おやすみ
婚礼の儀式を明日に控え、屋敷の中は人が忙しなく音が聞こえる。
座敷牢のある間に来る者はほとんどおらず、恐らくあの時まほろを連れてきた父親と、共にいた男、世話を任された女中だけにしか居場所を知られていないのだろう。
明日は夜明け前から支度をし、太陽が空に昇りきったところで、まほろは龍神の元へ行く。
まほろは儀式の詳細を知らされていないが、白無垢を汚さぬように輿で穴の近くまで行き、盃を空にしてから、途中までしかない橋を歩いて穴に飛び込むらしい。
今になって死ぬことが怖くならないように、まほろは眠ってしまおうと目を瞑る。
縛られたままで体中が固まって痛い。それも他人事のようにとらえて意識を逸らす。
少し眠っていると、のし、と足音が耳に届く。反射的にこれが幽霊でも、上品にさらさらと歩く女中でもないと気が付いた。
まだ夕焼けが沈みきらない時間だろうか。少し離れた場所で人の声もするのに、ズズと古い襖が閉じた一人の男が、格子の向こうから中を覗き込む。
「……お嬢様、大丈夫ですかい。痛むところは」
「だ、だいじょ……あ」
男が持ち込んだ提灯の灯りで、それが父と共謀して自分をこの牢に放り込んだ者と気が付いた。
忘れたくても忘れられない悍ましい顔。
にやにやと笑う顔は、元綱や元久、他の者たちとも違う。だが、これもまたある種の攻撃的な視線だと直感が告げる。
この男は間違いなく、今これからまほろに危害を加えようとしている。
まほろの身の回りの世話は女中が行うことになっており、どう見ても女の世話などしなさそうな土で汚れた日焼けの肌、古く、やや劣化した股引きを履いた男がこのような場所までくる意味がまほろには理解ができない。
「だ、だれかっ」
「おっと、お静かにしてくださいよ。でないと……へへ」
ぬっと男の手が格子の隙間から入り込み、まほろの裾を力いっぱい引っ張った。
暴かれた足に外気が触れて肌が粟立つ。
「やめてください! な、なにを……」
「だからぁ、お静かにしてくれないと、綺麗なおみ足も、もっと恥ずかしいところも、皆に見られちゃいますよ」
がちゃりと楔が外れ、男が格子戸に手をかける。
「ははっ、綺麗だなあ。儀式だかと言って、なんだか変な村だが、こんな綺麗なお嬢さんが、男を知らんまま殺されるなんていけねえや。なあに、大丈夫、俺は慣れてんだ。可哀想なお嬢さんに、女の幸せをたっぷり教えてやるからなあ。騒ぐんじゃねぇぞ」
檻の戸が開けられたことで、貼られていた札がびりびりと音を立てて破れて落ちた。
ギシシと轢む音を立てて開いた戸の向こうから、やけに汗臭いその男が足を踏み入れる。
這いずって逃げようとしたところで、強引に引き寄せられてしまった。
息遣いを荒くしたどっしりと重い男が、縛られて逃げることが出来ないまほろに馬乗りになり、乱暴に襟元を暴こうとする。
しかし紐が引っかかり、皮肉な事に縛られたおかげで乳房まで晒さずに済んだまほろに、男は苛立って舌打ちをした。乱暴に着物を掴んでまほろの体をひっくり返し、その太い指で紐を解いていく。
破られた札がひらひらと揺れ始め、落ちた物は空中に舞い上がって、更に細かく砂のように千切れて消える。格子が一層強くガタガタと音を立てて震え始めた。地震もないのに、座敷牢だけ激しく揺さぶられているようだ。
まほろは見えない姿を側に感じ、バタバタともがくことをやめた。
「よし、そのまま静かにしてろよ、へへへ」
縄が緩んで体が楽になると、再び男がまほろを仰向けにしてのしかかった。
だが触れたのはほんの一瞬で、すぐに男が断末魔のような声を上げて床に転がる。
何者かに首根っこを掴まれたように、ズリズリと格子から外へ引きずり出された男を見送ると、バンと開け放たれた襖からやや冷たい夜の風が舞い込んだ。
一人になった気になって寝てばかりいたというのに、ずっと側で見守ってくれていたのだろう。
まほろの気崩れた着物を整える蒼白い両手を、ようやく動かせるようになった自分の手でそっと撫でて、愛おしい男の顔を見上げた。
紙の向こうにある男の顔は、今どんな表情をしているのだろう。捲ったら、怒られてしまうだろうか。
ゆっくりと手を伸ばし、紙の下に忍び込む。顎から唇を指先でなぞると、ぴくりとその唇が震えた。
「まほろ……好きだ」
「あっ……わ、私は……」
まほろは自分がしてしまった過ちに気付き、慌てて手を引っ込ませた。
「良い、言うな」
諭されるような、優しい声音にまほろは俯く。
「……もう、夜ですよ」
やっと出た言葉に、少し涙が混じった。
宥めるように、慰めるように幽霊のひんやりと冷たい手がまほろの頭、頬を撫でて、ぽんと肩に置かれる。
「ああ……もう、行かねばならない。もう大丈夫だと思うが、もしも何かあったらすぐに龍神を呼べ。いいか、困ったら神頼みだ。誰かではなく、龍神に頼め」
少し幽霊の手に力が入り、まほろの肩を引き寄せた。
くしゃ、と紙にしわが入る音。額に与えられる柔らかな感触に、いけないと思いつつも切なさを感じる。
幽霊は紙越しに、まほろの唇にも同じように触れようとしたが、すぐに諦めて立ち上がった。
明日は龍神の元へ行く。
会ったらまず、謝る。それから、傷を治して貰ったことに礼を言い、もう二度と幽霊のことを思い出したりしないようにする。
龍神の妻としての役を果たす。
どんなことをすれば良いのかもまだわからないが、もしもこれまでの贄姫たちがいたなら、仲良く過ごせるように、愛想良く大きな声で挨拶をしたい。迷惑をかけないよう、一緒にいて不快にさせないよう、ひたすら前を向いて明るい人になろう。
「まほろ、おやすみ」
「はい、幽霊さん……」
湿った風がまほろを撫ぜ、幽霊をかき消していく。
まほろにとって最後の夏が来て、蜩よりも早く、命が終わる。




