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近づいてきやがった……。
カウンターから立ち上がった店主が、音もなく棚の間を抜けて、ボクの目の前に立った。逃げ道を塞ぐような、絶妙な立ち位置で。ボクは図鑑を盾みたいに胸の前で持ったまま、じりっと半歩距離を取った。
……何も見てない。ボクは何も聞いてない。
「それ」
店主が、図鑑を指した。
「読めるの」
「え? あ……はい、一応」
「ふぅん」
紫の瞳が、初めてまともにこちらを向いた気がした。品定めするような、というより、標本を裏返して確かめるような目だ。
「字が読めて、それを手に取る客は、この町だと年に一人いない」
「そ、そうなんですか」
「みんな火の出る剣はないか……とか、空飛ぶ箒。あとは惚れ薬があるかって聞いてくる。ない、って言ってるのに」
抑揚のない声で、淡々と愚痴らしきものを言う。……あれ、なんだ、普通に会話するんだこの人。さっきの、あの、アレは何だったんだ。
ボクの勘違いだったのか?
いやいやいや。
「どこまで読んだ」
「え、っと……この、猫型の魔物のところまで」
「ロズィの群れ。あれは絵が良い」
あ……はい。
「気に入ったのがあるなら言って。売れないやつもあるけど」
「じゃあ……この図鑑って、おいくらですか」
「*****ギル」
「ですよね」
城が買える値段だった……。
まぁそうだろうなとは思った。手描きの一点物だ。むしろ売り物の棚に差しておくのが不用心すぎる。
「でも、読むのは自由。座って読んでいい。破ったら殺す」
「……こ、殺す」
「…………これはエルフ・ジョーク」
エ、エルフ・ジョーク……。
冗談を言う顔じゃなかった。声も顔も一切動いてなかった。エルフのジョークは高度すぎる。
逃げ出すタイミングを失ったボクは勧められるまま、カウンター脇の古い椅子に腰を下ろして、図鑑を膝に開いた。店主は定位置に戻って、また自分の本に目を落とす。
しばらく、静かな時間が流れた。ページをめくる音がふたつ。香の匂い。……うん。落ち着く。
水音は――もうしない。
さっきのアレは、きっと気のせいだったんだ。そういうことにしよう。人は信じたいものを信じる生き物だ。
「魔物、興味あるの」
店主がふいに聞いてきた。
「あ、はい。……ボク、冒険者なんです。この町で活動しようと思ってて。だから生態とか弱点とか、知れるだけ知っておきたくて」
「ふぅん」
彼女は少しのあいだ黙って、それから、独り言みたいに話し始めた。
「このあたりで気をつけるのは、南の森のロズィ。あとは崖下の蟲。どっちも図鑑に載ってる。読めばいい」
「はい」
「あと――」
「図鑑に載ってないけど、昔、厄介なのがいた」
「厄介なの?」
「獣。狼より少し大きい。全身が、細い針金みたいな毛で覆われてる。刃が通らないし、矢も滑る」
「……厄介ですねそれ」
「嫌なのはそこじゃない」
店主が思い出すように顎に手をやる。
「罠を張る。囮を使う。手負いのふりをして、助けに来た方を先に殺す。……つまり、頭が回る獣だった。あれは、獣の顔をした狩人」
「…………」
「討伐隊が三回組まれて、三回消えた。四回目でようやく数を減らして、それきり見なくなった。もう三十年になる」
三十年。さらっと言ったが、つまりこの人はそれを直接知ってるということか。エルフの時間感覚こっちの感覚が狂うな。
「……駆逐したんですか?」
「さぁ」
店主は興味をなくしたみたいに、また自分の本へ視線を戻した。
「見なくなっただけ。いなくなったのと、隠れるのが上手くなったのは、外からは同じに見える」
……含蓄のある言葉だ。まぁ三十年前の魔物だ。出会うこともないだろう。
それから少しの間、ボクは図鑑を読みふけった。さきほどの現象の牽制ではないが、時々質問すると、店主は的確に答えてくれた。
……。役に立つ話が聞けたし、いい店だ。うん。最初のアレは本当に、何かの勘違い、気のせいだったのだろうか……。
……現にこの人、ずっと普通だし。博識だしなぁ。
日が傾き始めたので、ボクは図鑑を丁寧に棚へ戻した。今日は閉まる前にギルドにも顔を出しておきたい。
「すみません、そろそろ行きます。あ、これください。煙玉三つと、閃光珠ひとつ。あと、その臭い消しをひとつ」
一番雑に置かれている汎用冒険用道具を手に取ると、カウンターに置く。
煙玉は昼間の逃走で一個使ったからな。補充しておかないと。あれは本当にもったいなかった。閃光珠の方は、投げると眩しく光るという品だ。逃げ足で生きてる身としては、目潰しの手は多いほどいい。
「煙玉三つ、閃光珠ひとつ、臭い消しひとつ……銀貨二枚と銅貨八枚」
店主がカウンターの上で品を包んでくれる。ボクは銀貨三枚を渡した。彼女は手元の小箱から釣り銭を数えて、ボクの手のひらに、じゃら、と落とした。
「また来るといい。続き、読みに」
「……はい、ぜひ。ありがとうございました」
ボクは笑顔のまま、まっすぐ扉を押して、ちりん、という鈴の音とともに店を出た。
いい買い物をした。いい話も聞けた。いい店を見つけた。カタクラ生活、幸先いいじゃないか。ボクは軽い足取りで扉に向かい、受け取った釣り銭を財布にしまおうとして――
釣銭を受け取った指先に、違和感を感じた。
……なんかついてる。
財布の中を見れば、じっとりとぬるい乾きかけの、膜みたいな湿り気が、貨幣の表面に付着していた。
スライム、というか、ローションのような……
嫌な予感がした。確かめてしまった。粘液のついた指先を、鼻に近づけると――
イカ臭い……。
「――」
振り返らないで歩みを進める。
……この町に来て、まだ一日だ。 一日で、不動産屋に口説かれ、路上で二人組に追い回され、魔道具屋でこれだ。
一日一回どころじゃないぞ、この町。
貞操逆転の異世界。わかってたつもりだったけど、ちょっとアクが強すぎるんじゃないか。
げんなりしながら、それでも足はギルドの方へ向かう。財布の中の湿った銅貨のことは、いったん記憶の奥底に沈めることにした。
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