大人にしかできないこと
喧騒としているこの街は嫌いじゃない。
みんなの楽しそうな雰囲気にあてられて、自分まで楽しくなれるから。
家から数駅先の、ネオンライトが眩しい街。
私はその中にある一軒のバーの扉を開けた。
週に数回ここでバイトしているが、今日は従業員としてではなく、客としてここに来た。
店内を見回して、カウンターに着席する。
土曜日の夜ということもあり、客入りは上々だ。
カウンターの中にいた従業員が、私を見て近づいてくる。
彼女こそが、私を呼び出した本人だ。
接客用のスマイルとは違う、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。
私は彼女を無視して、別の中のスタッフにお酒を注文した。
「ちょっと、無視しないでよ」
彼女は当然のように私の隣に座った。
仕事中にカウンターに座るなと言いたいところだが、この店はかなり自由だ。客に呼ばれれば一緒に飲むことも接客の一部として許可されている。
だが、今はただお酒を飲みたい。さっさとどいて欲しい。
「で、何の用だよ」
「椿から聞いたよ」
「……早いって。まだ何もしないって」
口が軽いというレベルじゃない。この人たちは昔から、私のことを本気でおもちゃだと思っているんじゃないかと疑いたくなる。
「ほら、凪お姉さんに教えなさい」
「同い年だろうが」
凪は高校の同級生で、当時から椿と馬が合っていた。私にとっては最悪のコンビだ。
椿が悪魔なら、凪は魔王。私の不幸を蜜の味として味わうような人間だ。
なぜ私の周りには、こうも強引な奴ばかりなんだろう。
供されたロングカクテルのグラスを揺らす。
綺麗な赤色だ。
隣にいるのがあやめなら良かったのだが。
笑う凪の横顔を見て、グラスを少し強く握り直した。
「休みの日にわざわざ来てやったんだ。何が聞きたいんだよ」
「お、今回は話が早いね。本命じゃん」
私の忘れたい過去も、誰にも知られたくない秘密も握っている彼女は、私の地雷をことごとく踏み抜いてくる。
友達でなければビンタの一つもしていただろう。
「今まで遊んでいたみたいに言うな」
「大学生時代、いや院生時代の君に聞かせてやりたいよ」
「若気の至りだな」
「次は犯罪?」
「勘弁しろ。笑えないから」
持っていたグラスを落としそうになった。
凪は揶揄うつもりで言ったのだろうが、私はまだ倫理観を捨てきれていない。
冷たいアルコールで、沸き立つ思考を誤魔化そうとした。
「椿も来ればいいのに」
「入れないだろ、あいつは」
ここは少し特殊なバーだ。
女性しか入れない、いわゆるビアンバー。
大学生の時に凪と私で立ち上げた店で、今は凪が店長として切り盛りしている。
当時の私たちにとってはただの遊び場だったが、いつの間にか私たちは遊び場を提供する側になっていた。
この界隈では有名なデートスポットとして、今もかなり賑わっている。
見渡せば女性同士のカップルが目につくし、人肌を求めて相手を探している人も少なくない。
「あやめちゃん、本命なんでしょ」
凪は自分用のカクテルを器用に作ると、また私の隣に腰掛けた。
どう答えるべきか悩む。
彼女に隠し事は通用しないし、何よりあやめに関することで嘘はつきたくない。
「あと半年待てば卒業でしょ」
「だから悩んでるんだろ」
あと半年で、あやめは高校生ではなくなる。
今は彼女の邪魔をしたくない。受験のために塾にも通っているのだ。
あやめの学力なら心配はないが、私はまだ彼女の「先生」だ。
超えてはいけない線を越えるわけにはいかない。
「あ、わかった。薫が我慢できないからでしょ」
私は彼女を一瞥して、カクテルを一気に飲み干した。
そして次の注文をする。とにかく強いやつを流し込みたい気分だった。
二杯ほどでさっさと帰るつもりだったが、気が変わった。
学生時代のように、後先考えずに行動できればどれだけ楽だろうか。
「めっちゃいくじゃん」
「あんたと違って、こっちは色々あるのよ」
「はーん。……触れないでおこうと思ったけど、その首の痕について話してもらおうかな。女子高生とお家で何をしたらそんなことになるのかな?」
あまり「女子高生」というワードを強調しないでほしい。
感じたくない罪悪感がチリチリと胸を焼く。
「今までどんなに可愛い子やスタイルのいい子といても、見えるところに痕をつけさせるなんてなかったでしょ」
「……愛されてるんだよ」
私は開き直った。いっそ見せびらかした方が、心が楽な気がしたからだ。
思い返せば、こんな独占欲を露わにされたことはなかった。遊び歩いていた頃の私は、なるべく痕を残されないように立ち回っていたから。
だけど、あやめなら何をされても許せそうな気がする。
むしろ、もっと欲しくなっている自分がいる。
早く大人になってほしい、と切に願ってしまう。
「私もあやめちゃんに会いたくなってきたな。最後に会ったのって三年前? まだ中学生だったし、どれだけ成長してるか気になる」
凪は私の肩に腕を回し、ぐいと自分に引き寄せた。そのまま自分のグラスを私の口元に運んでくる。
流し込まれたのは、ひどく甘い酒だった。
彼女に至近距離でため息を浴びせ、カバンから煙草を取り出した。カウンターの灰皿を引き寄せる。
火をつけ、一口吸い込む。
普段は味を楽しむためにゆっくりと肺に入れるが、今は少し別の目的があった。
肩に回された凪の顔を掴み、吸い込んだ煙を勢いよく吐き出す。彼女の顔に向けて。
「私のあやめだ。そう簡単に会わせるかよ。……ばーか」
凪は煙をまともに吸い込んで、激しくむせた。
いい気味だ。
「従業員へのパワハラがすぎるでしょ……っ」
「安心しな。あんたと椿にしかしないから」
そもそも人前で煙草は吸わないようにしているのだ。
凪の顔から手を離し、今度は味わうようにもう一度深く煙を吸い込んだ。
アルコールが回り、体が熱い。
早く帰らなければいけないのに、まだこの毒々しい雰囲気に浸っていたい自分もいる。
「付き合う友達、ミスったかもな」
「あれ、今の彼女を紹介したのは私なんですけど? 凪さん」
「お前も腐った性格してるよね」
自分をまともだと思ったことなんて一度もない。
遊びが好きで、酒と煙草を好む女に、ろくな奴はいない。
私がその証拠だ。
次の一杯を最後にしよう。
早く帰らないと終電を逃すし、これ以上飲むと歯止めが効かなくなる。
意識朦朧とした酔っ払いのまま、あやめの待つ家に帰るわけにはいかない。
「それはそうと、あやめちゃんとは本気で付き合う気なの?」
「卒業した時に、あっちの気が変わってなければね」
「手放す気なんてさらさらないくせに」
凪は呆れたように私にもたれかかってきた。
「見せびらかすなら髪を結びなよ。ヘアゴム、ただの飾り?」
「……よくわかったね」
彼女は私の手首にかかっていたヘアゴムをパチンと引っ張って離した。
少し痛い。やめてほしい。
「あやめからの女避けらしいよ」
「女避け? あー、高校の時に流行ったやつか。彼女持ちの男子がよくやってたよね」
「そう」
実際、今まさに凪が私の肩にもたれかかっているのだから、まるで役に立っていない。
まあ、言わなければバレないだろう。
「あやめちゃんも乙女だねぇ」
「可愛いでしょ」
「あーはいはい、リア充アピールは結構です。私にも彼女いるんで。こっちは合法的に愛し放題なんで」
「だる……」
もう一度煙を吹きつけてやろうかと思ったが、煙草がもったいないのでやめた。
あやめが高校を卒業するまで、手は出さない。
それが、私が私に課したルールだ。
「キスぐらい、ノーカウントだろ……多分」
海外では挨拶のようなものだ。チークキスがマウスキスに変わっただけ。誤差の範囲内としておこう。
子供と大人では価値観もできることも違う。
一刻も早く、彼女には大人になってほしかった。
「そろそろ帰る」
「え、もう?」
「可愛い子犬が待っているからね。じゃ、奢りありがと」
「あ、ちょ、マジで?」
私は出されたショートカクテルを一気に煽った。
喉が焼けるように熱い。
「半年、我慢できるといいね」
「……襲われないように気をつけるよ」
凪は本当あやめの近況が聞きたかっただけのようで、それ以上は引き止めずに送り出してくれた。
時計を見ると、終電まではまだ余裕があった。
だが、寄り道せずに帰ろう。
外に出ると、夜風が心地よく火照った肌を撫でた。
あやめはもう寝ただろうか。
待ってくれているのなら、早く帰らなければ。
駅へ向かう途中、喫煙所を見つけて足を止めた。
もう一本だけ、吸っていこう。
早く帰りたい気持ちはあるが、少し考えをまとめる時間が欲しかった。
誰もいない喫煙所の壁にもたれ、あやめが来てからの長い一日を反芻する。
あやめと初めて会ったのは、私が高一の時。
彼女はまだ小学生だった。
椿に似ているけれど、どこか内気な子。それが第一印象だ。
何度か会ううちに心を開いてくれたのか、彼女はひどく私に懐いてくれた。妹ができたような気分だった。
中学生になったあやめに「メイクとファッションを教えて」とせがまれ、私好みの女の子に仕立て上げた。
「……私のせいじゃん」
大学生になってからは疎遠になっていたが、再会したのは塾の講師と生徒としてだった。
なぜこんなタイミングで彼女が家出をしたのか、その真相はまだわからない。
けれど、今のあやめは、恐ろしいほど私のタイプだった。
顔も、スタイルも、性格も。
あやめが望むなら、何だって叶えてやりたいと思ってしまう。
「めちゃめちゃ恋じゃん、私」
恋する乙女、なんて柄じゃない。
けれど、こんな初心な感情を抱くのは高校生以来かもしれない。
もう一度時計を確認し、喫煙所を後にした。
しばらく歩いてマンションに着き、自室の前で鍵を差し込んで、ふと立ち止まった。
「これ、最悪の教師だな……」
酒臭いうえに、煙草の匂いまでさせて。
教育に悪いどころの話ではない。
速攻で風呂へ向かおうと決めて、扉を開けた。
「おかえりなさい、薫さん」
心臓が跳ねた。
あやめがドアの目の前に立っていたのだ。いつからそこにいたのか。
「ただいま。……ごめん、今ちょっと匂いきついかも」
なるべく近づかないよう距離を取ったが、あやめは構わず一歩踏み込んでくる。
「私、いい子に待ってたんですよ」
そう言って、彼女は私に抱きついた。
寂しかったのか、なかなか離れようとしない。
胸の奥がじわりと熱くなる。このまま離したくない。
「遅くなってごめん……」
あやめの鼻先が、私の首元に触れた。
「薫さん、浮気しましたね」
「へ?」
予想外の指摘に、間の抜けた声が出た。
「マジでしてない。大人しく飲んでただけ」
「じゃあ、なんで知らない香水の匂いがするんですか?」
記憶を辿る。どこかで香水を浴びるような真似はしていない。
いや、凪だ。
直接触れ合ったわけではないが、肩を組まれたり、もたれかかられたりした。
いつものことだったので気にしていなかったが、別の女の匂いを持ち帰るなんて、最悪の失態だ。
凪のやつ、これを狙っていたのか。
やっぱりあいつは敵だ。
もっと煙を吹き付けてやれば良かった。もっと高い酒を注文してやれば良かった。
「待って、これには訳が――」
「浮気をしちゃった薫さんには、お仕置きが必要ですね」
「待て、落ち着け。あやめ、落ち着くんだ」
「薫さんがいけないんですよ?」
私は戦慄した。
これから一体、何が起こるのだろう。
予想がつかないからこそ、底知れない恐怖が這い上がってくる。
何より恐ろしいのは、あやめが、この上なくにこやかな笑顔を浮かべていることだった。




