閨房
「あっ!」
まほろの過ごす日々は充実している。何の不自由も、何の不満も無い。強いて言うならば仕事がないので、惰けていることへ罪悪感のようなものを抱いてしまう点だろうか。
生贄になるというのは、魂を神に奉げることだ。まほろは、彼自身の力にあの土地に住む人々の信仰を加え、長い年月を経たことでより巨きく神格化された龍神に魂を奉げた。
肉体を死なせてしまった今は魂だけになったが、自我はそのままに、この生きているようでそうではない状態のまま神の領域で暮らしている。それも、もう半年も経った。
ここでの変化といえばロウの気分や機嫌でたまに変わる天候くらいで、季節という概念がほとんどないまま冬が来た。
ずっと穏やかな気持ちのまま、苦痛、死の恐怖など忘れてしまっていた。そして、恐らく二度と味わうこともない。
まほろは冬に良い記憶がない。冬は寒くて、ただただ恐怖に苛まれるだけの季節だった。孤独なまほろは、身も心も凍え死んでしまいそうだった。
あの頃はまだロウにも出会っておらず、榮は年末年始の間忙しなく働かされており、下女の中でも比較的親切だったハツや他の数人もまた休みなく屋敷中を駆け回っていた。
そのため誰かに頼ることもできず、奉公人の使う居住空間も、そこにある火鉢の炭も、節約のため、まほろ一人しかいない日中に使うわけにはいかなかった。
朝方の最も寒い時間にする洗濯は拷問のようであったし、貰える朝餉の残りまであっという間に冷たくなって、本当に悲しいことばかりだった。
そんな冬が訪れているにも関わらず、まほろは半年もの間夫婦がすべき事を成していないと気が付いてしまった。
夫婦とは同衾し、房事を行うものだ。
それを聞いたのは、最後の日に白無垢を着せてもらっていた時だ。
とくに初夜と呼ばれる儀式的なものは重要で、妻となる者は夫と必ず同じ褥で一夜を過ごす。その時、夫に何をされても拒んではならない。服を脱がされても、痛みを感じて出血があったとしても、決して逃げてはならないと聞いた。
座敷牢で知らぬ男に襲われた時、無理矢理脱がされそうになった。それを恐らく、夫となるものとするのだろう。
何をするのやら、あまり深く考えていなかったが、ようやく過去のことを振り返って考える余裕のできたまほろは、今になってそれを思い出してしまったのだ。
必ずしなければならないと強く念押しされたというのに、死んだから仕方がないとはいえ、あの日はぐっすり眠ってしまっていた。柘榴を貰って食べたくらいで、まほろはあの時、まだロウが龍神であるとすら気付いていなかった。
だが、あの時白無垢を脱いだ覚えがないのに、まほろは恐らくロウの手で着替えさせられていた。
てっきり死ぬ時に血だらけになって、酷く汚れてしまったからだろうと思っていたものの、寝ている間に、その初夜という脱がされたり痛かったりするらしい行為を済ませて貰ったのかもしれない。
まほろはどうにも、ロウが自分に痛い思いをさせるなど想像ができない。ロウは少し大袈裟なところがあり、躓き、転びかけただけで物凄く心配するのだ。
血液が穢の一つに含まれるので、恐らくそれを憂慮してのことだろう。わざわざロウから痛むようなことをしてくるはずがない。
きっと眠っているうちに済ませて貰ったのだろう。
ロウは夜は役があるので一緒には眠れない。
だから、自然とまほろは一人で眠っており、一度も寝床を共にしたことがない。
食べたり飲んだりが必要なくなり、洗濯の真似事をするくらいで、掃除もしていない。掃除をしなくても塵の一つも落ちておらず、汚れなど見た事すらない屋敷でただ楽しく、のほほん、のんびりと暮らしているまほろは、妻としてやるべきことが何なのかを考えていた。
だから、
「あっ!」なのだ。
まほろは今日こそ妻らしいとされることをしようと、ロウと共に寝床に入ることを決める。
ロウの生活に合わせて、今日からは朝に寝て昼に起きるのだ。
もうすでにしっかり寝てしまい、そろそろ夜明けの時間だが、彼の横で寝るふりくらいはできる。ロウに与えられるものならば、たとえ痛みでも受け入れられる。
そもそもロウも神とはいえ、睡眠という休息が必要だろう。なぜ半年もの間思い付かなかったのだろうか。
自分の頭の悪さに気付いて、思わずため息をついた。
まほろはいつものように一度顔を洗い、髪を整える。それから振り返ってロウに朝の挨拶をする。
だいたいロウはこの時何かしらちょっかいを出してきて、追いかけっこに発展したり隠れん坊をしたり、はたまたベタベタお互いを触り合ったり、つつき合い、流れに身を任せて口吸いをする。
その後は手を繋いでふらふら散歩をしたり、時には外で勾玉やら面白いものを探したりする。
だが、今日は兎に角、まずロウを帳台の中に引っ張り込もうと決めた。
やるからには全力だ。
まほろが白い手を握ると、二人の時はもう顔を隠さぬようになったロウが目元を細めて微笑した。
ロウはいつも表情が乏しく、顔だけでは何を考えているかわかりづらい。だが元々は紙を顔に貼り付けていたくらいだ。まほろはとっくに慣れてしまった。
「どうかしたか?」
「私、ロウの妻として、しっかりと務めを全うしたいのです」
まほろの言葉にロウは頭を傾げ、何のことかと考えているようだった。
「夫婦とは一緒に寝て、房事というものをするのでしょう?」
「ぼうじ」
「私はここに来た時寝てしまっていて、初夜のことを覚えていないのですが、教えて頂けたらその通りにします!」
「しょや」
目を丸くしているロウにまほろは頭を傾げる。これほど驚いているロウの顔を見ることは、今まであまり無かった。
まほろは言ってはいけないことを言ってしまったような気がして、ロウの様子を窺いながら、自分の言葉に彼がどう驚いたのかを探る。何かあればすぐ謝罪をしていたまほろだが、最近は謝罪をすることが必ずしも正しいとは思わなくなった。
まほろも、謝って欲しいと思っていないことをロウに詫びられてしまうと、悲しい気持ちになる。
「まほろは犬がこう……するのを見たことがあるか? 雌を後ろから雄が……抱くのだが」
「犬ですか? 犬は遠くからしか……」
「なんだと……犬を飼っていないのか? 言われてみれば、確かにいなかったか」
「犬がお好きなのですか?」
「ああ。犬は良い……いや、犬の話は今はよいのだ。犬でなければ猫、蜻蛉はどうだ? 雌を後ろから雄がこうする……」
「こうする、というは?」
きょとんとしたまほろに、ロウはまたいつもの調子で笑みを浮かべ、一旦まほろの手を放した。それから背後に回り、まほろの体をそっと包み込むようにして抱きしめる。
確かに蜻蛉や蝶が追いかけあったり、二匹が交差するように触れ合って飛んでいる姿を見たことがある。喧嘩をしているか、片方が苛められているのかとものと思っていたが、それが夫婦のすることだとは知らなかった。
やや屈んでいるロウの唇が耳元にあるせいで、吐息に耳朶を撫でられる。
「こうするのだ。閨で」
痛いといえば、確かに胸がきゅうっと疼くようで、それを痛いと表現する人もいるかもしれない。
まほろには何も不快感などなく、ずっとこうしていて欲しいとさえ思う。恥じらいはあるものの、逃げようとはこれっぽっちも思わなかった。
「今日は、閨でこうしていようか……まほろ、先程お前は覚えていないと言ったが、そもそも俺は何もしていない。だから、初夜なんてなかった」
「そうなのですね」
「俺はお前の許しなく、そういうことをしない。俺たちは、人のように無理に房事をしなくても良いのだ。もちろん、したければすることもあろうが、それは義務ではない。妻だからやらねばならぬと縛られる必要はない。まほろ、お前は今、妻だから仕方無く俺を受け入れているのか?」
「いいえ、ロウに抱きしめて貰うのが好きです。だから、こうしていて欲しくて、動かないでいます」
「それならいい。それでいい」
一度緩んで開放された寂しさに眉を顰める余裕もないまま、あっという間にまほろは抱き上げられた。
大切そうに横抱きにされ、閨へ運び込まれる。
褥の上に横になり、同様にまほろの隣に横たわったロウにどぎまぎしつつも、手を繋いだり抱きしめられたり、唇を重ねたりをする。
愛している相手から与えられる愛情はまるで底知れず、あまりにも眩しすぎて、心に他のことを考える余裕もない。
しばらく抱きしめられる温もりを感じているうちに、まほろは繭の中にいるような気分で、ついうとうとしてしまう。ロウも同じように目を細めて、やがて二人で眠りについた。
肉体的に繁殖しない神から与えられる愛は、まほろにとっては何よりも優しい。
いつか物足りなさを感じる日までは、恐らくこのままただ側で眠るだけの時間を過ごす。
今のまほろには、口付けだけでいっぱいいっぱいなのだ。




