いろはにほへと
馬子にも衣装とはこのことか。まほろは白無垢姿の自分を鏡で見るなり驚いた。
披露目の儀式でも薄藤色の振り袖に、ほんの少しばかりは心が踊ったが、綿帽子から覗く自分の瞳がピカピカと輝く様に、これほど鏡を見て驚くのは初めてだと、落ち着いたり喜んだりを交互にした。
もしも贄に選ばれず、長く生かされることになっていれば、このような格好はできなかっただろう。幽霊にも出会わず、榮と目を合わせて話すことも無かったであろう人生ならば、生きていても意味がなかった。
屋敷の外へ出て、すぐのところにすでに準備を整えていた元綱、元久、沙耶、唯華がそれぞれ祝い事に適した衣装で並んでいた。
まほろは家族にこうして出迎えられたことは初めてで、最後だから少しは普通に話せないかとも思ったが、焦点の合わない目をギョロギョロと蠢かし、げっそりと痩せてしまった元久と、化粧でも隠しきれない濃い隈を目の下に貼り付けて、ブツブツと何かを絶え間なく呟く唯華とは、とても話せる状態ではなかった。
その中でも、特に様子がおかしいのは元綱だった。
「琴代、琴代じゃないか。ああ、全くどこに行っていたんだ、琴代、随分探したんだ。昨晩はなんであんなことを」
「あなた、この方はまほろさんですよ。琴代さんはもう……」
「ま、ほ? 何を言っているんだ、沙耶、ほら琴代じゃないか。妾のくせにやきもちか?」
「あなた、あなた、しっかりなさって……」
身内を失う悲しみや罪悪感から彼らが狂ってしまうわけがない。屋敷の者は皆、まほろが彼らにどのような扱いを受けてきたのかを知っている。
まほろ自身も、彼らが自分のことを失って悲しいだなんて思うはずがないとよく理解している。
だから、誰もが不思議そうに、そして不気味そうに顔を顰める中、会話もないままに用意されていた輿に座った。
「あ、あのう、まほろ様。少しよろしいですか。長持の方なのですが……」
正気でない元綱や元久、それに付きっきりで酷く憔悴した様子の沙耶に声をかけることに抵抗があるのか、輿の近くで狼狽していた青年がまほろに近寄る。
この長持とは、花嫁の持ち物や嫁入り道具を入れる、取手の付いた木製の箱だ。贄姫が穴に落ちた後、これらも一緒に放り投げられる。
「長持が、どうかされましたか?」
「はい、ええと……装飾品など……その、何か大切なものとか、お持ちになりたいものはお入れになりましたか?」
「えっと……すみません、何か、問題があったのでしょうか」
「あ、す、すみません。実は軽すぎるなと思って、さっき中を勝手に確認してしまいました。そしたら、その……古いお花しか入っていなくて」
長持は空のはずだ。
まほろは何一つ持っていくものが無い。
裁縫箱は勿体無いから先ほど榮に渡してしまったし、幽霊から貰ったあの花も、龍神の元へは持っていけまいと納屋に置いてきたはずだ。思い出と共に、あそこで朽ちて貰いたかった。
「……捨ててください。それは、もう、持っていてはいけないから。他にも、特に入れるものはありません。軽い方が良いと思いますし」
「わかりました……。でも、あの、本当に捨てて大丈夫ですか? 大切なものなんじゃ」
「はい。枯れてしまったお花なのに、心配して下さってありがとうございます」
「いえ、とんでもないです。僕にはこんなことしかできなくて……」
下男が漆塗りの長持を開け、丁寧に摘まんだ塵のような花を一つ一つ風に流す。
それを視線で追った先に、幽霊が立っているのに気が付いたが、まほろはゆっくりと視線を正面に戻した。
儀式は滞り無く進んだ。屋敷の狭い世界しか知らなかったまほろは、初対面の人々に丁寧に挨拶され、優しい言葉をかけられ、たくさんの感謝と賛辞を受け取った。
皆、まほろが龍神と幸せに暮らすことを願っている。そうすることで村に安泰、富、幸福が生まれるのだ。
儀式どころか、冠婚葬祭の何も教わっていない無知なまほろを責める者はいなかった。
たどたどしくも素直に従って、言われたとおりに励むまほろの耳に、緊張していることを励ます声、甘やかすような褒め言葉ばかりが届いた。
少し恥ずかしいような、こそばゆいような気持ちになって耳を赤くする。
会う人会う人、皆に恐れを抱いていたはずの罪人は、あの屋敷から一歩出れば、赤ん坊の頃に母親を喪い、贄姫にまで選ばれた可哀想な少女なのだ。
大きな朱い盃には並々と酒が注がれている。
まほろは知らないが、それは贄姫用に作られたのだ。普通のものよりずっと大きく、酒もたくさん注がれている。中身も強い酒で、この大量の酒で酔わせて酩酊状態にし、痛みや恐怖の実感が薄れている間に、ふらつく足でわざと橋を歩かせるのだ。
むせ返りそうなにおいの酒を一気に口に流し込む。初めは舌、喉、それから胃まで焼かれるような感覚に驚くが、苦味の後にほんのりと甘い酒は、それほど嫌いな味でもない。
だが、少しすると頭がくらくらしてきて、手足が上手く動かせなくなってしまった。
ほわほわと足元が浮いているような感覚。体中が温かいというより熱く感じる。
何を考えても、しっかりとまとまらない。
まるでこれから少女を穴に落として殺すとは思えぬような、温かくて優しい声援がまほろを包み込む。
この声は本来、まほろがずっと欲していた人々からの許しだ。ここにいていいのだ、産まれてきても良かったのだという証だ。そしてその誰もが今、まほろの安らかな死を望んでいる。それだけは、しっかりとわかった。
その中に一人だけ、まほろの名を呼んで泣き叫ぶ人がいる。
まほろはその声が好きだ。いつも静かで凛としていたのに、まほろにだけ感情を見せてくれた、友のような姉のような存在だ。
――榮さんのためになら、頑張りたいな。どうか、榮さんが幸せになりますように。
朦朧と頭に浮かぶ榮の顔。まほろは千鳥足で、なんとか一歩一歩前へ進む。
足元からは轟轟と風のうねるような、呻くような音が響いてくる。
橋に一歩足をかけたところで、眠っていた生存本能の早鐘がキンキンと脈打つように打ち鳴らされ、生きたいと叫びだし、まほろに強く死ぬなと訴えかけた。
「私も一緒に逝きます、まほろ様、やっぱり私、あなたの」
思っていたよりも小さな一歩。まだ細い橋を踏み外さない。
――龍神様、榮さんを助けてください。あの人は死なせたくないの。
風が吹いている。
ほかほか、熱る頬を冷ますそれが心地よく、悍ましい奈落から聞こえる音も小さくなった気がした。
そして一歩。また踏み外さない。
「まほろ」
次に聞こえた声は、もっと好きな声だ。
橋の先に浮いている男が両腕を広げて待っている。
そっちに行きたいという気持ちでいっぱいになり、まほろは一歩一歩、また前へ前へと進んでいく。
この世の全ての人々に死を望まれても悲しくないのは、愛してしまった人が既にこの世の者でないからだろう。
そして生きていたかったのも、この死者のせいだ。
「幽霊さん、幽霊さん」
「綺麗だな、まほろ。こっちに来て、よく見せてくれ」
「でも、わたしは、龍神様に」
「おいで、まほろ」
次の一歩ではもう、前には進めなかった。




