花降る場所
まほろは日に日に龍神に強く惹かれている。ロウと声や喋り方の似ている彼と話しているうちに緊張感がほぐれて、恋しさが胸に募っていく。
扉の向こうへ行きたい。夢に見たふさふさと柔らかな草原のような鬣に顔をうずめてみたい。妻として認められたい。だが、その恋が叶ってしまった時、ロウはどうなるのだろうかと切なげに目を細める。
この日もまほろは龍神の姿を目にすることはできなかった。
龍神はまほろに欲しい物や望みを聞いたが、彼を困らせてはならないと自分に言い聞かせ、面と向かって会いたいとは言わなかった。会ってしまえば、今の三人の関係性も崩れるような気がした。
だが、ただ他愛もないような会話しただけだというのに、まほろはふわふわと浮かび上がるような心に、つい口元が綻んで笑ってしまう。
自分の部屋へ戻る途中、そんなまほろの顔をロウが覗き込んだ。
「まほろ、龍と話すのが、それほど楽しかったのか」
「はい。楽しかったです」
「……龍が好きか?」
「はい、勿論好きですよ。私は、あの方の妻ですから」
「お前はやはり変わっている」
ロウにとっては楽しい話ではないだろう。だが、それでもまほろははっきりと、自分は龍の妻でロウのものではないと示す必要があった。
もしも、万が一ロウが神のために奉げられた贄とそういう関係になれば、不敬であると思う。彼も自分も、神に逆らって良いはずがない。
それに、やはりまほろは龍神のことも好きになっていっている。
胸が苦しくなっていく。まほろは自分の心など今さらどうなっても構わないが、龍神にもロウにも不快な思いをさせたくない。
自分の心など、と思いつつも、これまで人の好意や気遣いで生き延びていたまほろにとって、二人から感じる大きな愛情はかけがえないものだ。それを壊してしまうことに対して恐怖や悲しみ、不安を抱くといった矛盾もある。神に心を壊されることには構わないのだが、自分の力ではとても壊せない。
何が正しく、何が誤りなのか判断することは難しい。
ここにいて、龍神の妻として存在することが最も正しいことに違いはないが、中途半端な、どっちつかずの気持ちでここにいても良いわけもなく、だがずっと側で守り続け、今もこうして一日中のほとんどを共に過ごすロウを強く拒絶できない。
龍神の傍にいたい。だがロウにも傍にいてほしい。
龍神に会えず、やることもなく、ロウ無しに存在し続ける孤独には耐えられないだろう。
もしも龍神の傍にずっと居続けることができたとしたら、ロウはまほろには耐えられないだろう孤独に露されるのだろうか。彼は自分を支え、孤独を癒やしてくれるというのに。
「顔色が悪いぞ、まほろ」
「……そうですか?」
「病など無い常世とはいえ、傷はできるし全ての穢は抗えぬ。沐浴し、ゆっくり休め」
「ケガレ、ですか?」
「ああ。だいたいは病、血液、蠱物などを言う。疲労も病と似通った部分があるかもしれない」
いろいろと覚えねばならないことがあるな、と頭にロウの言葉を畜えていくが、やはりまほろには意味すらわからないことが多い。
土埃や汗などで汚れることと、ロウのいうケガレが違うものであると理解はできても、その因果も何も、明確なことは何もわからない。
「穢れると、どうなるのですか?」
「邪神やら物の怪やらになるか、魂を洗うため冥土に向かうかだろうな」
まほろはぼんやりとこの世界が最果てのような、行き止まりの場所のように思っていた。だが、よく思い返せば心当たりがあるし、当然のことだ。
「もしかして……以前の贄姫様は、もう冥土に?」
「ああ。穢を多く浴びてしまった者もいた」
浴びるという表現に、まほろはそれが血液のことだと気がついた。以前ちらりと見えたロウにも夢の中の龍神にも傷跡があった。
――もしかして、全部贄姫が?
なんて罰当たりで、なんて酷いことをするのだろうか。
龍神が頑なにまほろと直接会わない理由はきっとそれなのだろう。
とても悲しいが、まほろが同じ立場でも同じことをした。現に、まほろは実の父や兄には会わぬようになるべく遠回りをしたり、隠れたりをしていた。だから、隠れて扉の向こうから話したいという気持ちが痛いほどにわかる。
やはりわがままなど言わずに良かったと思う。
そっと、傷を癒やして、静かに暮らして欲しい。
自分はここでも本当は邪魔な存在ではないだろうか。
そう思う度、ロウは紙越しにまほろへ眼差しを向けてくれる。いけないことだとわかっているから、まほろは少し距離を空けるよう一歩離れ、少し触れてしまった手を胸に抱く。手を握られてしまうと、また不義を働き、行ってはならない道へ誘われてしまう気がした。
見えないはずのロウの瞳から注がれる視線はなぜだか熱い。視覚ではない何か不思議な感覚がそう告げている。
どうしてこんなことを、と悲痛に視線を落とした。
ロウはまほろの存在意義であるかのようだ。ロウがいるから、まほろはまだここにいることを許されているように思った。
「まほろはここにいろ。ずっと、永遠に、飢餓も疫病も暑さも寒さもないこの場所に。お前がいる限り、ここにはああやって花が降る。あの花は龍の心だ」
「龍神様の心?」
いくつも並ぶ花頭窓の外は変わらず優しいくすんだ色だ。いつものようにどこからか舞い散る花びらと霞が美しく、まほろのいる宮を包み込んでいる。
一見寂しそうな色だが、太陽のように鋭くなく、闇のように暗くない色はまほろを落ち着かせてくれる。だから、まほろはからっと晴れやかな暑い夏よりも、人々が晴れ着に身を包んで出掛けていく冷たい冬よりも、ずっとこの世界の方が優しく心地が良い。
この天候が龍神の心と言うのなら、まほろは彼の心そのものも愛おしく思う。何よりも美しくて、まほろにとっては最も優しい。
だが……。
「龍神様は、どういうお気持ちなのでしょう」
まほろの小さな問に、隣に並んで花頭窓を見ていたロウがくすくすと笑った。
「それは勿論、花を降らすほどに浮かれている」
「それならば、私はこのお天気を、好きと言っても良いのでしょうか。とっても綺麗で、優しくて、ここにいると幸せな気持ちになります」
降っては雪のように消えていく花びらに、時折色鮮やかなものが混じる。その頃合いから丁度、まるで龍神にまほろの言葉が届いてしまったようで、ついきょろきょろと周りを見回してしまった。
それからまた花びらは桜のような小ぶりで淡いものに戻ったが、その一瞬の煌めきに似たものは本当に人の心のようだ。本当にそのまま映し出しているようだ。
「龍神様に何か良いことがあったのでしょうか」
嬉しさにロウに笑いかける。
ロウはゆっくりと頷いてまほろの方へ手を伸ばすが、すぐにやめて手の甲を、紙の上から己の口元の辺りに押し付けた。
まほろはなんとなく、ロウも嬉しそうだと思った。




