唇
まほろは龍神の元に歩いて近付いて行く。すると、自分であれほど行かないでくれと懇願していた龍神が困ったように目を細めて、後ろへ下がってしまった。
夢で見た龍と同じような姿に思うが、やはり夢は夢で記憶が曖昧だ。
目の前にいる神はまほろの知っている夢の中の龍よりもさらにずっと麗しく、言葉にするにはあまりにも難しい、銀に光るまで磨き上げた神璽のような崇高な姿に瞬きを忘れて見惚れる。
まほろの知っている美しいもののどれよりも美しい。冬に見る氷や切子硝子、まだ人の声のない早朝の冷たい空気、そのどれよりも透き通っているようでそうではなく、月という表現が近いだろう銀色。
とぐろを巻かずに宙に浮いて、揺ら揺らと鬣や体の後ろの方というべきか、尻尾の方が揺れている。
夢で会った時のように、まほろは躊わず歩み寄っていく。龍神はそれに戸惑い、視線を泳がせながら後退してしまった。
「どうか、お逃げにならないでください。私、龍神様にお怪我をさせるようなことはしません……」
まほろを追って来てくれたはずの龍神を呼び止める。
「それは……だが、まほろ、あまり見ないで欲しい。俺の姿は恐ろしいだろう、嫌いだろう」
「そんなことありません……龍神様、私を置いて行かないでください……」
「置いては行かぬ……まほろ、目を閉じてくれないか」
「嫌ですっ、嫌っ……龍神様、望みを何でも聞いてくださるって言ったのに」
「それを今言うのはよせ。頼むから、見ないでくれ。俺のことを嫌いになって欲しくない」
まほろは両手を前にうんと伸ばし、とうとう小走りになって龍神を追うのに、あと少しで触れそうな所で届かない。
走ると疲れるのは今の体でも同じで、すぐに息が切れて、切なくてもどかしくて、じわじわと涙が溜まってしまう。
だが、ここでわがままを貫き通さねば、龍神の姿を二度と見れなくなるのではないかと不安もある。
まほろは龍が怖くない。扉越しでなく、ようやく自ら追って来て、会ってくれる龍神が愛おしくて堪らない。
「お願いです……待って……お願い」
走り疲れて喉をひゅうひゅうと鳴らし、泣き出すまほろにぎょっと目を見開いた龍神がぴたりと動きを止める。その首だか胸だか腹だか区別がつかないが、長い胴体にまほろは飛びついた。
ひんやりと冷たい鱗に額をくっつけて、苦しくないよう、痛みがないようにとゆっくり、そっと両腕で抱きつくと、大きな龍ともあろう者がひゅっと息を飲む。
それから、ずっと縮ませるように拳を握っていた龍の手がまほろの方へ伸びて、鋭い大きな爪で傷付けないよう、恐る恐る手のひらで背を支えられた。
「まほろ、怖くないのか? 俺は……大きいし、醜いだろう」
「いいえ、龍神様のこと、大好きです。とても綺麗です」
「そんな風に言われると、まほろ、触りたくなってしまう……お前がもっと欲しくなってしまう」
潰さないようにと、大きな両手ですくうように持ち上げられる。ずっと上にあった大きな顔が、まほろの正面に来るように上手く首を曲げる龍神に嬉しくなって、ふんわりと微笑んだ。
泣きすぎて熱くなって腫れぼったいだろう自分なんかよりも、よっぽど龍神の方が綺麗だろう。そもそも、まほろは彼の外見など二の次で、こういった言動や安心させてくれるところが好きなのだ。
外見を綺麗と思ったことは真のことだが、それよりも、まほろを怖がらせぬようにと気遣う優しさ、思いやりに胸が熱い。
「触って欲しいです。わたしは、龍神様のものです」
切り傷や変色したあざのようなもののある顔を撫でて、まほろは思いきって唇を自分からくっつけた。
夫婦であるというのに、あれほど情熱的に側にいろと、欲しいと求められたというのに、まだ口吸いをしたことがなかった。
父と継母、兄とハツのその瞬間を見てしまった時は気不味く、盗み見たことに気付かれる恐怖でドキドキしていたが、今はもっと違う、胸を焦がすような鼓動にお腹の方まで熱い。
心の臓はもう止まっているだろうに、確かにまほろの胸は高鳴っていた。
「なんということを」
龍神の困惑し、狼狽するその声に、まほろは悲しく眉をひそめる。嬉しいのは自分だけかと思うと、また寂しくて辛い気持ちになってしまう。
いくら母に許されたからといって、自分に自信を持てたからといって、少し我儘が過ぎただろうか。
自分は龍神のものだが、龍神は自分のものではないのか。それは、きっとそうなのだろうが、夫婦や恋仲の者同士の行うそれを拒否されてしまったら消えたくなってしまう。
「お嫌、ですか? ごめんなさい……もういたしません」
唇で押し付けてしまった恋慕を詫びる。すると、それまで口を閉じたまま声だけ発していた龍神が、慌てたようにその大きな牙や舌を見せて否定した。
「違う! そうではないのだ、嫌なわけがないだろう。むしろ……ああ、もう、俺はどうしたらいい……まずは宮へ帰ろう。さあ、頭に乗ってくれ。毛か角に掴まっていてくれ……勿論落とさぬが、俺にしがみついて、ちゃんとここにいてくれ」
嫌でないのなら、と頬を染めてまほろは目を伏せる。互いに夫婦として想い合っているのだと甘い確信を得て、もう少し我儘を言いたくなった。
「お嫌で無いのなら、私も龍神様から……されてみたい、です」
「今はだめた。大きさを考えろ、舐めてしまう」
「はい」
「はい、ではない。だめだ。帰るぞ」
ひょいと頭の上に乗せられ、渋々と角に掴まる。だが、もうだめだと否定されても不安は湧いては来ない。
自分を前に明らかに照れた反応をしてくれる龍神を、あろうことか大きな神を可愛らしいと思った。
うつ伏せに股がり、抱きつくようにしているので、自然と鬣に顔を埋める。まほろは何よりも好きなその香りに頭の中がとろんと蕩けて、目を瞑った。
心地の良さに安心するような、しかし胸が高なって興奮しているような気分だが、空中を進む揺れと風についうとうととして、そのまま、まほろは眠りについた。




