両手を大きく広げて
まほろは朝目を覚ますと、まず帳台の中で背伸びをする。広々とした空間でふわふわと柔らかいものに包まれて眠る贅沢に、夫への感謝を告げる。
それから広々とした部屋の簾を潜って坪庭に出る。
数日住んで気が付いたのだが、まほろは暑いだとか寒いだとかを感じなくなっていた。生贄に奉げられるということは命を奉げるということで、肉体的にはもうそういうことなのだろう。少しずつ実感として湧く。
霞のかかる坪庭には池があり、見たことのないような花が浮かんで漂っている。
あるのかないのかもわからぬような透明な水で顔と口をすすぐと、いつの間にか水面にロウの姿が映っていた。
「おはようございます」
手拭いで顔の水滴を取りながら声をかけると、まほろにちょっかいを出すことを生業とでもしているのか、ロウの指がつんつんと首や脇腹をつつく。その擽ったさに思わず
「ひぃんっ」などと馬のような声を出して身をよじる。
まほろのその反応が愉快で堪らないのか、ロウの指がまたこちょこちょと擽りに来るので、笑いと泣きべそを混ぜたような声を出しながら室内に逃げ込んだ。
まほろを探すロウの気配に息を殺し、几帳の影に身を潜めるも、人とは違う秀でた感覚を持っている彼には、すぐに見つかってしまう。
「見つけたぞ、まほろ。出ておいで」
「も、もう擽りませんか?」
「それはどうだろうか」
「なっ、なら……や、です」
「わかった。今日はもうしない」
仕方なく、おずおずと顔を出してみると、触らぬ意思表示か、ロウが両手を顔の横辺りまで掲げていた。
こちらに来てからしばらくは上手く逃げられたのに、ロウの方もわざと隙きをついて触ってくるようになった。
生前はそれが嬉しく、もっと触れていて欲しいと願っていたものの、今は龍神の妻として、このようなことがあってはならないとまほろは思う。
「その……あ、あまり、触っては嫌です」
「それは悲しい。俺を嫌うのか、まほろ」
「そういうわけではなくて、その、このようにか、か、体を触っても良いのは、夫婦だけだと思います!」
まほろは龍神だけを愛し、妻として貞しい行動をすべきだ。朝から別の男に構われて喜んではいけない。
なんて自分はふしだらなのだろう。不義を働く自分を恥じ、叱り付けるが、もともと抱いている恋心が簡単に消えるわけもない。
――龍神様に会いたい……。
会話をしただけだが、ロウと似た声の龍神にも愛おしいというような気持ちがある。泣いている姿を夢で見てしまったからか、それとも自分の夫という存在が身近にあることに酔っているのか。
まほろには血を分けた兄や姉妹、父も継母もいたが、どれも家族というには遠いものだった。彼らが楽しそうにどこかへ出掛けたりする様を見て憧れていた。
だから、夫というものが初めてできた家族のように思え、期待を抱いてしまっている。
今までは何にも期待などしないよう心がけてきたのに、龍神があまりにもまほろに優しい言葉をかけてくれるので、つい、次はいつ話ができるのだろう、扉越しではなく、いつか会って話をすることはできるのだろうかとばかり考えてしまう。
「私、外の空気を吸ってきます」
自分の顎を手で支えるようにして唸って考え込んでいるロウの元を去り、また坪庭に出る。
可愛らしい花柄の鼻緒の草履を履いて、再び花の浮かぶ水面を見つめる。
苔を纏う石、丸いキラキラと輝く砂利、ぼんやりと霞の漂う庭は黄色や緑色、青色を混ぜて灰色にしたかのような色をしている。
屋敷の柱や梁、欄干などは鮮やかな朱色をしているのだが、霞のせいか日中も薄暗い。たまに雪のように空から花びらが散ってくる不思議な空間だが、まほろの知っている場所の中で最も居心地が良く、心が安らいだ。
中途半端な態度で、ロウを余計に傷付けてしまったのではないだろうかと不安に思う。
龍神のために、そしてロウのためにもまほろは毅然とした態度でいなけれぱならない。
ふう、と息をつき、今日こそは掃除でもなんでも、やることを見つけねばと踵を反す。するとやはり、いつもと変わらずそこにはロウがいた。
「まほろ、外に出てみないか。宮を外から見たり、そこの庭石よりもっと大きな石も見られる。埴輪も落ちているぞ」
「はにわ……ですか?」
「人形のようなものだ。奴婢の代わりに……昔の贄が、寂しくないようにと持ってきた玩具というべきか」
「昔の贄姫様、ですか」
気になっていたが、まほろもあえて口にしなかった言葉だ。
この広々とした空間で、まほろは自分とロウの気配しか感じない。ロウと追いかけ合うようにいろいろと歩いたが、誰にも遭遇しないのだ。
まほろの居室に貢ぎ物を並べるのは、全てロウの仕業だ。
「ああ、いや、まほろ、前の贄姫とは何も無かったのだ。皆、遠くへ行ってしまった……すまない、ここにはあまり面白いものが無いな。まほろ、何か欲しい物は無いか。着物ばかりで飽きただろう。人形や双六は子供っぽいか? 貝は? 内側に絵の描いてあるあれだ。楽器や囲碁は?」
「いえ、私はこれ以上欲しい物なんて……あっ、一つだけ、良いでしょうか?」
こくりとロウが頷く。それは、まほろの心配などは杞憂と吹き消すかのように、嬉しそうに。
「また、龍神様にお会いしたくて……もちろん、この前のように扉越しで構わないのですが」
「龍に……その気持ちはどのくらいだ? どのくらい会いたく思うのだ? これくらいか?」
ロウの見せてくる人差し指と親指の距離に、まほろはふるふると首を横に振る。
「このくらいでしょうか」
両腕をこれでもかと大きく広げて見せると、ロウも同じように両手を広げた。そしてそのままのそのそと近寄ってくるロウに、まほろはすぐに脇を閉めて体を小さくし、そっぽを向く。
危うく抱きしめ合ってしまうところだった。
「おっ、おやめくださいっ!」
「俺が何をしようとしたか瞬時に察するとは……流石だ。だがお前の気持ちはよく分かった。今から龍のところへ行くか」
「えっ、い、今からですか? あああの、あの、今すぐ禊を、なな何を着ましょう!」
「まほろ、龍相手にそれほど気を使うな。そのままで構わない。参拝をするのではなく、夫に会いに行くだけだろう」
「それは、そうなのですが……」
「このくらい会いたかったのではなかったのか?」
またロウが両手を大きく広げる。
「わ、わかりました! 行きましょう!」




