」
「ああ、ユーニちゃんはええよ。うちらで行ってくるわ」
「でも、人手があった方が楽じゃない?」
「そういう手伝いやないんよ。ちょっと荒っぽい話になるかもしれんしな」
エリハルは背もたれから身体を起こし、こちらへ顔を向けた。
さっきは三人を倒した仕事をきっちり認めてくれた。あれはありがたかった。けど、その直後に危ないから留守番と言われると、椅子の座り方を間違えた気になる。
「ボク、そんなに頼りない?」
「腕の話やないて。男の子を連れてするような話やないんよ」
エリハルは穏やかな顔で言った。
メッケも何も言わない。紙を手元へ寄せ、不動産屋に聞くことを書き足している。
ああ。男だからか。
三人を倒したと認めてくれはしたが、手柄を横取りする気も、ボクを馬鹿にする気もない。それは分かる。
けど、じゃあ一緒に仕事をしようとなると、そこで男の子に戻されるらしい。
机に置いていた手を膝へ下ろした。
「貸した相手に話を聞くんだよね」
「せやで。あとはうちらに任せとき」
これ以上食い下がったら、聞き分けのない子をなだめる声になりそうだった。
心配してもらうのはありがたい。今日だって、あの扉を壊して来てくれた。
それでも、手伝うと言った返事にまで同じ優しさが返ってくると困る。ここでボクが欲しかったのは、何を頼めるか考えてくれることだったんだけど。
「……分かった。そっちは二人にお任せするよ」
エリハルが頷いた。メッケは書きつけた紙を彼女の方へ向け、二人で工房の話を始めた。
ボクは残っていた水を飲み干した。
明日の昼は自分の用事に使おう。何をしていいかまで聞く必要はない。
買い物をして、気が向いた店を覗く。香油の店があったら、ああいう木の匂いのものを置いているか聞いてみてもいい。さっきの香りは少し好みだった。
椅子を引いて立ち上がる。
「ボクはそろそろ帰るね」
「おう。今日はよう働いた。休んでおけ」
「気ぃつけてな」
「うん。お疲れさま」
扉を閉めると、受付の方から笑い声が聞こえた。
コートの肘を払う。まだ白い埃が落ちた。まずは風呂だな。
今日の夜はティリスの予約が入っている。こちらは前から決まっている、ボクの仕事だ。
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