4-3
店を飛び出して通りを二本離れたところで、ようやく足を止めた。
「ユ、ユーニさん、そんなに急がなくても」
「ごめんごめん。ちょっと空気の入れ替えがしたくてさ」
ティリスはきょとんとしていた。あの件はボクが一人で抱えて墓まで持っていくとしよう。
昼を少し回ったところだった。帰り道は色町を抜けるのが近い。
昼の色町は寝起きの顔をしていた。飾り窓には板が立てかけられ、店先では男たちが欠伸まじりに敷布を干している。誰かが石畳に水を撒く音がして、どこかから昼餉の煮炊きの匂いが流れてくる。夜は香水で塗り込められる通りが、いまは生活の匂いをしていた。壁の似顔絵だけが昼も夜も同じ顔で並んでいる。相変わらずどの絵も三割増しだ。
「ひ、昼間は、こういう感じなんですね」
「夜が本番だからね。今は楽屋裏」
ティリスは見てはいけないものを見る顔で、それでも物珍しそうに視線が泳いでいた。護衛の視線としては正しい。理由はたぶん正しくない。
角をひとつ折れて近道に入ると、音がすっと遠くなった。灯りも届かない。同じ町の隣どうしなのに、一本でこれだけ違う。石畳の隙間が湿って、香水の匂いが川と黴の匂いに変わる。ボクは何も言わずに歩調を上げて、次の角でまた明るい通りに戻った。
西門の近くまで来ると、花の匂いがした。
「毎度! お姉さん、花はどう? 一本どう?」
花籠を提げた少年だった。十五かそこらの、日に焼けた人懐こい顔。籠の中は白と黄色の小花でいっぱいだ。
「そ、そういうものは、その」
「そんないい男を連れて歩いといて、手ぶらは格好つかないよ、お姉さん」
ティリスが真っ赤になって固まった。商売がうまいなこの子。
「ごめんね、今日は手がふさがってるんだ」
「そっか、残念。またおいでよ」
少年はあっさり引いて、それから少しだけ声を落とした。
「兄さんたち、帰り? このへん、一本裏に入ると急に暗いから、表を歩きなよ」
「詳しいね」
「毎日ここで店開いてるからね。……最近、いなくなる男娼がいるらしいよ。兄さんもきれいな顔してるから、気をつけなよ」
「そりゃどうも。花売りに心配されちゃった」
「毎度!」
少年は笑って、次の通行人に声をかけに行った。
◇
「そういえばお昼食べてないね。何か食べていこうか」
色町の外れ、大通りに出る手前に屋台が並んでいた。炭火の煙と揚げ油の匂いが充満していて、この一角だけ空気のカロリーが高い。
「ユ、ユーニさん、あれ! すごい匂いですよ」
ティリスが指さした屋台は、確かにすごい匂いだった。刻んだにんにくを山盛りにした鉄鍋で、骨付き肉をじゅうじゅう焼いている。匂いだけで元気になりそうだ。
「げ、元気が出そうです。ユーニさん」
「やめとくよ。臭いがね」
「そ、そうですか」
代わりに選んだのは、隣の屋台だった。川エビのすり身を香草と混ぜて、薄いパン生地で包んで揚げたやつ。揚げたてが油から上がるたび、香ばしい匂いがふわっと広がる。
「それ、ふたつください」
「あいよ。……ああ、男の子にはこっちの小さいのがあるよ」
おばちゃんはためらいなく、ボクの分だけちんまりした包みを取った。ティリスの分は顔くらいある。
「一番大きいのをお願いします。あと、ユーニさんのも大きいのにしてください。私が食べきれなかった分をお願いする形で」
「はいよ。仲がいいねぇ」
ボクが財布を出そうとすると、ティリスが前にずいっと出て、支払いを申し出た。
「え? あ、いいの?」
「ご、護衛ですから。護衛対象には、げ、元気でいてもらわないと」
素直に感謝の意を伝える。ただ、支払いのときにちらりと見えた財布が、朝よりだいぶ痩せていた。今朝の宿もこの子持ちで、ここのところの指名も全部この子で……。
いや、やめよう。客の懐は客のものだ。
通りの端の縁石に並んで座って、包みにかぶりつく。生地はかりっと乾いた音がして、中のすり身はぷりっと弾んだ。エビの甘みに香草の青い香りが重なって、揚げ油の香ばしさが全部を下から支えてくる。仕上げに塗られた酸っぱいソースが、脂を切ってまた次の一口を呼ぶ。
……屋台飯って、なんでこう正解なんだろうな。
「お、美味しいですね」
「うん。美味しいね!」
ティリスは顔くらいある包みをみるみるうちに減らしていた。この世界の女性は本当によく食べる。
◇
食べ終わる頃、人だかりが目に入った。
歓声の中心に木の台があって、その上で女が二人、腕相撲をやっていた。台の横では胴元らしいのが銅貨の入った箱を掲げて口上を回している。挑戦一回で銅貨五枚、勝てば倍返し、勝ち続ければ賞金は積み上がり。よくある賭け興行だ。
ティリスの足が止まった。
「か、賭け腕相撲ですか……。へ、へぇー……」
台を見る。自分の財布を見る。ボクを見る。また台を見る。
「や、やってみようかなぁ……」
「え、やるの?」
「こ、これは賭け事ではなく、正当な腕試しです。き、騎士の家の者として、日々の鍛錬の成果を確認する義務があります」
誰に対する言い訳なんだろう、それは。
ティリスは列に並んで、順番が来ると台についた。相手は川荷役らしい肩幅のいい女だ。一回り小さいティリスを上から下まで舐めて、鼻先で笑う。その視線が後ろのボクまで流れた途端、笑みが消えた。
「……なんだい。そんないい男侍らせてるねぇ」
「え……侍らすだなんて、そんな……えへ」
女は忌々しげに舌打ちして、台に肘をついた。開始の合図と同時に、ごん、と相手の手の甲が台に落ちた。歓声が上がる。
速いな!?
女はばつが悪そうに手を摩りながら立ち去っていく。
二人目。荒くれ風の女冒険者。ごん。三人目、ごん。四人目は少し粘って、ごん。
腕相撲は膂力で殴りあう、ごまかしのきかない勝負だ。ボクが台についたら開始の合図より先に負けると思う。そのくらいの土俵で、うちの護衛はあっさり勝ち続けていた。
「すごい! ティリス強いね!」
「へ、へへへ」
手を叩いて声を上げると、ティリスの顔がだらしなく緩んだ。そのままの顔で五人目を沈める。ごん。相手の女が呆然と自分の手の甲を見ていた。
一勝ごとに生真面目な顔で銅貨を受け取って、几帳面に数えて、革袋にしまっている。その手つきを見ていて、気づいてしまった。
さっき奢った分と、たぶん次の指名の分を、この子はいま自分の腕で稼ぎ直している。
……やっぱ。いや、言うのは野暮かな……。うーん悩ましい……。
◇
六人目の途中だった。
歓声の切れ間に、別の音が聞こえた。何かが派手に倒れる音と、怒鳴り声。さっき通った裏手の路地の方だ。
周りは誰も気づいていない。ティリスは台の上で真剣勝負の真っ最中だ。
「ティリス、ちょっと見てくる。すぐ戻るよ」
声は掛けたけど、届いたかは怪しい。まあいい。ちょっと様子を見るだけだ。何かあったら人を呼べばいい。
路地に入ると、音の正体はすぐ見つかった。
倒れた樽と、散らばった白い小花。さっきの花売りの少年が壁際に追い詰められていて、大柄な女がその胸ぐらを掴んで揺すっていた。
「思い出せって言ってんだよ。この通りはお前の庭だろうが」
「し、知らないって! おれはただの花売りだよ!」
酔っ払いの絡みかと思ったけど違うな。女の目が据わっており、腰には短剣が差してある。厄介だな。
「お姉さん」
女が振り向いた。ボクはとびきりの営業スマイルを向けた。
「花、踏んでるよ」
「……あぁ? 引っ込んでろ、優男。取り込み中だ」
「その子を離したらすぐ引っ込むよ。営業妨害はよくない」
「ふざけてんのか──」
女が少年を放して、こっちに掴みかかってきた。半歩ずれて手首を取り、来た勢いをそのまま借りて倒れた樽の上に座らせる。力はほとんど使っていない。
女は一拍、自分がなぜ座っているのかわからない顔をした。それから腰の短剣に手が動いた。
「やめときなよ。ここ、表の通りから丸見えだから」
路地の入り口にはもう野次馬が二、三人、首を伸ばしている。腕相撲の歓声も近い。女は舌打ちして立ち上がった。
「……ちっ。おい、花売り。また来るからな」
捨て台詞を残して、女は路地の奥へ消えた。追う理由はない。ボクは散らばった花を拾い始めた。
「た、助かったよ……」
少年が隣にしゃがんで、一緒に花を拾う。
「兄さん、強いんだね。あの人、腰に得物差してたのに」
「いやいや……。それよりどうしたの? どうして絡まれてたの?」
「わかんない。人違いだと思う。誰かを探してるみたいだった」
少年は肩をすくめて、それから拾った中で一番ましな一本を、ボクに差し出した。細い茎の先で、白い花がうつむくように咲いている。
「これ、お礼。お代はいいから」
「いいの?」
「恩人から金取ったら、母ちゃんに叱られるよ」
いい子だ。ボクは花を受け取った。
前の世界にも似た花があったな。確かスノードロップ。冬の終わりに真っ先に咲くやつだ。花言葉は……なんだろう。
◇
戻ると、ティリスはまだ勝っていた。日が西に寄って、台の影が伸び始めている。
「八人抜きだよ、あの姉ちゃん!」
野次馬が沸いている。ボクが抜けていたことにも気づいていないらしい。そういえば護衛って言ってたっけ。
「次はいねえのか! 九人目!」
胴元が声を張った。懐が痛いのか、声に若干の涙が混じっている。
「あたしがやるよ」
人垣が割れた。
出てきたのは大柄な女だった。ティリスより頭ひとつ高い。袖から出た二の腕が丸太みたいで、そこに古い傷が何本も走っている。歩き方に無駄がない。
「へえ。あんたが八人抜きねぇ。もっとごついのを想像してたよ」
「よ、よろしくお願いします」
ティリスは律儀に頭を下げた。女はにやりと笑って台についた。
組んだ瞬間、空気が変わった。
合図。ティリスの肩が沈む。全力だ。それが一目でわかる踏ん張り方だった。台が軋む。
「いいねぇ。効いてる効いてる」
女は笑ったまま、ゆっくり腕を倒し始めた。ティリスの顔が歪む。粘る。台がまた軋む。それでも角度は戻らない。最後は静かに、こつんと手の甲が台に触れた。
歓声とどよめきが混ざった。
ティリスは唇を結んで、負けた手をじっと見ていた。
「そんな泣きそうな顔すんなよ。腕相撲で泣くやつがあるか」
「……泣いてませんけど」
女は笑いながら胴元から賞金をひったくって、名乗りもせずに人混みへ消えていった。
人が散ってから、ティリスがようやくこっちを向いた。緑の目が潤んでいる。負けたのがよほど悔しかったのだろうか。
「か、格好悪いところを見られちゃいましたね」
いやいや、凄いって。八人抜きだろ。
ボクは手を伸ばして、汗で額に張りついた前髪ごと、その頭をぽんとなでた。
「ふぇ」
ティリスが固まった。見上げてくる顔が、涙目のまま耳まで赤くなっていく。ボクはたぶん、素で笑っていたと思う。……ちょっと珍しいな。
「何言ってんだよ、十分かっこよかったよ。やっぱりティリスは凄いね。見直したよ」
「は……はいっ!」
ティリスは目元を袖で拭って、革袋を開けて、几帳面に数え直した。数え終わる頃にはすっかり機嫌が直っていた。現金な子だ。いや、文字通りの意味で。
◇
大通りの辻に着く頃には、空が茜色になっていた。
「じゃ、今日はここで解散。丸一日付き合わせちゃったね」
「い、いえ! その、楽しかったです。と、とても」
「ボクもだよ。護衛、ありがとうね」
「はいっ。……あ、あの、また」
「うん。また」
ティリスは歩き出して、十歩で振り返った。手を振る。さらに十歩でまた振り返った。手を振る。三回目に振り返ったときには人混みに紛れて、それきり見えなくなった。
手の中にはうつむいた白い花が一本。夕方の通りは飾り窓の灯が増えて、これから化粧を始める町の匂いがした。
――最近、いなくなる男娼がいるらしいよ。
昼間に覗いたあの路地の暗さを、ちょっと思い出した。
それはそうと、うちに花瓶なんてあったかな。
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