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馬車が揺れ始めた。
ゴブリンの死体は街道脇に放置したまま。御者のコボルトが馬をなだめ、道を塞いでいた倒木を片付け、何事もなかったかのように運行を再開してくれた。プロだ。
ボクは車内で腕まくりをして、ゴブリンの返り血を拭いていた。この青い血は放っておくと染みになってとれないので、早めに処理するに限る。ボクはナイフでやり合った程度だから、そう大した量じゃない。
それはいいとして。
ティリスのことだ。
向かいの席で、大剣の手入れに没頭している。刀身を布で磨く手つきは丁寧で、やっぱり手慣れた人間の所作だなと思う。ただ、本人の方はどうかというと。
髪に肉片が絡まっている。頬から顎にかけて青い血の筋がべったりだ。要するに、自分自身の手入れをまったくしていない。
そして何より――臭うなぁ……かなり。
「ティリス」
「は、はい」
「頭、触ってみて」
ティリスが自分の頭に手を伸ばし、何か柔らかいものに触れて止まる。
「……あ」
青黒い肉の塊だった。ティリスはそれを指先でつまみ上げ、ちらっと確認すると、窓からぽいっと捨てた。あっさりしてるな。
「顔もだいぶ酷いことになってるよ。血、筋になってる」
「え……? い、一応拭いたんですけど……」
「……拭けてない。宿についたら、お風呂入った方がいいね」
ボクが指摘すると、ティリスは自分の頬をぺたぺた触った。指に青い血がついて、ようやく実感が湧いたらしい。
「あ……で、でも大丈夫です。臭い消しを振りかければ、一週間くらいはもちますから」
……「もつ」って……お風呂は? 一週間それで済ませるつもりってことだろうか。ティリスが風呂キャン界隈の子だったとは……
「……完全にアウトな発想だね、それ」
「そ、そうですか……?」
ボクは手元の布を水で濡らして、ティリスの方へ身を乗り出した。
「動かないで」
布を彼女の頬に当てる。ティリスは一瞬びくっとしたけれど、抵抗はしなかった。血の筋をなぞるように拭いていくと、だんだん力が抜けていく。目を伏せて、おとなしくされるがままになっている。
つい先刻、大剣でゴブリンを刈り取っていたのと同じ人間とは思えないなこれ。
額の際まで丁寧に拭い終えると、ティリスが消え入りそうな声で「ありがとうございます」と言った。
「……正直さ、見直したよ」
「え……?」
「さっきの戦い。かっこよかった」
ティリスがぱちぱちと瞬きをした。褒められると思っていなかったらしい。
「あ、あれは……別に、普通に……」
「いや、本当すごかった。普通じゃないでしょ。あの剣、かっこよかった」
お世辞じゃない。本心だ。盾ごとホブゴブリンを両断するなんて芸当、並の剣士にできることじゃない。ティリスは照れたように視線を逸らして、膝の上の大剣の柄をそわそわといじっている。
ボクは布を絞りながら、ふっと息をついた。そしていじわるな笑みを浮かべて言った。
「――でもさ」
「は、はい」
「頭に肉片つけたまま『拭きました』って言い張って、臭い消しで一週間しのごうとしてる人間に、不潔って言われたの、ボク結構ショックだったなぁ」
ティリスの動きが完全に止まった。柄をいじっていた指が空中で固まっている。
「…………」
「心当たりある?」
「……あ、あります……」
あはは、と思わず声に出して笑ってしまった。冗談なのに、正直だなこの子。
「冗談だって。怒ってないよ」
ボクが笑いながら言うと、ティリスはおそるおそる顔を上げた。こちらが本当に怒っていないと確認して、ようやくほっとした顔になる。……けど、すぐにまたしゅんとなった。大剣ごと膝を抱えて小さくなっている。さっきまで照れてそわそわしていたのが、一瞬でこれだ。忙しいな。
しばらく、穏やかな時間が流れた。馬車はゆっくりと揺れ、窓の外を木々が流れていく。お互い何を話すでもなく、ぼんやりと風景を眺めていた。ゴブリン騒動の前のぎすぎすした空気は、いつの間にかすっかり消えている。
ティリスが不意にこちらを向いた。まっすぐに、ボクの目を見ている。
「ユーニさん」
声が真剣だった。目の色も違う。
「私、さっきのことは謝ります。言葉が過ぎました。でも……私が言ったことは、間違いじゃないと思っています」
それは前にも聞いた主張だ。馬車の中で交わしたあの会話。性を売るな、真っ当に生きろ。男は身持ちを正しくするべきだ。……だったっけ? 言葉は違うけど、言いたいことは同じはずだ。
……まぁ、それに関しては正論だ。道理としてはまったく正しい。
「……うん。そうだね。ティリスの言ってることは、正しいと思う」
その言葉を聞いた瞬間、ティリスの瞳がぱっと明るくなった。「やっと届いた」という顔だ。
「それって……その、ユーニさんは、だ、男娼のお仕事をやめて、別のお仕事を……?」
ティリスが指先をもじもじと絡ませながら、ちらちらとこちらを窺っている。口元がゆるんで、期待を隠しきれていない。嬉しさが全身から漏れてるようだ。
「いや、やめないけど」
ティリスの口が、がぱっと開いた。しばらくそのまま固まっていて、やがて口だけぱくぱく動き始めた。金魚みたいだ。
「な……なん……なんでですか……? 正しいって、言ったじゃないですか……!」
「うん、正しいよ。正しいけど、聞く気にはなれないっていうこと」
「意味がわかりませんーー!」
ボクは少しだけ間を置いて、言った。
「だって、ティリスって処女でしょ」
静寂。
「ふぇっ!?」
素っ頓狂な声が馬車の中に響いた。目は限界まで見開かれ、口は完全に開きっぱなし。数秒かけて意味を理解したのか、耳の先まで真っ赤に染まっていく。
「な、何を……いきなり何を言って……!」
「処女だよね?」
「しょ、しょしょ……処女って、それが今何の関係があるんですか!」
「恋人はいるの?」
「い、い、い……今は、いませんけど……」
処女は皆そう言うんだよなぁ。
「わ、私がどうかなんて関係ないじゃないですか! これはユーニさんの話ですよ! ユーニさんの軽薄な生き方が間違ってるから、私は――」
「うん。正しいよ。何度でも言うけど、ティリスの言ってることは正しい」
「……じゃぁなんで……!」
ボクは指を立てて、ティリスの言葉を遮った。
「この世界にはこんな言葉があるだろ。――処女の説教は膜より薄い」
ティリスが「ひゃっ」と変な声を出した。
「な、何ですかそのえげつない言葉!?」
「いや……あるだろ、そういうことわざだよ」
いや、確かに品がないが――あるんだからしょうがない。貞操逆転世界ならではだな。
「わ、私の話を聞いてください! 処女かどうかは関係なくて――」
「関係あるよ。大ありだよ。食べたことない料理の味を語るなって話」
「た、食べ物と一緒にしないでくださいよ……!」
ティリスの顔が耳まで真っ赤だ。処女という単語が出るたびに全身で反応している。面白いくらいわかりやすい。
「しょ……処女すら守れない人間に、何が守れるって言うんですか……!」
なんかどっかで聞いたことあるな?
「……それさ」
ボクはにっこり笑った。
「守ってたんじゃなくて――もらってくれる人がいなかっただけだよね」
「う"あ"ぁ……」
ティリスの口から魂が出た――ように見えた。大剣を膝に載せたまま、ずるずると崩れるように前のめりになって、最終的にその上に突っ伏した。
「…………」
動かない。息してるかな。
……ちょっとやりすぎたかもしれない。
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