まほろば
息など必要ないと知っているものの、まほろは咄嗟に息を止めて目を瞑る。
離さぬように、支えるように自分を抱きかかえたままのロウから額に口付けられると、こそばゆさに思わず目を開けた。
水の中には水の中でしか聞けぬ不思議な音がある。
音が響かないその空間でも、ロウの声は鮮明にまほろの耳に届く。
「怖いのか、すまない……」
「わたし、泳げないのです……あ、喋れる……」
何を怖がっていたのかと一人でくすくす笑っていると、ロウも安心したように微笑む。
「そうか、生き物は溺れるのだった」
「溺れるの、とても怖いんですよ」
「溺れたことがあるのか?」
「……顔だけ、です」
「もう溺れぬ。溺れる前に俺が助ける。怖いことなど、全て忘れてしまえ。ほら、まほろ、上を見ろ。下から見る水面をお前に見て欲しかったのだ」
言われたとおりに、まほろは水面を見上げた。
透明なはずの水はこうして見ると青く、小さな水泡の群れはきらきらと輝きながら、二人を置きざりに水面へ浮上していく。
浮かべられた花と、帯のように真っ直ぐ降り注ぐ光に目を奪われていると、ロウがまほろを下ろすように腕の力を抜いた。
向かい合うようにして漂うロウへ視線を戻し、ゆらゆらと長い黒髪を二人で揺らしながら、じっと見つめ合って手を握る。
「今日は水遊びでもしよう」
ロウの提案に頷くと、再び龍の姿に変わった彼が、まほろの下へ潜り込んだ。
角に掴まり、頭の上に乗ったまほろをそのまま連れ去るようにロウが勢いを付けて浮上する。
水上に飛び出る浮遊感が怖いようで楽しく、まほろは笑い声と悲鳴を混ぜたような声を出した。
それを繰り返したり、水をかけ合ったり、徐々に水中で動くことに慣れたまほろが泳いで追いかけっこをして、疲れるまで遊び尽くす。
へとへとになって池を出て、手ぬぐいで互いの顔や体、髪を拭い合う。
人の姿でも濡れたからか、今度は姿を変えてもずぶ濡れのままだ。
ぐっしょりと濡れた衣を脱ぎ去るロウの背中に、つい羞恥を覚えて一度目を逸らすと、すぐ別の衣服に変わっていた。
神だからといって、これは猾いのではないかと思う。
まほろも帯は解いたものの、それ以上は恥ずかしく思って手を止めた。
「どうした? 着替えないのか?」
意地悪を言われ、まほろは口を少し尖らせる。
それにくつくつと笑うロウの柔らかい表情を見ると、まほろも嬉しく、幸せで笑ってしまう。
「着替えはここに置いておく。見ないよう、お前の閨にでも入っていよう」
「はい、ありがとうございます」
夫婦なのだから、本来は裸を見られても構わないはずだ。これまでも着替えを手伝って貰い、薄衣しか羽織らぬ姿を見られている。白無垢から着替えさせて貰った時は、おそらく裸も見られただろう。
それでもやはりまだ心のどこかで、あの座敷牢で植え付けられた恐怖を忘れられずにいる。ロウも気付いているのだろう。
まほろは蘇った恐怖など覆い尽くして消してしまうように、みるみると心を満たしていく彼の優しさに、紅く頬を染めた。
閨に戻り、ロウの髪を櫛で梳いては手拭いで挟んで、とんとんと軽く叩くように水を吸わせる。
まほろの髪はいつのまにか乾いているのに、ロウが自分の髪を乾かさずにいるのは、この状況を楽しんでいるからなのだろう。
時々振り返って、目が合う度に嬉しそうに微笑むロウに、まほろもはにかみ笑う。
「まほろ。やはり良い名だな」
「そうですか?」
由来ゆえにあまり好きでなかった名だが、ロウに毎日呼ばれていると確かに好きなようにも感じる。
「ああ、良い名だ。ここは俺のまほろばだ」
「まほろば?」
「ああ、住みやすく、素晴らしい、理想の場所のことをそう言うのだ。お前の側が、俺のそれだ。ここは居心地が良く、心が安らぐ。俺はお前とこのまま永遠を共にしたい。毎日こうして、幸せそうに笑ってくれるお前と共に過ごしたい」
物事に永遠などあるのだろうか。
終わりがあって初めて、それが永遠であるかそうでないのか決まる。終わらないことは、終わりというものがあるという認識から産まれる。もしも終われば、そこで永遠ではなくなる。
どのくらいの時間を永遠と取るかは、考え方、寿命によっても変わるかもしれない。
肉体と命を失って間もないまほろには、まだ何が永遠かわからない。
ロウにとっても、まだ二千年ほど、という時間しかわからないだろう。
まほろはその後も、いつもロウの側で幸せに暮らしている。
かつて、確かにいた女を死に追いやった者たち、まほろを苦しめ、祟りにあった者たち、悪霊となった者たちの魂が浄化されている間も、それが終わって、再び何かとして産まれる頃になっても二人の幸せは続いている。
山ごとあの穴が無くなり、小さいが新しい祠が建てられ、人々があの陰惨な儀式を楽しげな祭りに変えても、まほろを知っている者が終わりを迎えて眠りについても、二人は今日も花の降りしきるまほろばで見つめ合い、笑っている。
(おわり)
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