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3-8

「止まって!! 左に行くな!!」


 ボクは前を走るツグリの襟を引っ掴んで止めた。


「んだよ! 道はこっちしかねえだろ!」

「開いてる道が罠なんだ! こいつは追い込み猟をしてる。倒木も、この下りも、全部あいつが用意した檻だ。沢に下りたら終わるぞ!」

「……っ」


 ツグリが背後を睨む。木々の陰。姿は見えないが、確実に追ってきている。


「じゃあどうすんだよ。崖は登れねえ、倒木の向こうは見えねえ、マリオスは走れねえ」

「…………」


 今ここであいつには勝てない。それはもういい。さっきの数十秒で分かった。真っ向からやり合う相手じゃない。なら、勝たなくていい。こいつが割に合わないと思えばいい。


 頭の中で、件のエルフの言葉を思い出す。『あれは、獣の顔をした狩人』


 ――狩人は無傷で獲る。こいつは一頭きりだ。傷を舐め合う仲間もない。一匹狼にとって、手負いは死と同義だ。

 だからこいつは罠を張る。だから不意打ちしかしない。だから無傷で勝てる状況しか作らない。裏を返せばこういうことだ。手負いになるリスクを嗅いだ瞬間、こいつは商売を畳む。


「ツグリ。三十秒稼いで。死なない距離で、剣を見せ続けるだけでいい。絶対に踏み込まないで」

「……何する気だ」

「そりゃあ……小細工だよ!」


 ボクは倒木の手前、獣道の一番狭い区画に走った。ポーチからワイヤーを引き出す。左右の立木に、膝の高さと首の高さ。二段。上段は枝葉に紛れさせておく。町でのナンパ避けとは巻き数を変えて、切れないように三重に。それから残りの煙玉を足元に置いて踏み潰せる位置に。


 ここは、ボクらが「逃げ込む」場所じゃない。あいつを「通す」場所だ。


「ツグリ! こっちへ引いて! 倒木の方へ走って! 足元のワイヤーは跳べ!」


 ツグリが弾かれたように駆けてくる。その背後、木々の間から、初めて獣が全力を見せた。四肢を使った地を這うような加速。話にならないくらい速い。


 ツグリがワイヤー区画を跳び越える。獣は跳ばなかった。

 膝の高さのワイヤーを視認して、足を上げて跨いだ。


「……おい、バレバレじゃねぇか……!」


 織り込み済みだ。下段はただの誘導。足を上げたお前の視線は、いま一瞬、足元にある。


 枝に隠れた二段目に、剛毛の首が突っ込んだ。


 ワイヤーが軋み、立木がしなる。切れない。三重は伊達じゃない。獣の突進が初めて乱れた。


「今だ」


 ボクは足元の煙玉を踏み潰しながら、番えていた矢を放った。狙いは目でも喉でもない。


 掌だ。


 顔を守るとき、こいつは必ず腕を上げる。剛毛は矢を弾く。でも、掴むための手の内側に毛は生えていない。


 白煙の中、確かな手応えがあった。


「ギ――」


 獣が再び声を上げた。


 煙で嗅覚を殺され、左の掌に矢を生やした獣は、後方へ跳び退った。距離を取って、こちらへ顔を向ける。それでも、あいつは初めて計算し直している。手負いのまま、視界と嗅覚の利かない場所で、正体の読めない相手と続けるか。


 ……割に合わないだろ。


 数秒の静止のあと、獣は身を翻した。音もなく、木々の間に溶けていく。


「…………はーーーーっ」


 膝から力が抜けそうになるのを気合いで支えた。ツグリが肩で息をしながら、呆然とこちらを見ている。


「……ふーっ、命拾いした……大したもんだ」

「逃げ足が取り柄だからね」

「へ……」


◇


 マリオスを支えながら森を抜け、村への道を戻る。西日が街道を染め始めていた。

 ……カタクラに戻るには時間がないな。


「肋、二、三本いってるっすねこれ……。ひひっ、でも生きてるっす」

「笑うと響くぞ、馬鹿」


 軽口を叩けるくらいには、二人とも落ち着いていた。ボクは歩きながら、ギルドへの報告内容を頭の中で組み立てる。魔狼の群れは討伐完了。ただし家畜襲撃の真犯人は別。正体不明の大型霊長類型、知能高、罠を使用、推定等級――最低でもB。村には当面、夜間の外出禁止と家畜の屋内退避を進言。


 ……信じてもらえるかな。証拠はマリオスの肋と、ツグリの左腕と、ボクの言葉だけだ。


「なぁ」


 ツグリがぼそりと言った。


「あの化けモン、なんて名前なんだ」

「わからない」


 図鑑には載っていなかった。引っかかっているのは、あの店主の言葉だけだ。三十年前に討伐隊を三度飲み込んで、それきり見なくなっただけの獣。名前までは聞いていない。


「……知ってる誰かに、聞くしかないね」


 そのときだった。


「おおーい」


 背後の森の奥から。


 三人同時に足が止まった。振り返る。夕暮れの森は静かで、木々の輪郭が闇に溶けかけている。


「――おおーい。……こっちだ!」


 間延びした呼び声のあとに、言葉が続いた。


 『こっちだ』。


 それは、昼間、ツグリが迷い人に向かって張り上げた、あの言葉だった。抑揚まで、そっくりそのまま。


 誰も何も言わなかった。ボクらは無言のまま、村への道を早足で下った。


ここまで読んでくれてありがとうございます!


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